前編
私が台所に立ち、半額で売られていた絹豆腐を切って食べようとと久しぶりに包丁を取り出したそのとき、包丁の刃先がルビーのように赤く鮮やかな液体でべっとりと濡れていることに気が付いた。私はぎょっとして、思わず包丁を落っことしそうになる。
改めてじっくりと確認してみるとそれは血だった。なぜ、ずっと台所の引き出しにしまっていた包丁に血が付いているのか。もちろん、ここ最近包丁で何かをさばいたこともなかったし、誰かが私のあずかり知らない所でこの包丁を取り出し、台所で借りて肉か魚をさばいたとも考えられなかった。金目の物など何もないみすぼらしいオンボロアパートの狭いワンルームに、誰が好き好んで侵入するだろうか。侵入するとしても、私の部屋よりもずっときれいで清潔な部屋を選ぶはずだろうに。
しかし、それではこの血の正体はいったい何なのか。私は腕を組み、加齢ですっかり機能の衰えた脳みそをフル回転させる。ただ、いくら考えても答えが出るようには感じられなかった。私はすっかり食欲がなくなって、包丁を台所に放置し、すぐそばの座椅子へと腰かけた。しかし。座卓の下に足を延ばしたその時、床の一部分がほんのりと湿っていることに気が付いた。私は座卓を持ち上げ、その部分を確かめる。すると、半畳ほどのスペースに真っ赤な血痕が染みついていた。私は思わず声を出して驚いた。なぜこんなところに血の跡が? しかも、量からして鼻血どころの話ではない。それはパッと見ただけでも、人が一人死んでいてもおかしくないほどの量だった。
私はパニックになりかけていた。包丁についた血。そして、床に染み付いた大量の血。わけがわからなくい。私が誰かをこの部屋で殺したのか? いや、憎たらしい人間など腐るほどいるが、そいつらを殺せるほど私には度胸がない。記憶ははっきりしているし、ここ数日、いや数時間だって意識を失ったことはない。では、なぜ私の部屋に血が? それに、この量からして人間の血である可能性が高いが、そうだとしたらこれは一体誰の血なんだ? 私には友達も恋人も家族もいないし、この部屋に越してきてから誰もこの家に入れたことはない。この家に入ったことがあるのは、私以外の誰もいない。そうなると、この血の持ち主は………。
「私?」
私は慌てて半裸になり、洗面台の鏡で自分の身体を確認する。しかし、仕事でできたあざがあちこちにあるだけで、出血をうかがわせるような傷跡は一つもない。しかし、考えてみればそれは当然だった。仮にあの血が私の血だとしたら、こうして二本足で立つことすらできていないはずだ。
再び謎に包まれる。一体、この血はなんなのだろう。洗面台に移った私にそう問いかけた。しかし、もちろん、鏡に映った私が答えを教えてくれるはずもない。
わけがわからず途方にくれていたその瞬間、座卓の上に置かれていた携帯の着信音が鳴る。私は慌てて、今に戻り、携帯を手に取る。金融機関からの支払いの催促かと思ったが、それは全く知らない番号からだった。きっといたずら電話だろう。しかし、いたずら電話でもいいから誰かと話がして、気を紛らわせたい気分だった。私はためらうことなく通話ボタンを押す。
「もしもし、私、生き生き健康葬儀社の中貝です。こちら○○様の携帯でよろしいでしょうか?」
男の陽気な声が聞こえてきた。私は「はあ」と気の抜けた返事をする。なぜ葬儀社から電話がかかってくるのか。全く心当たりがない。
「ええと………どういったご用件で?」
「はい。一週間後に予約されているご葬儀の件で連絡させていただきました。もちろん、連絡といっても、プランの内容についての確認ですけどね。では、早速プラン内容をご説明………」
「ちょ、ちょっと待ってください! 私は葬式の依頼なんてしてませんよ!」
