後編
気が付けば私は自分の家の前にいた。不動産屋から立ち去り、自転車に乗り、ぼーっとしたまま自転車をこいでいたことはおぼろげに覚えている。きしむ鉄製のドアを開け、狭い四畳半の部屋の明かりをつけた時、座卓の下に広がった血の跡が目に入る。
そうだ、そういえば、これを掃除するための薬剤を買いに出かけたんだ。しかし、もう一度駅前へと戻る気力が私には残っていなかった。私はフローリングに染み付いた、固まりつつある血痕に手を触り、それから台所の上に放置したままの血の付いた包丁へと視線を向けた。
その時、玄関のチャイムが鳴った。訪問客などめったにいないため、不吉な予感がした。私がゆっくりとドアを半開きにすると、そこに立っていたのは、糊のきいた制服に身を包んだ二人の警察官だった。
「何の用ですか?」
私は確かに社会の底辺ではあるが、犯罪ごとに手を染めたりすることはない。しかし、彼らのような存在を目の前にすると、真っ先に自分が何かをしでかしたのではないかと考えてしまうから不思議だ。彼らは警察手帳を開いて見せた後、私を安心させるかのような優し気な表情を浮かべる。
「実況見分です。だけどまあ、安心してください。これはあくまで形式的なものに過ぎませんから。それではお邪魔致します」
そういうと、私に説明をした警官は後ろにいたもう一人に合図を送り、ずかずかと部屋の中に入りこんできた。そして、警官たちは勝手に私の部屋、そして、台所に置かれた包丁の写真を撮り始め、それから一人は作業バックから刷毛のような何かを取り出し、包丁の柄の部分に銀色の粉をなでるようにして塗布し始めた。それはドラマの中で、鑑識が指紋を採取している時の様子とまったく同じだった。
「あの………一体何を調べているんですか?」
「いや、明らかに自殺だとわかりきっていてもですね、一応、他殺ではないかという調査をしなければならないんですよ。」
私の部屋のクローゼットやらを開け閉めしながら警察官がぶっきらぼうに答える。そして、腰にぶら下げたバックからペンとメモ帳を取り出し、ペン先をなめながら私に質問をし始めた。
「ところで、誰かから恨まれたりしています?」
「いえ、特には………」
「じゃあ、職場で何かトラブルとかは?」
私が首を横に振ると、警察官は満足げな表情を浮かべ、「他殺の可能性はないようですね」と独り言ちた。
「じゃ、これで検分は終わりです。失礼しました。おい、帰るぞ!」
目の前にいた男が、もう一人の鑑識役に声をかけた。しかし、鑑識役が声掛けに気が付かなかったので、目の前の警官がその男の尻を思いっきり蹴り上げる。鑑識役は猫のような叫び声をあげた後、飛ぶように家の外へと飛び出していった。目の前のもう一人も私に軽く一礼し、黙って私の部屋から出ていった。
そして、彼らと入れ替わるように、こわもての男が一人チャイムを鳴らすことなく入ってくる。私は彼を知っていた。彼は私が借金をしている消費者金融の人間だった。
「すみません、今月末まではきちんと返しますので……」
ある意味警察よりも恐ろしい男を前に、私は反射的にそう口にした。しかし、怒鳴られると思いきや、男は不機嫌になるわけでもなく、軽い挨拶をしたのち勝手に部屋の中にあがりこむと、先ほどの警官と同じように勝手に部屋の写真を撮り始めた。
「いや、もうその必要はないんだから気にする必要はないぜ」
男は穏やかな口調でそう言った。彼がそのように優しい言葉をかけるのは、私が彼の会社に初めてお金を借りに行った時以来だった。
「どういうことでしょうか」
「いや、だからもう自殺しちゃうんだからさ、返そうにも返せないじゃんか」
私は頭がくらくらし始めた。何が何だかわからないというレベルではない。まるで、気が付かない間に異世界へと投げ込まれたかのようだった。
それと同時に、私は途方もない恐怖に包まれた。みながみな、私が自殺することを当然の前提として動き始めている。それはまだいい。何より私を恐怖に陥れたのは、誰一人としても私の自殺をを止めようとしてくれなかったことだった。
「でも………私が自殺すると困るんでしょう? 借金だってまだ残っているんですし……」
私は何かの救いを求めるように男に問いかけた。しかし、男の返事は残酷なものだった。
