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臙脂色の時雨  作者: Lol提督
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無謀な夢

久しぶりに真面目に小説を書いてみようと思います。

 街並みが雨に煙っている。昔栄えていたこの街も、今ではすっかり廃れてしまって影もない。廃屋となった港町には、停泊されたままの船が無数に放置してあり、長い月日の中で劣化し錆びて朽ち果てていた。雨に濡れたそれらは、黄土色の光沢を放って海へと還る。その周辺に雨粒によって作られる放射状の球面波。それを飲み込むように迫り来る波。

 コンクリートに打ち付ける穏やかな白波が、しかしそれが穏やかではないことを表していた。

 何故か私は不思議な感覚に陥って、その情景に腰を下ろしてみた。遠くの山際まで、弧を描くようにして海岸線を作っている港町。

 何故か向こう側には夕焼け空が広がっていて、こちらにだけ降り注ぐ雨に臙脂色の彩りを含ませていた。

 いつも見ていた風景のはずなのに

 こんなに秀麗な情景は、他でも人生に二度とはなかった。

 あの時の私はそれを悟ったのだろう。雨の中、おもむろに背にしていたキャンパスを広げ、そこに色彩を落としていった。


 若い頃、私には許嫁がいた。端麗な容姿を持ち、それでいて可愛いさも併せ持った私の幼馴染だ。いつも私のことを「カズくん」と呼んでは甘えてくる、堪らなく可愛い彼女。私もそれに応えるように、彼女を抱きしめたり、恥ずかしながら口付けをしたりした。その頃は私も若くて20歳、彼女は早生まれで20になったばかりだったから、20年前の冬の頃だっただろうか。そうか、もう20年も経つのか。

 その4年前、雑誌で掲載されていた絵画を見た16歳の私は、その麗しい肖像に目の玉を殴られたような衝撃を受けた。表題を「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」。和名で「可愛いイレーヌ」と称される、ピエール=オーギュスト・ルノワールの作品。印象派と定義される絵画の内最も美しい一枚とされる、と脚注に記してあった。しわや動きを表すため、幾重にも筆のタッチが重ねられた髪の毛、衣服。真珠のような輝きを見せる、溶け合うような柔らかさを持った肌。この絵画の、いや、彼女の美しさをこのまま挙げ続ければきりがない。私は何より、彼女の少女らしい可憐さの内に秘めた大人びた出で立ちに胸を打たれたのだ。

 その雑誌には、他の印象派の絵も掲載されていて、印象派の定義というものが肖像画の範疇に収まらないことを知った。モネの「印象 日の出」、マネの「睡蓮」、シスレーの「ブージヴァルの夏」など。それらも私にとって衝撃を与えたが、イレーヌのものほどではなかった。私が好きなのは、やはり印象派の肖像画なのだ。

 いつか、私の可愛い幼馴染をキャンパスに描きたい、と言う思いが、私の中に芽生えた。しかし、絵の経験がない私には、才能もなければ、そもそも画材すら持っていなかった。

 私は、玩具や服、「俗」とされるものはほとんど売り払った。そうして出来た僅かな金を使って、まずは画材を手に入れた。

 幼馴染は急にみすぼらしくなった私を不思議に思い、心配してきたが、私の「気に入らなかった」の一言で特に詮索するようなことはしなくなった。それが嬉しかった。優しい幼馴染への愛はますます深まり、不器用な絵にだけはするまいと、まずは練習がてらに風景画の製作に取り組むことにした。

 私は、年の暮れに冬山へと繰り出し、馴染みのない筆をとって落書きを作った。本当に酷い絵だ。そこに描かれていたのはは、ただの風景しかなかったのだから。その落書きの上には、確かに事実が乗っていたが、そこに私の受けた印象はなかった。

 しかし、その時の私の心は大層な満足感に満たされて、どうしようもなかった。いや、16歳にしてはいい出来だったかもしれない。図に乗った私は、親に何と言われようとも「自分は絵描きの道に進むんだ」と固く決心して聞かなかった。

 そして、私の壮大で無謀な夢に賛同し、応援してくれたのは、幼馴染の彼女だけだった。もうこの頃には彼女も私の許嫁として、出来るだけ私の言うことに合わせようとしていたのかもしれない。とにかく、絵を見せたときの彼女といったら「わぁ!凄い!凄い!綺麗だなぁ〜!」と子供みたいにはしゃいで絶賛したのだ。私はますます図に乗った。

 18を過ぎ早々に結婚した私は、その頃世間をざわめかせるほどには、絵に精通していた。彼女もまた、私の妻として名乗れなかった2年近い歳月をもどかしく思っていたのか、仕切りに愛を求めてきた。私はそんな彼女の美しい髪の毛を右手で弄んでいるうちに、もうそろそろ心の内の秘め事であった「彼女をモデルに絵を描く」という願望を打ち明けてもいい頃合いなのではないかと思った。

 当時8歳だったイレーヌとは大きく年が離れた彼女だが、間違いなくいい絵になることは確信していた。

 そうして私は彼女に、絵のモデルになって欲しいと頼むことにした。

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