嫉妬と羨望
帝王ゲンゼル・ダン・グレンジアは天幕の中で横になっていた。ここ数日、夜にほとんど眠れていない。いかに頑健な肉体を誇るゲンゼルとは言え、さすがに限界はあるのだ。
そのベッドの脇に、下からひょっこりと顔を出すのは二人の道化。
「はてはて、寝てるかな」
「さてさて、起きてるかな」
「何用だ、騒がしい」
ゲンゼルの目が開いていた。道化のソトンとアトンは踊りながら歌うように話す。
「ジヌーを出発した先遣隊が全滅したよ」
「『神の山』で山津波に襲われたよ」
体を起こしたゲンゼルは、疲れているのか顔を手で押さえている。
「次から次へと。いったい何者の仕業だ。フーブか」
ソトンが言う。
「おそらくフーブは直接動いていないよ」
アトンが言う。
「でもたぶん無関係とは言えないよ」
楽しげな二人の道化に、いささかムッとした顔を見せながら、ゲンゼルはベッドを降りた。マントをまとい、青い聖剣リンドヘルドを手に立ち上がる。道化はまた踊る。
「おやおや、また一人で行くのかな」
「あれあれ、報告を待たないのかな」
「無意味に兵を消費しては、勝てる戦も勝てなくなる。それに貴様らも来るのだから、一人ではない」
二人の道化の踊りが止まった。ゲンゼルの口元に小さく笑みがこぼれる。
「どうした。まさか怖じ気づいた訳でもあるまい」
「何と戦うかわかっているの」
「どんな敵だかわかっているの」
見上げる二人の道化に一瞥をくれると、ゲンゼルは天幕の出口に向かった。
「そこは『神の山』なのだろう。ならば神と戦うだけだ」
砂岩を掘り削って建設された街、ミアノステスの背後には砂岩の山がそびえている。いや、本来ミアノステスとはこの岩山の名前であった。それがいつしか山を削って出現した街の名前へと意味が移り変わったのだ。
そんな岩山の中腹に、ランシャは難しい顔で腰掛けていた。と、不意にその隣に立つ人影。
「こんなところで考え事にござるか」
ランシャはライ・ミンの顔を見上げた。
「みんなにどう説明しようか考えていた」
「それはザッパ隊長の役割でござろう」
「だが、知らん顔はできない」
「その生真面目さは寿命を縮めるでござるよ」
ランシャは「かも知れない」とつぶやき、微笑んだ。その笑顔をしばし不思議そうに眺めると、ライ・ミンはこうたずねた。
「サイーは言霊を嫌ってはいなかったのでござるか」
ランシャは笑顔のまま首を振る。
「俺の中にあるサイーの記憶では、嫌ってはいない。どっちかと言えば憧れてたのかも知れない」
「憧れ、でござるか」
ライ・ミンは一つため息をついた。
「皮肉でござるな。拙者の方こそ、サイーに憧れていたというのに」
今度はランシャの方が、不思議そうにライ・ミンを見上げていた。ライ・ミンは小さく苦笑する。
「確かに、魔法に関する知識の量では、拙者は誰にも負けてござらん。師匠にだって引けを取らない自負がござる。されど、いかな魔道士と言えども魔法の事だけを考えて生きて行く訳には行かんのでござる」
ライ・ミンは見上げた。青く晴れ上がった空には雲も少ない。
「魔法を含めたこの世界の、広きに渡り狭きに渡り、サイーはあらゆる物事に通じてござった。魔法しか知らぬ拙者には、それがどれだけ眩しかったか。それに氷の精霊魔法については、知識だけならいざ知らず、実際に使うとなれば、サイーの右に出る者はござらなんだ。師匠のダリアムですら、サイーの前では氷の魔法を語らなかったほどにござる」
そしてライ・ミンは、ランシャに視線を移した。
「そんなサイーが氷の精霊王ザンビエンを奉る、魔獣奉賛士として取り立てられたと聞いたときには、ああ、もう拙者如きの手には届かぬ雲の上の存在になってしまわれた、と思ったものでござるが、そうでござるか、言霊を嫌ってはござらなんだか」
ランシャはそれを聞いて、しばらく考え込んだ後、こう答えた。
「たぶん……サイーは羨ましかったんだと思う」
