婚約者殿、どうぞよろしく。
よろしくお願い致します。
突然ですが、先日とあるご令嬢がはじめて参加した夜会。
そこでのある出来事が、会場全体を激震させる大事件となった。
順を追って説明いたしますと、まずこの国には貴族の未婚女性たちがこぞって熱い視線を向ける、とある男性がいらっしゃる。
それは公私ともに国王陛下の右腕である宰相閣下のご子息である。
ご本人も文官として国に仕えていらっしゃるのだが、ご本人の性格もあって華々しい活躍をなさっているわけではないご様子。
だが堅実な仕事ぶりを発揮されている優秀な方だというし、そのうえ性格もきわめて温厚なのだそうだ。
そのためか王宮中枢の華々しい方々からも信頼を得ているそうで、そんなわけだから未婚女性だけでなく、人脈を求めて日々奔走する上昇志向がありかつ適齢期の娘をお持ちの父親の皆様も目の色を変えるような方なのである。
王太子殿下はすでに婚約者との結婚式も間近としている御身なので、今一番注目を浴びている男性といっても過言ではないのだが、かの方はずっと特定の女性を作らないでいることは有名だった。
どのような地位、あるいは美貌を持った女性がアプローチをかけても、やんわりと、しかしきっぱりとお断りなさるという。
だから一体どのような女性がかの方の心を射止めるのだろうと夜会では格好の噂になっていたのだ。
ここまで語れば察して頂けると思うのだけれど、そのご令嬢がかの方の心を射止めた。
いや、正確には、射止めて『いた』のだと思う。
というのも、かの方は先のとあるご令嬢のデビュタントの会場で、今上陛下ご夫妻へ挨拶を終えたばかりのそのご令嬢のもとへ駆けつけ、誰よりも早く彼女にダンスを申し込んだのだ。
そしてそのまま一曲踊り、注目に怯んで会場から逃げ出したご令嬢を追って会場から姿を消した。
その時の会場のざわめきは、デビューから一年ほど経過し夜会に慣れてきたはずの私ですら初めて体験したものだった。
初めての場でこのようなことが起きれば、知らず渦中に立たされたご令嬢が逃げ出すのも無理はない。
しばらくして会場のざわめきが収まった頃、かの方はそのままご令嬢を伴って会場へ戻り、そのままご令嬢のご両親である伯爵夫妻ににこやかにご挨拶なさっていた。
近くで聞き耳を立てていた方が言いふらしていたのが事実なら、どうやら正式にご令嬢の実家にご挨拶をする許可を取り付けていたそうだ。
つまり、かの方はかねてからそのご令嬢に心惹かれており、この日がくるまで彼女に交際――いや、おそらく婚約か――を申し込む機会を今か今かと伺っていたということだろう。一目惚れというわけではないご様子ですし。
あ、ちなみにそのご令嬢は、私のことではありません。
こんばんは、ジェラルディーヌと申します。
たいそうな名前ですが、前世は醤油なのか味噌なのか、はたまたとんかつソースなのか。どれも微妙にあてはまらない、中途半端な顔をした日本人でした。
そして今の私は前世の記憶があるだけの、ただの騎士の娘です。
父は公爵閣下の御身を守る騎士の一員であるため、そのことはたいへん名誉に思っていますが、階級で言えばかろうじて貴族を名乗らせて頂いているほど低い身分の身の上です。
また、ご令嬢のご実家と個人的なつきあいがあるわけではなく、当然のことながら宰相閣下やかの方と親交があるわけではないため、私は会場にいながらも他人事として眺めているだけだった。
――のですが。
□■□■
「お願い。助けてほしいのシシリー」
このシーズン一番の話題となったあの夜会の数日後、友人である男爵令嬢のシシリエンヌ――シシリーの腕を周囲から見えないように、しかしがっしとつかんだ私は会場から抜け出して別室へ向かうため彼女の腕を引いて歩く。
会場を出て大きな渡り廊下に差し掛かったところで、彼女はぼやいた。
「……そういう表情をしたときのあなたからのお願いで、わたしはひどい思いをしたことしかないわ」
「ごめんなさい。毎回ひどく迷惑をかけているのはわかってるのだけど……でもほかに頼る人が浮かばないのよ。
……シャルロッテ様のことだから、他の方にうかつに相談するわけにもいかなくて」
シャルロッテ様。噂の渦中のご令嬢の名だ。
シシリーはため息をつくと、持っていた扇子で私の口元をおさえた。
「……わかったわよ。でも、ここで話し出さないでちょうだい。どこに耳目があるかも知れないわ」
「ええ、ありがとう」
私はほっとしてあらかじめ準備してもらっていた別室へ彼女を連れて行く。
そしてあらかじめ準備していたお茶と持参していたお菓子を彼女にすすめる。
お菓子作りは私の趣味のようなものというか、日本に生きていた頃の素朴な焼き菓子――卵ぼうろとか、鳩サブレとか、マドレーヌとか――が恋しくなってしまった自分のためにレシピを考案したのだけど、シシリーには相談に乗ってもらうときにいつもお礼の気持ちとして手渡している。
本当は自分や家族以外が食べることは想定していなかったのだけれど、我が家に遊びに来た際に見つかってしまったのが運の尽き。それ以来ことあるごとにご所望を頂いている。
繊細で美しいお菓子よりも、わかりやすく素朴な味の方が男爵令嬢である彼女には目新しいらしい。
たしかに、こんなみすぼらしい見た目――私は成形が苦手――のお菓子は貴族のお茶の席にはでないだろうけど。