電話越しに男の戸惑う声が聞こえてくる。そして、次に男がパラパラと手元の資料か何かをめくる音がした。
「えーと、こちらではきちんと承っているんですがね……」
「何かの間違いですよ! それに一体、誰の葬式なんですか!」
「誰って………○○様のご葬儀ですよ」
男の言葉の意味を私は理解できなかった。理由は簡単だ。私はまだこうして生きているからだ。
「そんな失礼なことをよく言えますね。私はまだ生きているというのに」
「それはそうですよ。まだ○○様はご存命です。そうでなければ、すぐにでも葬儀をあげなければならなくなりますから」
「全く意味が分かりません」
「えーと、つまりですね。○○様が一週間後に死なれる予定なので、そのための葬儀を前もって準備しているということです」
男の口調は淡々としたもので、まるで自分の言っていることが寸分たがわず事実であると確信しているかのようだった。しかし、私はその瞬間、この男は私をおちょくっているのだと気が付いた。それと同時に、よくもまあこんな嘘が付けるものだと感心した。なかなかユーモアが効いていて面白いじゃないか。もう少し男の悪ふざけに付き合ってやろうと思った。
「ああ、そうなんですか。ちなみになんですけど、私は一週間後にどういった原因で死ぬんですか?」
パラパラと資料をめくる音。
「自分の部屋で自殺ですね。○月○日のちょうど19時に、包丁をぐさっと自分の腹に突き刺して死んでしまわれるようです」
何が自殺だ。病気や他殺ならまだ気味の悪い占いで説明が付くが、私が自殺などするわけがないだろう。それに自殺するとしても、いつ死ぬかなんて私の気持ち次第じゃないか。
「で、喪主は誰が?」
「○○様の遠い親戚にあたる、××様ですね」
私はその名前を聞いて、少しだけぞっとした。なぜなら××は男の言う通り、私の遠い親戚だったからだ。もちろん、今のような生活になってからは何年も連絡を取ってはいないが、今の私が死んだ場合に真っ先に連絡がいく人間であることには間違いなかった。いたずらにしては妙に手が込んでるな、と私は少しだけ不安に駆られる。
「で、プラン内容ですがね。○○様は自殺ということで、早期予約割引に加えて、自殺者割引が適用されますので、価格としては破格の△△万円でのご提供になります。最近は他社との競合が激しくてですね、こういったユニークなキャンペーンを張らないとなかなか顧客を獲得できないんです。特にうちみたいな中小ではですね。正直こちらとしても、かなり無理をした料金設定でしてね。これ以上の割引はどうしても無理なので、値引き等はご勘弁くださいよ」
男が卑屈そうに笑う。
「キャンセルはできるんでしょうね?」
早く電話を切りたい私は何気なしにその質問をぶつけてみた。しかし、その瞬間、男の声色が一変し、急にあたふたし始めた。
「そんなこと言わないでください! もう会場やお坊さんの手配まで完了してしまっているんです! 今さらキャンセルだなんて無理言わないでください! この契約は私がなんとかもぎ取った契約なんです。もしご破算となってしまえば、上司から何を言われるか………。私は最近セントバーナードっていう大型犬をローンで買ったばかりなんです! ローンの支払いもですし、犬の餌代のためにお金が必要なんです! お願いですからキャンセルだなんて冗談でも言わないでください!」
「そんなの知ったことか!」
私は怒りのままに相手を怒鳴りつけ、電話を切った。すぐさま同じ番号からの着信音が鳴ったが、もちろん無視した。しかし、男の哀願するような声が急に思い出され、怒鳴るまではなかったかなと私は少しだけ反省した。しかし、男の言っていたことは、あたかも私に必ず死んでくれとお願いしているのと同じだ。相手の事情も分からなくはないが、人の命をなんだと思っているんだ。私が苛立ち、すぐそばのごみ箱を思い切り蹴とばした。