「羨ましい?」
「魔道士として魔法の事ばかりを考えられるアンタが。いろんな種類の魔法を使いこなせるバーミュラが。羨ましくて妬ましくて、泣き喚きたいほど苦しかった」
「まさか、そんな事までサイーは記憶に残したのでござるか」
「それはサイーが魔道士として依って立つ土台だったから。嫉妬と羨望がなければ、サイーの魔法はなかったんだよ。だから言霊も使えるよう研究した。でも他人の見ている前では絶対に使わなかった。言霊でアンタに勝てない事はわかっていたからだ」
ライ・ミンは絶句している。ランシャは最後にこう付け加えた。
「サイーは言霊が嫌いだったんじゃない。言霊を使いこなせるアンタが嫌いだったんだ。そして、そんな自分が何より嫌いだった」
ライ・ミンは再び青い空を、遠い眼で見上げた。
「かなわぬでござるな」
そして己の頭を軽く叩いた。
「まったく……拙者ではかなわぬでござるよ」
「まず第一に」
リーリアは言った。
「お金の問題を解決すべきだと思うのです」
真面目な顔でそう言う妹に、タルアンは困ったような顔を向ける。
「いや、理屈はわかるけど、僕らの持ってる財産を全部使っても足りないんじゃないか。三十人分以上の報奨金だぞ」
「だからです」
「だからって何だよ」
タルアンはどうにも嫌な予感がした。リーリアは真剣な顔をグイと近付ける。
「いま父上はダナラムとの戦に出ていると聞きました」
「そ、それは知ってる」
「ならばリーヌラにはラハム兄様が残っておられるのでは」
「まあ、そりゃそうなるよな」
「ラハム兄様なら、二人でお願いすれば聞いてくださると思うのです」
「……二人って、どの二人」
「もちろん私とタルアン兄様です」
「いやいやいやいや、ちょっと待て」
タルアンは思わず首を振った。
「お願いって簡単に言うけどな、要は父上の命令に背きますって事だぞ。いくら何でもラハム兄様だって、よしわかったなんて言うはずないだろ」
「そうでしょうか。ちゃんとお話しすれば理解していただけるのでは」
「甘いよ、甘すぎる。もしそんな話をして、だったらタルアンが生け贄になればいい、なんて言われたらどうする?」
それを聞いてリーリアは目を丸くした。
「あ、それは考えていませんでした」
「やっぱりな、まったくおまえは」
「そうですね、兄上が生け贄になるという手もあるのですよね」
「違うだろ! ダメに決まってるじゃないか、そんな事!」
慌てふためくタルアンを、リーリアはキョトンとした顔で見つめている。
(こいつ、わざとなのか。いや、でも元々天然っぽいからなあ)
タルアンが戸惑っていると、リーリアは不意に笑顔を見せた。
「わかりました。では私一人で頼んでみますね」
「こらこらこら! 何でそうな……」
リーリアの姿は消えた。煙のように音もなく。
「ええぇ、マジか」
この事を誰にも話さない訳にも行かない。誰も気付かないはずがないからだ。だが、リーリアが戻って来たと皆がせっかく喜んでいるというのに、どう話せば良いのやら。タルアンは暗澹たる気分になった。
暗闇の中、声が聞こえる。誰だ。我が眠りを妨げるのは、いったい誰だ。
「……えるか、聞こえるか、聞こえるのならば応じよ」
応じよ、だと。我に向かって、何様のつもりだ。
「聞こえているのだろう。吾はいま魔剣レキンシェルを通じておまえに話しかけている。聞こえているのだろう、精霊王ザンビエン。吾の名はダリアム・ゴーントレー」
知らぬな……いや、聞いた事がある名だ。ほう、我が記憶の中にある名を持つ者か。ならば、ただ者ではあるまい。迂闊に返事などできぬ。
「迂闊に返事はできぬと考えているやも知れんが、心配は無用だ。吾を恐れる必要はない」
恐れるな、だと。
ザンビエンは暗闇の中で目を開けた。その氷の瞳はレキンシェルを持つ灰色のローブ姿を映し出す。恐るべき口が開き、恐るべき声が恐るべき言葉を繰り出した。