もちろん、私のお菓子の腕がお世辞にも立派なものではないことを自覚しているので(正直言って、まずくはないけど美味しくもないと思う)、一度有名なお店のきちんとしたお菓子を準備して贈ったのだが、甘い物に目がない彼女はそのお店のことも私よりも早くチェックを終えていたようで、あまり喜ばれなかったのだ。
彼女曰く、私の作るお菓子は他にはないものだし、同じものでも毎回味が微妙に違うので飽きないのだそうだ。
安定しない腕だということなのだが、おふくろの味というやつだとプラスに考えるようにしている。そうでないとね。涙が。ええ。
「それでは、話を聞きましょうか」
シシリーは私の準備したお茶とお菓子にさっそく手をつけながらうながしてくれる。
「ええ。マルゲリット様が……」
「ああ……なんとなく事態はわかったわ」
名を出しただけで通じるのだからシシリーの聡明さは本当に助かる。いや、マルゲリット嬢がわかりやすいだけなのだろうか。
マルゲリット嬢。
私の一歳年上の子爵令嬢であるが、とてもアグレッシブ……いや、もうぶっちゃけて言うと肉食系女子である。それも周囲の迷惑を顧みないたぐいの。
わりと平和な治政が続いているから政略結婚も減っていて、親の決めた婚約者がいる人も減っている。
そのためこうして夜会でお相手を探す方も増えたのだが、マルゲリット嬢もご自身の美しい容姿を活かして高位の方とのご縁を精力的に、そして時には手段を選ばずに探しているお方だ。
そして、もちろん彼女のここ最近の目下のターゲットはかの方だったわけである。
ここまで知っていれば想像に容易いと思うが、マルゲリット嬢は狙っていた男性をシャルロッテ様に瞬く間に奪われて大層ご立腹なのである。
「それで、あなたはどこまで対処したいの?」
「できれば穏便に、なにも起きないうちにマルゲリット様に別の素敵な男性へ目を向けて頂ければと思うのだけど……」
「無茶よ。おやめなさい」
シシリーにぴしゃりと言われて肩をすくめる。
ええ、わかっています。私は夜会に参加できる身分の中で最下位の人間である。
参加できる夜会も限られているし、子爵令嬢をまともに相手にしたら問答無用でつぶされるのはこちら。それくらい貧弱な身分である。
「私が身分も学もない人間だという自覚はあるわ。だからなんとか悪い方向に行かないようにシシリーに相談しているのよ……
もちろん、シシリーに助けていただくのも助言だけで、巻き込まないことは約束する」
「わたしはそんなことを申し上げているんじゃないの。
あなた、自分のなさろうとしていることをご家族に相談したとして、どのように言われると予想していて?」
「部外者である私が余計なことをして、事態を悪化させるようなことはするなと言われたわ……
マルゲリット様へ口出しするなんて自分から正気を失った獣に手を出しに行くのと同じ無謀な行為だし、この時機に親交のないシャルロッテ様に忠告差し上げようとしたら逆に警戒されるに違いないって」
家族の言うとおり、今シャルロッテ様の周囲はかの方と親交を深めたい方々がすり寄っているでしょうから、忠告のためとはいえ話しかけるに値しない身分である自分は彼女に近づくことすら危険だ。
「すでにご相談したあとなんじゃないの。しかもとても妥当なご助言までもらっていて。
そこまでわかっていて、なぜ手出しをしようとするのよ……」
「だって……」
ため息をつくシシリーに、私は肩をすくめる。
「だって、マルゲリット様もシャルロッテ様も姉妹がいらっしゃらないようなんだもの」
「それとこれに、どう関係があるというの?」
私の回答にシシリーは眉をひそめた。
「私の家族のことはシシリーによく話しているでしょう?」
「え、ええ……話を聞くたびに、どうしてあなたがお姉様がたと仲良くやれているのか疑問に思う程度には」
私には姉が三人いる。
そうそう家庭教師など雇う余裕のない我が家では両親が娘四人に礼儀作法や勉強、そして家事や一般常識などを教育してくれた。
だが末娘である私だけは例外で、どちらかというと両親からというよりも姉たちに仕込まれたといっても過言ではない。
辛辣で厳しい教えに震え上がった幼い頃の私はいつも泣きべそをかいて両親に泣きついていた。
両親は苦笑しながら姉たちを宥めてくれたが、もちろんそれで引いてくれるような人たちではなかった。
シンデレラの継母と姉たち、あるいは小姑もかくやという細かさと妥協のなさで私にあたった。
そのせいであの頃の私は毎日泣いていたし、今でも思い出すたびにげんなりするような日々だったが、一応擁護するすることがあるとすれば、姉たちが常に恐ろしかったわけではない。
末の妹ということでおそらく盲目的に可愛がられてはいたし、今もそうだ。
今にして思えば、おそらくみんな妹の面倒を見たかっただけなのだと思う。姉たちも大人になりきらない年齢でのことだったから、私への接しかたに大人げというものがなかっただけで。……今もないけど。
「毎回愚痴を聞いてもらっておいて悪いのだけれど、姉たちも母も一応きちんとした人間なのよ。
家族を相手にすると身内だってこともあって辛辣な物言いになるだけで」
「まあ……たしかにあなたのお話を聞く限り、あれだけ毎日のように家族間で喧嘩のような言い合いをしているのに毎日毎食一緒でお茶も行事も可能な限り共にしているのだから仲が良いのはわかりますけれどね。
それにあなたのお宅にお邪魔した際も、あなたの言葉が信じられないくらい歓迎して頂いたし」
シシリーは微妙な表情でうなずいた。
そう、家庭内では容赦のない姉たちも、社会へ出ればきちんと教育を施されたしっかりとした女性で通るだろう人たちである。