「いやね、昔はそうだったんだけどよ。今では事情が違ってるのよ。債務不履行保険ってのがあってな、金を貸したのに帰ってこない時のための保険があんのよ。会社の過失がないってことが証明された場合には、貸した分の半分が返ってくる仕組みでさ、うちの会社もそれに加入しているわけ。だから、こうやって保険会社に提出する用の証拠を撮影してんのよ。それに………どうせこのままずるずる貸し続けても、返済なんて無理なんだろ?」
「そんな!」
私の声はかすれていた。男はそんな私をちらりと一瞥しただけで、慰めの言葉一つかけてくれなかった。そして、「じゃ、帰るわ」一言だけ言い放ち、出ていこうとした。私は彼の腰にしがみつき、なんとか帰らないで欲しいと懇願した。
「返します! 私に借金を返させてください!」
「そんなこと言われたってよ」
「そんな保険なんか当てになりませんよ! 私に! 私にお金を返済させてください!」
しかし、男は私を足蹴りし、私を暴力的に突き飛ばすと、玄関にぺっと唾を吐いて出ていってしまった。残された私はたった一人で、おうおうと泣くことしかできなかった。頬を流れた涙は顎の先へとつたい、床の上にぴちゃりと音を立てて落っこちた。
それから私の生活は荒れに荒れた。日雇いの仕事へ行くわけでもなく、買い物に行く以外はただ一人家にこもって酒におぼれた。わずかな貯金を散在し、クレジットカードのキャッシュを限度額まで使いつくした。もちろん、そんな私を心配してくれる人間などいなかった。やってきたのは、前に少しだけ話をした不動産屋と歯抜けの男だけで、その二人も結局は部屋の内見に訪れただけだった。
それでも初めのうちはまだ、絶対に自殺してやるものかという気持ちは捨てていなかった。命は尊い。他の人間がなんと言おうと私には生きる権利があるし、仮に自殺するとしても、他の連中が指定した日に、指定した方法で死ぬなんてまっぴらだと考えていた。
しかし、酒を飲み、孤独感に襲われると、葬儀屋の男、不動産屋、家を借りたいと言っていた男、さらには金融会社の人間のことが頭をよぎった。私が死なないことで、彼らに少なからず迷惑をかけてしまうことは明らかだった。私にも私の人生があったが、彼らにも彼らの人生があったし、さらには一対複数だった。
私が自殺することを前提に社会は運動を始めており、それを止めることが本当に正しいことなのかわからなかった。世界が私の自殺を望んでいるにもかかわらず、生きる価値のないちっぽけな私一人がわがままを貫いていいのかわからなくなった。慰めてくれる友達も恋人もいなかったし、それを補えるだけの確固たる自分も持ち合わせていなかった。世界の運動に歯向かえるだけの価値が私にあるのだろうか。誰にも必要とされない、社会の底辺である自分に。私は救いを求めて、自分の境遇、自分の過去を振り返ってみた。しかし、それらはむしろ世界の方に味方をした。私はまさに孤立無援だった。
次第に私は生きたいと思うことに罪悪感を覚え始めた。それだけでなく、ありとあらゆることに対して罪悪感を覚えるようになった。お金を借りるとき、さらにはお金を使う時にさえ、針で刺されるのような罪悪感に私は苛まれた。呼吸によって自分が貴重な酸素を消費していること。自分がごみを出すたびに、清掃業者の仕事を増やしてしまうこと。私は世界によって生かされている一方で、いかに私が世界にとって迷惑な存在であるかという事実に驚愕せざるを得なかった。
私はカレンダーと時計を見る。私が自殺するはずの時間が近づいていた。私は泣きながら台所に行き、包丁をとってきた。包丁の先には私の血がべっとりと付着していた。まさに包丁は一週間前から首を長くして私の自殺を待ち望んでいた。
私は座卓をどかし、血痕の中心に立った。私は包丁の先を私のお腹にちょっとだけ押し付ける。ちくりという痛みが私の身体に走り、どうしようもなく怖くなって私は泣いた。どうせ自殺するなら、せめて楽な方法がよかった。しかし、私は包丁で自殺しなければならない。そうでなければ、包丁についた血と床に染み付いた血痕の期待を裏切ることになる。私は包丁で自分の腹を刺し、自殺しなければならない。世界がそれを望んでいる。私はそう自分に言い聞かせ続ける。
私はみっともなく泣いた後でやっと決心がついた。私は包丁の柄をぎゅっと握り締める。そして、目をつぶり歯を食いしばる。そして、私は包丁を持った手を大きく振りかぶり、腕に力を入れ、勢いよく、包丁を私の腹に突き刺した。