二 料理
夕刻、出かける支度を済ませて縁で涼んでいると、庭に若者が駆けこんできた。
「先生」
すぐに膝をついて、ひれ伏すように玄馬の前で頭を垂れる。
「またお前か。何度来ても同じだ」
芝山平司。たびたびこうしてやってきては、弟子入りを志願する言葉を並べたてる。通うようになって、もうふた月にはなるだろうか。
熱心なのはわかるが、どんな言葉を並べられても玄馬には響かなかった。
こちらを真直ぐに見つめてくる眼は澄んでいて臆するところもなく、精悍な顔立ちで躰もがっしりしている。海に出ているのか、潮灼けの肌の色をしており、立ち姿は堂々としたものだ。二十代半ばくらいだろう。
この若者のことを、玄馬は嫌いではなかった。なにか懐かしい、まぶしいものを見ているような気分になる。だからといって、弟子を抱えるつもりはなかった。砥ぎの技術を誰かに受け継がせるべきだ、とも考えていない。刀など、必要とされなくなるときが来たほうがいいのだ。玄馬は、そう思っていた。
「すまんがな、若いの。もう出かけねばならん」
「わかりました。日を改めて、またうかがいます」
立ち去る玄馬の背に、平司の声が追ってきた。あの様子では、どう断ってもまた来るだろう。
穂香の見送りを受けて、家を出た。
西からの陽にさらされている、道端の木の陰が黒々として見える。透かした葉が朱く見えるのは、斜陽のせいだけではないようだ。
見あげると鱗雲が夕陽を受けていた。
玄馬は、久しぶりにこうして表を出歩いていた。前に同じ道を歩いたときは、じわりと肌を灼くような陽が射していた。風も、灼けた道を撫でて吹くような、夏のそれではなくなっている。そこかしこに、秋を感じながら歩いた。
そういうことのひとつひとつを、どこか健気なものだと思うようになったのは、五十をいくつか過ぎてからだ。季節の移ろいを見つめることで、自分の生の終わりが近づいているのだと、確かめるような気持ちにもなるのだった。
古い民家を改装した料理屋が見えてきた。
いつもなら砥ぎ終えた日は、人に会ったり出かけたりせず、食うものを食ったら泥のように眠る。今日も例外なく、そうするつもりだった。
打ち水のされた平らな石を踏んで、入口に向かう。
戸口の横には、見あげる大きさの石像が置かれている。笑みを浮かべ、でっぷりと突き出た腹を抱える男の像。その腹で、この店の料理の美味さを伝えようとしているのか。
屋号に一度眼をやり、戸をくぐって店内へ入る。
かすかに魚屋に漂っているような臭気。受付けの棚台の向こうに大きな生簀があり、海の魚が所狭しと泳ぎまわっている。
手入れは行き届いている。臭気は、魚の腹を開けたときのにおいが建物の木に染みついているせいかもしれない。天井は高い。年季を感じさせる黒い立派な梁は、ここがもともと古民家であったことをうかがわせる。
「兵藤という者だが」
出てきた店の者に名を告げると、すんなりと奥へ通された。まだ時間が早いためか、ほかに客は入っていない。いくつもある座席の間を通り抜ける。おそらく一番奥の客室へと向かっているのだろう。
板敷きの廊下の角に、大樹の根のあたりを縦に割ったような、見事な卓が置いてある。据え置かれている椅子も丸太を伐ったもので、座面に年輪が見えた。
卓の端は平らに均されて艶があるが、中央は自然のままの隆起が残されており、そこには樹の根の内に抱かれるような恰好で、技巧を凝らした偶像が彫られている。信仰者が手を合わせるような偶像ではないが、不思議と、見事な大樹がより価値のあるもののように見えるのだった。
自然のものと、民の技術が共存する。どちらか一方が秀でていては成立し得ない。そこに、藝術の法が息づいているのかもしれない。いかにも国士の連中が好んで使いそうな料理屋だ。と、玄馬は思った。
一番奥の部屋の前に男が二人、座している。なんでもないようにしているが、隙はない。かなりの腕だろう。
「おう、兵藤さん」
部屋に入ると、男が声をかけてきた。猪首のずんぐりとした男。このあたりの地方を治める、領主の田所葉舟である。
玄馬は軽く目礼した。この店ははじめてだが、こうして呼び出されるのは、もう三度目になる。
田所は五十五になるはずだ。鬢のところは白くなっているものの、したたかさを宿すようなぎょろ眼は気力に満ちている。
「まあ、まずは一杯やってくれ」
肚に響くような低い濁声で、田所が酒を勧め、そばに控えていた若い男に玄馬の酒を注がせた。断ったところで執拗に勧めてくる。それがわかっているので、黙って盃を受け取り、呷った。
悪くない酒だった。ただ、飲む相手というものはやはり重要で、本当はもっと美味い酒なのかもしれない、と玄馬は思った。
店の女が、料理を運んでくる。刺し身や天ぷらなど、やけに豪勢なものが並ぶ。
本題には入らず、田所が食べはじめた。ひと息置いて、玄馬も箸を持つ。
刺し身は厚みのある切り方で、脂の乗った鰤、表面を軽く炙った鯛、烏賊が並んでいる。海老は頭を立てて飾りにしながら、くるりと曲げた尾の真中にある棘を身に刺して固定してある。定石通りに、大根のけんを枕にした刺し身と一緒に、大葉、蓼、山葵が添えてあった。
口に含んだ烏賊の甘みが広がる。旬でないものも生簀で泳がせておいたのか、どれも新鮮なものだった。
天ぷら皿の端に添えられた大根おろしを、つゆに溶く。天ぷらは下味のしっかりついた海老が三尾。格子状に飾り庖丁の入れられた茄子。白身の魚はおそらく鱈だろう。大葉もぱりぱりに揚げてあった。
「例の話は、考えてくれたかね」
いくらか食べ進めたところで、田所が口を開く。玄馬は、箸を揃えて置いた。
「お受けするつもりはありません。前回、その話は済んだはずです」
「しかしな、決して悪い話ではないだろう」
「卓に着く前から、成立しない話もございます。ご理解ください、田所様」
「いくらなら、考えてもらえるかね」
「金の問題ではありませんよ」
「これはいわば商談のようなものだ。金以外で、話は進まんだろう?」
「ですからお受けできないと。金で動かない人間もおるのです」
しばらく沈黙が部屋を覆った。田所の顔が赤くなっている。酒のせいではないだろう。いつも磊落そうに振る舞うが、それが本性ではない。
田所が小さく咳払いをすると、控えている若い男が擦り寄るようにして近づき、盃を満たした。酒を注ぐ挙措は男娼の見せる媚を含んでいるように、玄馬には見えた。田所にそういう趣味があるのかどうかは知らない。
「兵藤さん。意地を張ることだけが生き方ではないよ。この先、仕事がなくなることだってある。それからどうやって食っていくね?」
「私のことを案じて、再三、求めておられるわけではないでしょう、田所様」
玄馬はそう言って、微笑んでみせた。田所の頭にあるのは、金のことだけだ。すでに肚は煮えているだろう。思い通りに事が運ばない理由を、金以外の理由で考えられない。そういう男だ。
小鉢に盛られた干し大根の煮つけに箸を伸ばす。箸休めの位置づけではあるが、手抜きは感じられない。さり気なく振りかけられた炒り胡麻が香ばしさを加え、薄味の煮物にも退屈さを感じさせない。
美味かった。しかしやはり、本当はもっと美味いのだろう、と玄馬は思った。