「面白い事を言う。その蛮勇に免じて我が声を聞かせてやろう。だがくだらぬ用件であれば、その身は生きたまま喰らい尽くされるを覚悟せよ」
しかしダリアム・ゴーントレーと名乗る者は恐れる事もなく、うなずきこう言った。
「そうそう、まさにその事よ」
「何だと」
「精霊王ザンビエンよ、吾を喰らうつもりはないか。この身を喰らわば、おまえを閉じ込める光の封印などたちどころに消え去るぞ」
「……痴れ者か」
「無論、タダとは行かぬ。吾の願いを叶える事と引き換えだ。とは言え、言葉だけでは信用できまい。いまレキンシェルを握るこの左手を差し出そう。喰ろうてみるが良い」
その左手に猛毒が仕込まれていないと、誰が断言できようか。しかし、ザンビエンが恐れるべき毒などこの世にはない。つまりザンビエンにこの灰色ローブを恐れる理由は何一つないのだ。いや、強いて挙げれば一つだけ。そう、このダリアム・ゴーントレーの言う事が真実ならば、それは真に恐るべき話だろう。
魔剣レキンシェルを握るダリアムの左手の周囲に、キラキラと白い光が湧き出した。と思った瞬間、手首から先が消滅する。吹き上がる血と激痛に、さしもの魔人もうめき声を上げて膝をついた。しかし震える右手で傷口に印を結ぶと、出血は止まり痛みも和らぐ。そしてレキンシェルを拾い上げ、その向こう側に居るであろう魔獣に語りかけた。
「どうかな、吾の血肉の味は」
肩で息をつくダリアムに、しばしザンビエンからの返事はなかった。だが突如、空間が振動した。世界が鳴動した。それが叫び声であると気付くには、数秒の時間を要した。その後再び生まれた静寂の中、震える苦しげな声が聞こえる。
「……何者だ……貴様は何者だ」
「吾はダリアム・ゴーントレー。一介の魔道士だ」
「良かろう」
ザンビエンは吼えた。
「貴様の身体を喰ろうてやろう。さあ、なんなりと望みを申せ!」
ダリアムの口元が歪んだ。
「ならば」
まだ詳細を知らされず、とりあえずリーリア姫が戻って来たと安堵する声の多い奉賛隊の中にあって、一人しょげ返る少年。赤髪のニナリは宿の中庭で運ぶべき荷物を手に提げたまま、うつむいて立ち止まっていた。その背後から声がかかる。
「こらニナリ、そんなとこに突っ立ってんなよ、邪魔だ」
振り返れば、両手に荷物を抱えたルオール。ニナリは何も言わずに脇に退いた。ルオールはそのまま通り過ぎようとしたが、足が止まる。
「またランシャの事考えてんのか」
ニナリはうなずく。
「ねえ、ルオール。ランシャは戻って来たのに、どうしてボクらに会えないんだろ」
「いや、別に会えなくはねえだろ。向こうが忙しいだけで」
「でも、ランシャはいつも隊長さんとかバーミュラとかお姫様と一緒だよ。それじゃ話しかけられないよ」
「んな事言われてもよ」
ニナリは泣きそうな顔でルオールを見つめた。
「ランシャはボクに会いたくないのかな。ボクが嫌いになったのかな」
「おいおい、そりゃおまえ、考えすぎだって」
「どうしてだろう、何がいけなかったんだろう、ボク何か悪い事したのかな」
「ちょっと待てって。あのなあ」
ルオールは困った顔で荷物を置いた。
「そりゃアイツにも悪いところはあるだろうさ。だけどな、向こうにも都合ってもんがあるんだぞ、何でもかんでもおまえの思う通りに行く訳ないだろうが」
「ランシャが悪いなんて言ってない、ボクが悪いんじゃないかって言ってるんだ」
「同じだ、馬鹿野郎」
「同じじゃないよ!」
ニナリはとうとう泣き出してしまった。
「同じじゃないんだよぉ」
困り果てたルオールの背後に、荷物を持った褐色の大男が迫る。
「あれあれ、喧嘩してるのかなん? いけないよん」
イルドットの登場に、ルオールは助かったという顔。ニナリはまだしゃくり上げて泣いている。
「とりあえず話してご覧、力になるからさん」
イルドットは荷物を置いて優しい笑顔を見せた。