表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
砥石に語りて  作者: hidden
1/7

一 生業

 汗が、(したた)っていた。

 そのことに気づいたのは、流れた汗が眼にしみたからだ。いつから流れているのか、知りはしなかった。

 兵藤玄馬(ひょうどうげんま)は、それでも手を休めなかった。

 強情な刀だった。無銘だが、悪くない。強情なのは、持ち主の気性を映しているのだと玄馬は思っていた。

 仕上げ()。水を帯びるとぬめりを感じるような、滑らかな砥石(といし)だ。手入れは怠っていないので、砥石にはかすかな反りもない。

 玄馬はひとつ仕事を受けると、仕上がるまでその刀以外のことをほとんど考えなくなる。

 はじめは刀身をじっと見つめる。見つめ合う、いや互いを測り合うといってもいい。時には何日もそうしている。そのうち、語りかけると刀が答えるようになる。侮られればいつまでも答えない。あくまでも砥ぐ必要があれば、の話だ。自分に砥がれたがっていない刀は、手にした瞬間にわかる。

 抱くようにして眠り、寝ても覚めても、ひと振りの刀のことばかり考える。それはほとんど、その刀に恋をしているような状態なのだった。

 玄月(げんのつき)で、六十八になった。もう恋という歳ではない。それでも、刀との関係はそうだった。

 砥ぎ終え、持ち主が受け取りに来るまでの時間が、たまらなく嫌だった。離れがたいような気持ちになっているのだ。

 受け取りにやってくるまでは毎晩、裏庭に出て砥ぎあげた刀を構える。月の光を受ける刀身を見つめ、正眼でじっと構え続ける。もう、語りかけることはしない。そのころには言葉は必要なくなっている。

 一刻(約三十分)以上、構えたままじっとしていることもある。一度も振らず、鞘に収める。振りおろしたところで、闇を斬れはしない。

「先生、約竹(やくたけ)の旦那様がお見えです」

 ちょうど作業を終えたところで、穂香(ほのか)が作業場を覗いて声をかけてきた。

 十七の小娘だが、器量はいい。玄馬が刀を砥いでいる最中は、来客があっても決して声をかけたりはしない。

 穂香が湿らせた布を持ってそばに来た。受け取って手を拭う。裏返して、顔と頭、首筋を拭いた。白髪頭を手で撫でつける。

「昼食も用意しました」

 湯の入った器を差し出しながら、微笑んだ穂香が言う。仕上げ砥に入ってから、なにも食べていない。いきなり食い物を口に入れず、まずは湯を飲んで胃袋に(しら)せてやったほうがいいのだろう。

 湯に口をつける。一度沸かしたものを、ぬるくなるまで冷ましてある。よく気の利く娘だった。

 友の娘。十年前、穂香を玄馬に預けて倉岡は死んだ。病だった。遠い昔のことのような気もするが、いまでも夢に見る。娘を頼む。倉岡が言うのは、決まってその言葉だった。

 着ているものを替え、約竹祥太が待つ部屋へ行った。

「待たせてすまんな、祥太」

「ちっともそんな顔をされてないようですが」

 祥太は、低い声で笑った。薬専(やくせん)術師として薬店を構えている男で、恰幅(かっぷく)がよく、躰を揺するようにして笑う。短く刈られた頭髪には、このところ白いものが目立つようになった。玄馬より十ほど歳下だったはずだ。倉岡が病に()せっているころに知り合ったので、もう十年のつきあいになる。たまにこうして仕事の合間に世間話をしに来るのだ。

 卓を挟んで向かい合って座る。飾り気のない焼物の白皿に、穂香が用意した俵型の握り飯と胡瓜の漬物、開き干した真鰯(まいわし)を炙り焼いたものが、品よく並んでいる。祥太の前にも同じものが用意されているようだ。

 炙りの鰯は酒肴(しゅこう)に合いそうだが、いまは飯が食いたかった。穂香はそれもよくわかっている。本人にまだその気はないようだが、嫁げばいい女房になるだろう。

「領主のお誘いは、相変わらずですか」

「応じるつもりはない」

 祥太の顔から視線を外し、玄馬は握り飯を口に放りこんだ。祥太も、鰯に箸をつけはじめている。

「玄馬さんは、お店を大きくするおつもりがありませんからねえ」

 穂香にも、一度だけ言われたことがある。店を大きくして弟子も抱え、ひと月に受ける簡単な仕事を増やせば、いつも命を削るような仕事をする玄馬の負担を、いくらかでも和らげられるとでも思ったのだろう。

 もともと砥ぎ屋の看板すら掲げていないのだ。大きくするもなにもない。それが実際のところだ。

「この月桜国(げつおうこく)も、随分変わりました」

 祥太が話題を変えた。

「どう変わろうと、お前の売る薬が不要となることはないだろうさ」

「しかし、私どもの店であつかえる薬の種類は、いろいろと制約も増えてきましてな」

「そういうものか」

「このままでは薬専とは、名だけのものになるでしょう。お国の認めたものしか、薬専にはあつかわせてもらえない。そんな風向きになってきていますよ」

刀士(とうし)が剣の腕だけで生きる時代ではなくなっているように、か」

「私はそうは思いませんよ。薬専に関しては、あつかうものが薬という物ですから、それが手に入らなければどうしようもない。しかし剣というのは遣い手の腕ですから、なくなるわけではない」

「必要とされなければ、腕だけで生きてはいけんよ」

「玄馬さんの剣の腕は、大変なものだったと聞いております。なればこそ、いまのお仕事も極めて質の高いものとされておられる、私はそう思います。それに剣のほうが駄目になったかというと、そうではない。いまも玄馬さんは、ある意味では剣の腕で生きておられる。違いますか?」

「どうかな。庭で真剣を構えて立っているのがやっとだ」

「そういうときの理由に年齢を持ち出さないところが、いかにも玄馬さんらしい」

 祥太が膝を打ち、躰を揺すりながら声をあげる。口の端に飯粒がついたままだ。

 玄馬はなんとなく面倒になり、鰯を素手で掴んでかぶりついた。

 開け放った戸から、風が入る。近くを流れる小川のせせらぎが聞こえていることに気づいた。ずっと聞こえていたはずだが、玄馬には久しぶりに聞いたもののように感じられた。

 庭には、もう秋の気配が漂っている。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