壊れた日常
彼女は快くモデルになってくれた。
「もちろん!」と言った彼女が、寧ろ「待っていました!」と言わんばかりに、服を脱ぎ始めたときは慌てて引き留めたものだ。
1ヶ月の製作期間が終わり、筆を下ろした時に私が見たのは、青空の中で照り輝く笑顔を浮かべる、麗しい女性だった。
自分で描いた絵のはずだが、私はしばらくその美貌に見とれて呆然としていた。
その様子を見た彼女が、台の上から降りキャンパスを覗きにきた。一瞬目を丸くした彼女が、涙を流して「ありがとう、カズくん!」と抱きついてきた。私はそんな可愛らしい彼女を前にして、絵描きの道に進んで良かった、彼女の夫であれて本当に良かった、と心から思った。
その頃を境に、私の仕事は忙しくなった。教会の壁画、新聞の挿し絵、画廊の製作、作品展の開催。多くの仕事が舞い込んできた。
家を帰れない日も多くなった。遅くなる旨を伝える度、彼女は悲しそうな顔をして、それでも最後には笑って「頑張ってね!」と送り出してくれた。
画家として生活をしていくのは至極大変なことなのだ。この職業だけで豊かな生活ができる、ましてや誰かを養う何てことが可能なのはほんの一握りの人間。そして私は、その一握りになれるところにいたのだ。彼女の優しさに甘えるわけにはいかなかった。
彼女をモデルに絵を描くという夢が叶ったからこそ、その頃の私は自分のための夢ではなく、彼女のための夢を叶えるために精力を尽くすべきだと考えた。
私も、寂しくはあった。宿泊先で急に彼女の肌が恋しくなって、眠れなかった夜もあった。「仕事の邪魔になるから」と、彼女からは控えていた電話も、私からは頻繁にかけた。旅館の黒電話のダイヤルを回す度、出てくれるか不安な気持ちと、彼女の声が聴ける期待が私の頭の中を席巻した。出てくれなかったことなどなかったが。私の声を聴いて恍惚の声をあげ、近況報告や他愛のない世間話をする時間が幸せだった。
その日も、彼女の声を聴こうと自宅の番号のダイヤルを回し、受話器を片手に耳にあてた。
ダイヤル音が鳴り響く。
彼女は初めて、出てくれなかった。