普段はその苛烈さを見せない程度の外面――じゃなくて、良識はある。
私もなんだかんだ可愛がってもらっているので、なにか困ったことがあれば文句を言いながらもいろいろと世話を焼いてくれるし、私もこんな日々を送っていれば姉たちに遠慮する気持ちなど生まれるはずがないから、堂々と相談するし頼っている。
結果だけ見ればずいぶんと恵まれている方だろう、私は。
ただ、女は女に厳しい。
妹が相手であっても妬みはするし、見苦しいものに容赦はしないってだけだ。
女性が束になれば、程度はどうあれ辛辣ななにかが生まれるものだ。それは家庭でも町中でも城内でも、そして社交界も同じ。
それをシシリーにたどたどしくも説明すると、納得してくれたようだった。
「つまり、あなたはシャルロッテ様がマルゲリット様に辛く当たられたときに、とりわけひどく傷ついてしまわれるのではないかとお思いなのね?」
「そうなの。私みたいにはっきりと物事を言う姉妹がいるなら、多少なにかを言われたところで慣れで聞き流せるでしょうけど、そうではないシャルロッテ様はきっとすごく傷つくわ。
それに、シャルロッテ様は社交デビューしたばかりだもの、姉妹がいらっしゃらないなら若い女性の間で流れてるマルゲリット様の噂なんかにも疎い可能性があるわ。
そうなると、これからの起きるかもしれない事態の予想ができていない可能性が高いんじゃないかしら。きっと自衛できないわ」
「女性を守るのは殿方のお仕事――とは、あなたは言わないのね」
「言えないわよ。女性の裏舞台よ、これは。
殿方が女性に仕事の話をするのが無粋であるのと同じだわ。でも……」
仕事の話ばかりする男性は無粋だろう。同じように、女性の裏舞台をちらつかせる女性も無粋だと思う。
けれど――
「でも?」
「シャルロッテ様になにかがあったら、おそらく兄君であるパトリック様が出てくるわ」
「ああ、あちらは兄君であるパトリック様と、弟君であるディディエ様とシャルロッテ様、三人は仲が良いと噂になっているものね。
確かにシャルロッテ様に何かがあったとき、お二人は黙っていない気がするけれど……なにをそんなに心配しているの?」
シシリーが眉をひそめた。
「パトリック様が騎士をなさっているのをシシリーはご存じ?
剣の冴えだけでなく切れ者であると評判で、陛下の近衛候補とも目されている方なのだけれど」
「ええ、聞いたことがあるわ。伯爵家の跡取りであるにも関わらず騎士として登城して、日々精力的にお勤めを果たしていらっしゃると」
「そうなの。私も父から時折パトリック様の武勇伝は伺っているので存じているの」
「あなたのお父上は公爵閣下の騎士だものね。閣下は登城する機会も多いでしょうし、直接パトリック様とまみえる機会があるのでしょうね」
父と仕事上の関わりはほとんどないので、城内の騎士たちの話題については障りのない範囲で話してくれる。
「ええ。だから流れている噂に誤りがあれば、父が見た事実をもとに噂の真偽を正すことがあるの」
「ああ……いかにも真面目な方だものね……」
私の父とも会ったことのあるシシリーは苦笑した。
「家に帰ればわりと適当な人なんだけどね……仕事中は真面目だから。まあ、でも、公爵閣下は父には剣の腕よりもそっちを重視していらっしゃるんだし。
それで、パトリック様の噂は多いものだから、私たちが話題にしているときはたびたび父から訂正が入るの」
「なるほど……つまり?」
「その前に、シシリーはパトリック様をどういう方だと思ってる?」
シシリーもパトリック様とは挨拶程度しか交流がないはずだ。
私の質問に、今までの彼の噂を思い出しているのだろう。彼女はややあってから口を開いた。
「まず、とてもお強いそうね」
「あってる」
私はうなずいた。そして続きをうながす。
「女性たちからとても人気があるわよね」
「あってる」
「それでも女性への手が早いとも聞かないわ」
「あってる」
「……まだ?」
「お願い」
困り顔のシシリーにさらに促す。
「そうね……ううん。かなり昇進のスピードが早い方よね。優秀な方という噂は正しいのね」
「あってる」
「かといっても悪い噂も聞かないし、清廉潔白な方なのね」
「ダウト」
「え? だ、だう……?」
シシリーが眉をひそめた。
「ごめんなさい。舌がまわらなかったの」
こちらにない言葉を使ってしまった。口を扇で覆ってごまかして、私は言い直す。
「あのね、切れ者でもあって、優秀で目立つ方なのに誰からも妬まれないなんて普通は考えられないわ。現に、かの方は妬みで事実無根の噂が流れることもあったじゃない。
悪い噂をまったく立てられない理由を、考えてみてほしいの」
「つまり……ただ清廉潔白な方ではないということね?」
シシリーの言葉にこくりとうなずく。
「さらに言うとね、噂で知られている以上にパトリック様はシャルロッテ様を可愛がっていらっしゃると思われるの。
父が言っていたもの。ちょくちょく若い女性向けの手土産を持ってご実家に戻っていらっしゃるって。職場では絶対にシャルロッテ様の話題に出さないのは、逆に大事にしてらっしゃるからだろうって」
「その手土産は婚約者に、ということは……ないわね」
シシリーは言いかけて自分で否定する。
そうパトリック様に婚約者はいない。少なくとも、公表されている限りは。つまりパトリック様の周囲で一番近くにいる若い女性はシャルロッテ様しかいないのだ。
「あと……シャルロッテ様ってデビュー前から穏やかで美しいご令嬢だと噂が出ていたじゃない?
