さえずる輝き
暗黒のドラゴンの放った黒い炎はライ・ミンを包み、砂岩を焼く。その吹き上げる高熱が烈風を呼び、ルオールに叩き付けた。おもわず尻餅をついたのは、風が強すぎたからだけではない。
ニナリの印象は、初めて会った子供の頃から変わっていない。気弱で、のろまで、そして頑固だ。何をやらせても上手くない。ハッキリとものを言わない。いつもウジウジしている。それでもランシャにだけは懐き、ランシャの言う事だけはよく聞いた。それが気に入らなかったのは事実だ。もっとも、気に入らなかったのがランシャなのか、ニナリなのかはもう思い出せない。
ルオールの眼からは涙がこぼれていた。悲しみの、あるいは恐怖の、もしくは後悔の、それらがない交ぜになった感情。もしもイルドットがランシャを催眠に引きずり込んだときに、あるいはその事をニナリのためだと言ったときに、自分が感じた違和感を口に出していれば。これはすべて自分のせいなのかも知れない。その思いにルオールは押し潰されそうだった。
黒い炎は砂岩を赤く溶かし、ライ・ミンを白い灰に変えたかに思えた。だが炎の中から飛び出す物が。それは黄金色に輝く光。一つ、二つ、三つと次々に現れたかと思うと、急カーブを描いて高速で飛び、暗黒のドラゴンへとぶつかって行く。
ドラゴンは炎を止め、翼で顔を覆った。しかし黄金の輝きは鈍く重い音を立てて翼にめり込む。一つ、二つ、三つと次々に同じ場所をめがけてめり込んだ。その思いもよらぬ重さと勢いに、ドラゴンはバランスを崩して後ずさる。
黄金の輝きたちは瞬時にドラゴンから離れると、元の場所に戻ってまた回転を始めた。それぞれに金色のクチバシを生やして。
一つの輝きが、甲高い声でさえずる。
「だから言うたでござろうが」
別の輝きも、さえずる。
「これは、とっておきなのでござるよ」
回る輝きの群れの中心、黒い炎の消えた跡に無傷で立つのは、ライ・ミン。イルドットは口元を歪め、指を鳴らした。ドラゴンの窪んでいた翼を黒い炎が包んだかと思うと、あっという間に元通りに戻る。
「それなら、こっちだってとっておきなのだねん」
そう言うと地面を指さした。
「ニナリ、影に潜れ」
その途端、暗黒のドラゴンが姿を消した。ただ地面に影だけを残して。
太陽は動かない。偽物のリーヌラの街で、ランシャはただ目を閉じて立ち尽くしていた。何秒経過したのか、それとも何時間も経っているのか、感覚が働かない。遠くに何か音が聞こえる気がするのだが、その意味するところが理解できずにいた。こんな単純な方法ではここから抜け出せないのだろうか、ランシャがそう思ったとき。
「単純とは言えぬな」
すぐ近くから聞こえたその声に、ランシャが思わず目を開けると、真正面の何もないはずの空間に、まるで椅子でもあるかのように座る人影があった。白いヒゲ、太った犬を思わせる雰囲気の、見覚えがある老人。あまりの事にランシャが愕然としていると、老人は人懐っこそうな笑顔を見せた。
「私を恨んでいるかね」
「……サイー」
そう、それは紛れもなく魔獣奉賛士サイーであった。
「無理矢理に後継者に仕立て上げた私を恨んでいても、まあ仕方はない」
「待ってくれ、俺はアンタを恨んだり、て言うか、何でここに居るんだ」
「とは言うものの、他に後継者など見つからなかったのだ、晶玉の眼を持つおまえ以外にはな。これもまた仕方ない事」
「いや、俺は本当に恨んでなんかない。それどころか感謝してる。アンタのおかげで俺は力を手に入れられた。自分の力じゃないけど、いろんな事ができるようになったんだ」
するとサイーの目が、鋭く光った。
「では、何故ここに居る」
「何故って言われても」