しかし、いくら不機嫌になっても、床に染み付いた血が消えるということはない。別にこれが私の血だとはさらさら信じるつもりはないが、このまま放っておくのも気味が悪い。とりあえず、クエン酸か重曹をかけ、ごしごしたわしか何かで磨けばどうにかなるのかもしれない。私は洗面台の下を確認してみたが、あいにくどちらも切らしている。私は面倒だなと思いながらも部屋着の上からジャンパーを羽織り、駅前のドラッグストアへと向かうことにした。
ペダルをこぐたびにぎしぎしと悲鳴のような声をあげるおんぼろ自転車を駅前の無料駐輪場に止め、私はドラッグストアの店へと歩いて行く。しかし、私は偶然、駅前にある不動産屋の壁に貼られたチラシに目が留まった。何気なく視界に入れたそのチラシ。しかし、一瞬私は自分の目を疑った。足を止め、そのチラシの内容をもう一度確認してみる。チラシに掲載されていたのは、私が今現在住んでいるアパートの、まさに私が住んでいる号室だった。
私は最初、別の号室と間違えているのではないかと思った。賃料が、私が払っている二分の一しかなかったこともその疑念を後押しした。私はチラシをじっと見つめ続けた。こうしていれば、もしかしたらチラシの間違いが徐々に正されていくのかもしれないと思ったのだが、いつまでたってもチラシの内容に変化はなかった。
しばらくすると、店の中から店主が出てきた。
「なんでこんなに安いのかと思ってるんでしょう?」
私が返事をする前に、店主がこちらが聞きもしないことをぺらぺらと喋り出す。
「この部屋はね、いわゆる事故物件なんです。だから、こんなに安い。でも、別にそんなの気にしないっていうなら、おすすめですよ。きちんと部屋は掃除するし、改装だってする予定ですから」
「どういう事故物件なんですか」
私は恐る恐る尋ねた。すると、店主はなんでもないような口調で返事をした。
「なんでもね、この部屋の住人が一週間後自殺するってさ」
私は頭が真っ白になる。なぜ、ここでも私が一週間後に死ぬことになっているのか。何も言えなくなった私を尻目に、店主は陽気に話し続ける。
「事故物件ってね、気にする人は本当に気にするけど、気にしない人は本当に気にしないんですよ。だから、ここまで値段が落ちてると、すぐに埋まっちゃいますね。お兄さんも狙ってるなら、今のうちに押さえておいたほうがいいですよ」
「いえ、私は………」
私はこの部屋の住民で、なぜか一週間後に自殺することになっているものです。そう言おうとしたその時、突然後ろから男が会話に入ってきた。
「おお、ここ安いね。いいじゃないか」
男はくたびれたカーキのジャンパーの下に襟元がよれよれになった黒のtシャツを着ていて、首元からは中に着こんでいる白い肌着をのぞかせていた。右側だけの口角が上がり、口の中は歯並びががたがたで、所々歯が抜け落ちていた。私が仕事場でよく一緒になるような類の男だった。
「ここは事故物件ですよ。だからその分安いんです」
「そんなもん気にしねぇよ。こんだけ安いとずっと生活が楽にならぁ。助かるねぇ」
「あと、ここは即入居ができないですけど、それでも大丈夫ですか?」
「どのくらいだ?」
「ええと、入居者が一週間後に自殺して、そのあと、血の掃除やら改装を済ませて………。大体三週間後くらいには入居できると思いますよ」
男は少しだけ腕を組み考えた後で、「それでもいいや」と店主に告げた。店主は私の方を見て、あなたはどうしますと商人らしいずる賢そうな視線を送ってきた。私が何も言えずにただ首を振ると、少しだけ不満げな表情を浮かべた後、男を店内へと連れて行った。
一人残された私は、もう一度確認のためチラシの内容を確認した。しかし、その内容はやっぱり私が住んでいるアパート、号室だった。