城内でシャルロッテ様とお近づきになりたいと考える男性とか、不用意な噂話をしようとする方がいると、わりと徹底的に……その……」
これ以上、口に出すのは危険である。語尾が小さくなっていったがシシリーはきちんと察してくれた。
「敵に回してはいけない殿方ということね。切れ者であることを考えれば……」
「そうなの。パトリック様は次期伯爵、マルゲリット様は子爵令嬢だから……」
「勝負にならないわね」
シシリーはあっさりとうなずくが、あまり心は動かされなかったようだ。
「でも、それで何かがあったとしてもマルゲリット様の自業自得でしょう? 正直言って、彼女の振る舞いはとても見苦しいものでしたもの。あまり同情できませんわ」
「ダメよシシリー! それはパトリック様の恐ろしさがわかってないの!
たしかにマルゲリット様のこれまでの行いはとってもアレだったけれど、パトリック様に報復されるほどの悪さというと違う気がするのよ……」
「あなたが怖がる報復ってどんなものなの……?」
シシリーが頬を引きつらせる。
どう説明するべきか悩んだが、結局思ったまま伝えることにする。
「あのね、マルゲリット様って邪悪さが足りないのよ。ドレスにかけてくるのは白ワインか水だし、私が金銭的に買うことのできなかった流行の髪飾りがないことを当てこするわりには、次の夜会の時にイヤミと共にその髪飾りを投げてよこしてくれたりとか。
あれもこれも、私の心臓に負担のかからない小さな嫌がらせばかり」
あ、ちなみに髪飾りはありがたく頂戴しました。
考えなしでこらえ性がない女性であることは間違いない……でもたぶん、大きな害をもたらすような悪さができるほど頭も良くない。
「なによそれ、初耳だわ」
「そう?」
シシリーが驚いたようにこちらを見る。
驚くことでもない気がする。マルゲリット嬢はデビューしたばかりの下位貴族をいびるのは先にデビューした者の仕事だと思っているふしがある人だ。自分より下位の令嬢にはひととおり全員に手を出しているだろうと思う。
……でも私には先にデビューしている姉が三人いて、姉の友人と交友関係を持っていたから孤立無援ではなかったのだ。姉が彼女たちを我が家へご招待した際に同席させてもらったりしていたから。
だから私が仕返しをしても良い相手か見極めようとしている間に、あっという間に諸先輩方に蹴散らされてましたよ。持つべきものは強くたくましい大人の女性の知り合いである。
デビューしたばかりの私の方がマルゲリット嬢よりも夜会の場で親しくお話ができる方が多かったのよね。そのことに逆にびっくりしてしまった。
あ、もちろん次の夜会の時にはきちんと自分でやり返しました。ああいう人は反撃できない相手にしか手を出さないからね。こちらの闘志と反撃の具体的な手段(それなりの人数の姉のご友人が協力してくださることは実証済み)を見せればあっさりと片付いた。
まあ、とにかくそういう方だから、シャルロッテ様は次の夜会の時に本当に気をつけなければいけない。
デビュー直後はかの方がべったりだったし、その後すぐに会場を去られたから接触するひまが無かっただけで、絶対チャンスを狙ってるはずだ。実際同年代の女性の間ではその話でもちきりになっている。
「だからね、パトリック様がとっても可愛がっていらっしゃるシャルロッテ様に対する仕打ちへの報復であれば、手加減しないで……ううん、必要以上に手の込んだ報復をしそうな気がするのよ。
修道院に行くしかないような事態にしたり、圧力をかけて子爵家と絶縁させたりとか、社交界に顔を出しにくいような醜聞をでっちあげたりとか」
私の説明にシシリーは苦笑した。
「あなたのパトリック様への印象がひどすぎるわ」
「我が家の女性陣の総意なの、これ!」
「女性陣って……お父上は?」
「人様のことで無責任なことを言うんじゃないって一喝でした」
「まあそうよね」
「ハイ」
真面目がとりえの父ですから。
「それにシャルロッテ様が嫌がらせを受けるってわかっていて、黙って見ているのは罪悪感があるのよ。
……あと、このまま見過ごしてシャルロッテ様になにかあって、それをパトリック様に知られてどんな報復を受けるかと考えるだけで怖くて」
「……不思議ね。後者の方が本音に聞こえるわ」
否定はできません。
「でも、そこまで予想できているなら、なおさら手を出さない方がいいと思うわ。あなたの言葉通りなら、パトリック様には近づかないのが一番よ。
あなたのお父上がパトリック様とお目にかかれる機会があるのだから、そこでパトリック様を通してシャルロッテ様に警告していただくようにすれば、十分に義務は果たしているはずよ」