「聞こえの良い言葉を使ってはみても、結局のところ本心の奥底では、現実世界に戻りたくないのではないか。もう戦いたくはないと思っているのではないか。ここから出たくないと考えているのではないか」
「そんな事は」
「ないと言い切れるのか」
「言い切るさ」
ランシャは即答した。
「何の理由もなく、何の目的もなく生きていた俺に、アンタは理由と目的を与えてくれた。アンタにそのつもりがなくても、俺はいま、何をすればいいのか知っている。だからアンタの前では言い切るよ。俺には戦う理由がある。生きる目的がある。いますぐここを出なきゃならないんだ」
そう言って微笑むランシャに、サイーの視線は和らいだ。
「ならば、出て行く方法を知らねばならんな」
老人は立ち上がった。
「ここはおまえも気付いている通り、催眠によって作られた世界だ。それも極めて強力と言える」
「出られるのか」
「この世に完璧な物などない。脱出できぬ牢獄など、あるはずがない」
そしてこう言った。
「外に出ようとするな。出口は内側にあり」
「……内側?」
「外から力を加える魔法に対し、催眠は心の内側より支配する術。すなわち、この世界はおまえの中にある。おまえ自身の内側からおまえ自身が外に出られる訳がない。さらなる内側に目を向けよ。己の心を見つめよ。いまどこに行きたい。誰に会いたい。その一点に意識を集めるのだ」
ランシャは一つ深呼吸をすると、また目を閉じた。どこに行きたいか、誰に会いたいか、そんな事は考えるまでもない。
次の瞬間、ランシャの身体は点になった。大きさのない一つの点に。世界は砂丘が風に崩れるかの如く、静かに崩壊していった。
「それは紛れもなく、おまえの力なのだよ。ランシャ」
サイーの姿も崩れ去り、後には闇すら残らなかった。
地面に映るドラゴンの影。しかし本体の姿は見えない。先に仕掛けたのはライ・ミンの周囲を回転する黄金の輝き。唸りを上げて飛び、ドラゴンの影が映る地面をえぐった。だがえぐらせておいて、影は何事も起こっていないかのように前進する。次々にえぐり取られる地面を、かわす事なく、滑るが如く高速で移動した。
と、そのとき。ドラゴンの影は突然、花火のように四方八方に散った。大きな円弧を描き、ライ・ミンを取り囲むように迫り来る。まるで巨大な顎。そこに。
天から雨のように降る無数の光の筋が、細く伸びたドラゴンの影を貫いた。大地が震える。それはドラゴンの悲鳴。
ライ・ミンの周囲を回る黄金の輝きの一つが、甲高くさえずった。
「魔弓キュロプスの放つ光の矢にござる」
別の一つも、こうさえずる。
「魔性の存在には、焼けた鉄串を刺されたにも等しいでござろう」
一人で来たのではなかったのか、そんな表情がイルドットの顔をよぎる。黄金の輝きはまたさえずった。
「何の保険もかけずに、一人でノコノコやって来るはずもござるまい」
砂岩で覆われた赤茶色の地面がバリバリと音を立ててめくれ上がり、光の矢で針山のようになった黒い筋が持ち上がる。それらはうめき声を上げながら縮まり、後退し、イルドットの隣で一度黒い球体に姿を変えると縮小して光の矢を抜き落とした。そして暗黒は再びドラゴンの姿を取る。その口から漏れる小さな声。
「ぼくは……ぼくは……」
「安心するでござるよ」
黄金の輝きがさえずった。
「魔法薬の効果は、そう長くは続かないでござる」
「拙者ならば元通りに治せるでござるから」
しかし暗黒のドラゴンは、こう声を漏らした。
「……いらない」
周囲の砂岩に細かな亀裂が入る。その破片を足の先から飲み込みながら、ドラゴンの姿は一回り、二回りとどんどん大きくなって行く。
「ぼくは……ぼくは……ランシャしかいらない!」