「シャルロッテ様に対してはそうだけど……」
「まだあると言うの? まさかマルゲリット様に同情しているの? あなたも嫌がらせされたんでしょうに」
「私はとっくに追い払っているから大丈夫よ。
それになんだかんだ言って、私マルゲリット様のことはそこまで嫌いじゃないの」
「それは変わった感覚ね……」
シシリーの言葉に私は苦笑した。
「勘違いしちゃいやよ。私も好きではないわ、決して。でも、ひどい目にあってほしいほど嫌いかというか、そこまでじゃないってこと。
ねえ、シシリーはマルゲリット様のご両親のことをご存じ?」
「いいえ」
「やっぱりそうよね。私も知らないの。
でも、いつだったかしら……マルゲリット様がああも奔放なのは、あの子爵ご夫妻がきちんとなさらないからだって、マルゲリット様の境遇がお気の毒だって。そう父が珍しく愚痴を言っていて……
それを聞いてから私はマルゲリット様を憎めなくなってしまったのよね。他の方も悪いなら、マルゲリット様だけを責めるのは違っているから」
どうして父がそう思ったのか、マルゲリット様の境遇とかは教えてくれなかった。
私が聞く筋合いのない話だったのだろうけれど、正直気になるところではある。まあ、今回はそこが重要なわけではないけれど。
「だからね、どうにかシャルロッテ様もマルゲリット様も、ついでに私も幸せになる方法があればいいなって。
そのための第一歩は、マルゲリット様を止めることなの、ね?」
シシリーは私の長い説明が終わりに差し掛かったことがわかったのだろう、ため息をついた。
私の用意したお菓子はすっかり食べきっていたので、自分のお皿をシシリーに差し出す。
躊躇なくそれを受け取った彼女は作法を忘れることにしたらしい。お皿を抱えて一気にふたつほど口の中にお菓子を放り込む。咀嚼しながらシシリーは口を開いた。
「……次の夜会はメディシス侯爵が主催なさるものね」
「そうなの」
シシリーがさらにお菓子を口に放り込んだ。咀嚼している間にそっとお茶を入れ替える。
「あなた、招待されていないのではなくて?」
「うん、夜会の規模的に私の身分では招待されないわ。
あ、侍女として潜り込む算段をしているから大丈夫。侯爵家のご令嬢の侍女を姉のご友人がなさっているので、紹介頂けないかお願いしているの」
「侍女……」
「十四の頃から昨年まで公爵家で勤め上げたし、そこでの勤務態度も問題なかったから、侯爵家も良いお返事がくださるのではないかと仰ってくださってるの。
自慢じゃないけど、私も真面目だけが取り柄ですからね」
「……お人好し、っていうのも追加しておきなさい」
「……それは欠点だと思うわ、シシリー」
「わかってるなら、反省なさい」
「はあい」
シシリーにぴしゃりと言われて首をすくめる。
「引き受けるかは別として、わたしにどうして欲しいと考えているの?」
本題だ。
私は姿勢を正してシシリーを見つめた。
「マルゲリット様の生家である子爵家に累が及ぶと、巻き込まれて被害が及ぶと思われるお家や実業家の方がいらっしゃるなら、その方のお名前と立場をできる限り知りたいの」
「……それを知ってどうするのよ?」
「その家々のご令嬢か奥様が私の知り合いであれば、マルゲリット様が短慮を起こさぬようご協力頂けないかお願いできるかなって。
あと、累が及ぶ範囲が小さいか大きいかで、どの程度まで無理して止めなくちゃいけないのかどうかの判断がしやすいから。
私は頭が良くないから、そういうところに詳しくないの」
シシリーがさらにため息をついた。
「そういうことは、本来はあなたのお父上の方が詳しいのだと思うけれど」
「だめなの。父は仕事に関わるこういうことは絶対に話してくれないし、私自身も父がもらしたと少しでも閣下に疑われるようなことはできないわ」
父曰く、執務室内の護衛は剣の腕に不安があってもいいのだそうだ。扉のすぐ外に護衛はいるのだから、彼らが来る数秒のあいだだけでも身を挺してでも閣下を守ることができれば問題ない。
それよりも執務室内の出来事、見聞きしたことを外部にもらさないことの方が重要なのだ。
だから父は仕事に関しての話題では極端に無口になる。機密事項を直接言葉にしなくても、しぐさや会話の断片だけでも気づく者は気づく。だから一切話題に出さないのだ。
『元』がつくが侍女として公爵家に仕えていた私もさすがにこのあたりのことはきちんと理解している。閣下が少しでも父に疑念を持つようなことはできない。
私たち家族全員が路頭に迷うだけならまだいいけれど、下手すると全員口封じ、あるいは背信の罪で処刑ということもあり得るのだから。
「とりあえず、考えておくけど……
返事は期待しないで」
「もちろんよ。
でもどちらにしても、今夜相談したことは他言はなしでお願いね」
「ええ、それはもちろん。約束するわ」
シシリーが立ち上がる。かなりの時間抜け出してしまったが、遅ればせながら夜会の場に戻るのだ。
「あなた、公爵家の侍女を辞したのは結婚相手を探すためではなかったかしら?」
「うん……へへへ」
「おばかさん。人のことよりも自分のことを考えなさいな」
「はーい」
「さっきから気のない返事ばかりするんだから……」
そんな会話をしつつ、主催の伯爵夫妻へ挨拶をして、シシリーを馬車のもとまで送り出す。
……女性が女性をエスコートしてどうすんだと思うけれど、昔取った杵柄で侍女のような完璧な送迎をしてみた。
シシリーの家の馬車に待機していた執事に頭を下げて彼女を見送ると、姉たちと同じ馬車に同乗させてもらうために会場の方へ戻ることにする。
今後のことを考えながら渡り廊下を歩いているときだった。
「――ッ!?」
後ろから突然左腕を引かれた。同時に腰を抱えられてしまい、抵抗するもがっちりと抱えられてしまっている。そのまましばらく引きずられたが、その向かう先が客室の扉だと気づいた瞬間に考えるよりも先に体が動いた。
左足を大きく後ろに踏み出す。抵抗する私が急に男と同じ進行方向に動いたために、つんのめるようにバランスを崩す。同時に左肘を相手の脇腹に打ち込む。
さすがにここまですれば腕をつかむ手の力がゆるんだので、左腕を小刻みに動かしてその拘束を解く。
時計回りに体を回して腰を押さえる男の右腕からも逃れ、抜けざまに右肘もみぞおちを狙ってみるが、これは避けられてしまった。
追いすがってくる左手を扇で打ち据え、その勢いのまま着地した左足を蹴って後退して相手と距離を取った。
声をあげようとして、ぜんぜん声が出せないことを驚いた。
暴漢が現れた時の対処を教えてくれていた母がとっさは声が出ないものだと言っていたことを思い出して納得した。
(私は大丈夫とは思ってたんだけどな……)
相手の動向に注意して間合いを守りながら相手に気取られないように深呼吸をふたつ。喉の震えが収まったころを見計らって思い切り息を吸った。
「か、火事です。
――誰か! 火事です!」
それでも最初の一声は思うように声を張ることができなかった。そのことに顔をしかめながら、なんとか警備に届く程度の声を張り上げる。
男は動揺したようだった。私が何をしたいのか即座に理解できなかったのかもしれない。
なにがしたいと言えば、醜聞にならないように人を呼びたいだけである。母からは変質者対策に教えられたことだ。
暴漢と叫べば私の身に何があったかのような根も葉もない噂が出回るかもしれないし、ただの使用人や貴族は暴漢からの反撃を恐れて駆けつけてくれない恐れがある。近くに警備がいなければ最悪だ。
だが火事と言えば使用人は消火のために速やかに駆けつけてくるはずだし、また野次馬も集まる。たいていの暴漢は人目を恐れるから、手っ取り早く人を呼べるよう嘘でもいいからこう叫べと教えられている。
「火――むぐっ」
男は想像以上の俊敏さで私と距離を詰め、さらに声をあげようとした私の口をすばやくふさいだ。
ついでに抵抗できないように押さえ込まれる。至近距離で見る男は綺麗に切りそろえられたさらさらの黒髪と白い肌。長身でそのうえ鍛えてもいるようで力が強い。
「むぐっ、むぐぅっ」
「静かに。暴れるな」
まったく拘束から抜け出せなくて必死にもがく。力が強いだけならば、その力の逃がし方と拘束からの抜け出し方は父から教わっているから、私もある程度は抵抗できるのだが、相手は拘束のしかたを心得ている人なのだろう。びくともしない。このままでは逃げられない……ぞっとした。
「大丈夫ですか――!?」
「火事はどこに!?」
「……いいか、しゃべるなよ」
「ひッ」
警備の騎士が走ってきた。なんとか助けを請おうともがくが、さらに拘束が強くなっただけだ。口元から手は外されたが、代わりに首筋に添えられた手に震え上がる。
首の骨を折らんばかりの位置に手が置かれていることに気づいてしまった。首筋に置かれた手を逃れようと無意識に顔を上げると、男の濃い色の瞳が見えた。服装からして高い地位にいる騎士と思われる。そして文句なしの美形だった。
「ああ、ご苦労。悪いがこちらのご令嬢の勘違いだった。
あちらのかがり火が大きく燃えすぎなんだ。驚いて、すっかり怯えてしまわれた」
男は警備兵にそう言うと庭園に焚かれているかがり火の一部を目で指した。
違います! お願い気づいてー!!