あっという間に元の数十倍の大きさになった巨大ドラゴンの真上から、光の矢が降り注ぐ。しかし光の矢は薄紙を射貫いたかのように楽々と貫通し、地面にまで到達した。ライ・ミンの周囲を回る黄金の輝きも巨大ドラゴンに襲いかかったが、簡単に穴を空けて向こう側に抜ける。そして穴は一瞬で塞がるのだ。
その巨大さに比較すれば微かといって良い程度の軽い足音を立てて、ドラゴンはライ・ミンに向かってきた。もしこのドラゴンの全身が砂糖菓子のように容易く崩れるのであれば、攻撃されようと踏み潰されようと、ライ・ミンにはマトモに傷すらつくまい。だが果たしてそんな簡単な相手だろうか。
相手の意図が読めない、何をもって攻撃しようとしているのか見極められない、これは厄介である。無論、言霊を使えばドラゴンの動きを止め、粉砕する事も簡単だろう。しかしそれをした瞬間、再び催眠に囚われるのは明白。少なくとも向こうはそこまで読んでいるはずだ。それに安易に乗るのは、あまりにも愚かと言える。
また天から光の矢が雨のように降った。そしてドラゴンを貫通して地面に突き刺さる。ライ・ミンの周りを回る黄金の輝きの群れは、敵の脚の付け根を攻撃した。穴は空く。だがその穴がつながらない。すべて瞬時に修復される。できれば脚をもぎ取りたかったのだが、どうやらそれは無理のようだ。
ドラゴンが足を上げ、ライ・ミンを踏み潰そうとする。思わず後方に大きく飛んだ。巨大な足が勢いよく地面を踏むと、軽い音がした。足の中に空気しか入っていないかのような。もしかしたら考えすぎているのだろうかとライ・ミンは訝しんだ。
……いや、そんなはずはない。
何故ならドラゴンはいま、炎を吹いていないからだ。この軽い足で踏み潰すより、あの黒い炎の方が攻撃力は高いに違いない。なのにドラゴンは飛び離れたライ・ミンに炎を吹かず、追いかけてくる。踏み潰す事にこだわっているようにも見える。おそらく、そこには何か理由があるのだ。ならば、その理由を確かめねばなるまい。
そう、踏みつけさえすれば。イルドットはライ・ミンがいつまでも逃げ回るとは思っていなかった。この巨大な、しかし軽い砂糖菓子のようなドラゴンが自分を踏み潰そうとする事に、好奇心がくすぐられないはずはないと考えていた。自分の能力に自信があればこそ、受けて立つに違いないと。
ドラゴンがライ・ミンを踏みつけても、踏み潰す事はできない。それどころか足には穴が空き、ライ・ミンには傷もつかないだろう。だが、それでいい。この巨大なドラゴンの姿は、ただのハリボテなのだから。本体はこの巨体の内部に、ガス体として存在している。これに相手を触れさせる事が本当の目的なのだ。
たとえすべての感覚を封印していたとしても、呼吸まで止めているはずはない。口や鼻から入り込めば、たちまちにして体内を侵食し、内臓を内側から腐らせる猛毒。その毒性は、ニナリの嫉妬や羨望の強さに比例する。
自らの強さ故にライ・ミンは敗北するだろう。ライ・ミンだけではない。ゲンゼル王を始めとする人間たち、帝国アルハグラを始めとする国々は、この毒の前に倒れる。いや、倒すのだ。そして人間世界に新たな秩序が構築されるとき、新たなる王が即位する。その王の名前こそ、ランシャ。
しかし来たるべき未来を思い描き、口元を歪めたイルドットの前に、異変が生じた。黄金の輝きたちが回転速度を上げたかと思うと、ライ・ミンに近付いたのだ。次の瞬間、イルドットは目をみはった。ドラゴンも困惑したかのように動きを止めた。
ライ・ミンは顔を上げた。その隣でもライ・ミンが顔を上げた。その隣でも、さらに隣でも。右に左に前に後ろに、数十人のライ・ミンの集団が、一斉に声を発した。
「言霊よ、開け」