必死に警備兵を見つめ無言の訴えを送るが、かがり火に怯えたか、あるいは勘違いしたことを恥じて涙目にでもなっているとでも勘違いされたらしい。苦笑いされてしまった。
「ああ……確かに。あのままでは危険ですね。対処してきます」
「頼んだ」
男はにこやかに警備兵を見送ると、しばらくして私の拘束を解いた。私はすでに半泣きで、その場にへたりこんだ。
「うう……」
「さて、お嬢さん。しばらくオレにつきあって頂けるかな。
――おっと。逃げ出すなよ」
「きゃあっ!」
へたり込んだふりをしてドレスに隠した足下で履き物を脱いでいたことに気づかれてしまったようで、ドレスの中に躊躇無く手を入れてきた。足首を掴まれてしまったので、ヒールを脱いで全力疾走の夢も潰える。
せめて少しでも距離をとりたくて、左足をつかむ男からずりずりと距離を取る。
「油断も隙も無いな。さすがレオナール氏の娘と言うべきか?」
父の名前が出てどきりとするが、無反応を決め込む。相手がわからない以上、ここでどんな反応を示すのが正しいかわからない。
さらに距離を取ろうとしていたのだが、つかんでいる足を引かれて元の位置に戻されてしまう。
「――っ!」
「逃げるな。逃げなければ手荒なことはしない」
まったく説得力のない言葉にさらに震え上がった。
というか、逃げるなら死ねってことだよね、これ!?
悲鳴をあげようとしたが、もう喉が震えて声が出ない。
限界だ。
涙腺が決壊した。
「うえっ……」
「おっ、おい」
「うええぇぇぇ……」
「待ておい。落ち着け。
あんた、本当にオレが誰かわからないのか?」
暴漢に知り合いなんていません!
そう言ってやりたくても声は出ない。実は先ほどから声を出そうとしているのだが、出てくるのは吐息混じりのうめき声だけだ。それでも諦めずに距離をとろうとするのを、男性に押さえられる。
男性がため息をついた。
「悪かった。怖がらせてしまったオレが悪かったから、まず話を聞いてくれ。
オレの名はパトリック・グレール。そう言えばわかるか?」
「ひっく」
マントに隠れていた襟元の身分証を見せてくれる。間違いなく本人のようだ。
なぜ彼が私に接触したのか理解したことが伝わったのだろう。パトリック様がため息をついた。
「先ほどはオレのことを知っているような口ぶりだったが、顔を見たことがなかったのか?」
どう答えたものか迷ったが、結局正直にうなずく。
私の身分では今日のような下位貴族も参加が許されるような夜会がなければそうそう登城しないし、こういった夜会は総じて大規模で千単位の参加者がいる。
もともと伯爵家とは縁もゆかりもないからパトリック様と話す機会などあるはずもない。だからもちろん、噂だけはむやみに詳しいが顔を見たことはない。
「とりあえず、オレはあんたが先ほど話していたことについて聞きたいだけで、あんたに対して今のところは害意はない。
ここまではいいか? 暴漢じゃないからな。頼むから逃げるなよ」
こくこくと高速でうなずくと、つかんでいた足を解放してくれたので急いでドレスの中に足をしまう。
絹の靴下――いわゆるガーターで固定するオーバーニーのストッキング――を履いていたとはいえ、引きずられたり押さえつけられたりとされたので、結構な部分まで足を露出するはめになった。
この世界のご令嬢は膝を出すだけでも結構な露出という意識なのだ。パニエのないドレスが今の流行なので容赦なく布がずりあがってしまった。
ペチコートも丸見えだったに違いない。ただでさえすらりとした次女と違って太い足なのだ。恥ずかしい。
だが、気まずくてもこのままではいられない。
「あの……」
まだ声がかすれていた。一度咳払いをする。
「あの、私の先ほどの話を……聞いていらしたとことでしょうか?」
「ああ。なかなか興味深い話だった」
パトリック様の言葉に心臓が跳ねる。居住まいを正して頭を下げる。
今の体勢はジャパニーズ土下座です。
「あの、先ほどの話は私が一人で勝手に判断して起こした行動です。家族や男爵家の方々は関知しておりません。
責を負うのは私一人で十分ですから、どうぞかの方々には手出しのないよう頂きたく……」
「あんた……ほんとオレに対してどんな印象を……そういうつもりはないと言ってるだろうが。
とりあえず、立てるか?」
「え、あ……はい」
急いで脱げたままだった左足を靴につっこみ、差し出された手をとって立ち上がる。
「別室を準備しているから、そちらで話を――」
「ジーちゃん!」
「あ、ふぇ、フェリちゃ……」
男性の言葉をさえぎるかたちで響いたのは見知った女性の声、姉――長姉のフェリシエンヌのものだった。駆けてくる長姉の後ろに姉たちが続いているのが見えた。
姉たちに見つからないうちに急いで涙をぬぐう。
「大丈夫!? 火事って……!
――こちらの方は?」
言いながら、姉たちはそれぞれ私を取り囲む……いや、男性の退路を防ぐような位置に立つと、男性を冷たい目で見やった。
「……なるほど、『火事』は符丁か……」
男性はごく小さな声でつぶやくと、すっと姿勢を正して姉に向かって一礼し、先ほどのように襟元の身分証を指す。
「失礼しました。私はパトリック・グレール。この城の警備を担当している騎士の隊長を務めております」
姉たちが視線を交わした。
「……まあ、グレール伯爵のご子息でいらっしゃいますね。それは失礼致しました」
「いえ、こちらこそ。ご令嬢が錯乱している様子でしたので、落ち着いて頂こうと努めたのですが……このような状況になってしまい、大変申し訳ありません」
パトリック様の視界に入らないように一歩下がりながら姉たちに手を合わせてぺこぺこと頭を下げる。
私の様子に姉たちも危険はないと判断したらしい。表面上なごやかにパトリック様と挨拶を交わし、姉たちに連れられてすぐ馬車で帰宅したのだった。
帰途につきながらこうなった事情を説明する羽目になり、案の定姉たちから個々に、直々に、冷たい叱責の言葉を頂戴しました。もちろん帰宅してから両親からも叱責されました。
それはそれで怖かったけど、それよりもパトリック様の『また日を改めて』という言葉のほうが恐ろしかった。
□■□■
父から忘れ物を届けるようにと指示を受けたのは夜会の二日後の午後のことだった。
今夜は略式ではなくて正式な騎士服が必要なので届けて欲しいとのことだった。通常であればこういうときは母が長女が動くのだが、今回は私が行うようにと名指しがあった。
ああ、はい……察しました。
半泣きで登城に耐えるドレスを見繕い、ついでに騎士服の着付け方法を復習する。略式はともかく、正式な騎士服は少しややこしい。もちろん一人で着ることはできるのだが、ちょっと時間がかかるので、急ぎの時は手があった方がいい。
今夜使うのであれば、手早く着替える必要があるはずだから手伝うことになるだろう。
こういうときの振る舞いは教えられてはいるが、父の使いで登城するのは今日が初めてだ。それに、私を名指ししたということは――緊張しながら馬車で城へ向かうと、案の定ものすごい仏頂面の父に迎えられた。
予想は大当たりのようです。
私は苦笑いで父の着替えを手伝ったのだった。
「こういうのはお前が一番うまいな」
「そうなの? コランちゃんじゃなくて?」
父の言葉に首をかしげた。姉妹の中で一番おしゃれに敏感な次女コランティーヌが一番綺麗に着付けられるのだと思っていた。
「まあ、見た目が一番決まるのはそうだな。けどなあ……コランはやれ飾りの位置やら襟がずれているやら、時間がかかって敵わん。
お前は母さんやフェリみたいに手早すぎないし、コランみたいにこだわりすぎて丁寧すぎもしない。エルネスはそもそも手伝う気がない」
「あー、エルちゃんはー……うーん」
苦笑いしながら父の周りをくるりと一周。きちんとすべての装飾がついていることを確認した。正装なので不備があってはいけないのでここは慎重にしなければいけない。
さらにマントの襞の間に糸屑などがないかも念のため確認。前にこの確認を忘れていて、祭典に参加した父の動きに合わせてひらひらと揺れる糸屑が気になったことがあった。あれは恥ずかしかった。
まあそういう場で父を見る人はあまりいないから、気づいたのは私たち家族だけだったようだけど。
「よし、大丈夫。
それじゃあ、行ってらっしゃい」
激励代わりにぺしぺしと父の背中を叩いた。
「ああ、ありがとう。
気をつけて帰りなさい。寄り道するんじゃないよ」
その言葉に思わず苦笑い。見れば父も苦笑いしていた。
「うん。父さまよりは早く帰れると思うけれど」
「父さんも今日は遅くならないと思う」
「わかった。母さまに伝えておくー」
公爵閣下の執務室へ向かう父を廊下で見送ると、父が着替えに使っていた控え室に戻って荷物をまとめる。
「あの堅物と名高いレオナール氏が意外だな。噂で聞いていた以上に仲が良い」
「ふわぁっ」
不意に男性の声が至近距離から聞こえて飛び上がった。
振り向けば当然のように私の真後ろにたたずむパトリック様。足音はなかったはずなのに。
しかしあの夜も思ったが、本当に美形である。端正な顔立ちなのに柔らかい表情はしないから、麗しいというよりも力強い印象を受けるのが玉に瑕か。
夜会の時にはわからなかったけれど、明るい中で見ると暗い色だと思っていた瞳の色が綺麗な青色なのだとわかった。先日と違い、正式な白い騎士服ではなく略式の紺色の騎士服を身につけている。
いや、それよりも。
「あの……」
「なんだ?」
「盗み聞きが趣味なんでしょうか……?」
パトリック様の顔が引きつった。
「なんだそれは」
「ですが、先日も今も……その……」
どちらも本人のあずかり知らぬうちに会話を傍受されているのですが。
「今日はレオナール氏にあんたをここに呼び出してもらうよう頼んだから、控え室の近くで待っていたら勝手に聞こえてきたんだ。
オレがいることはレオナール氏も了解済みのはずだから断じて盗み聞きじゃない」
「ひえっ」
思わず焦る。あの場には父しかいないと思っていたので、家にいるときと同じくらい気を抜いて話していた。
機密事項やもらしていないことは話題に出してはいないはずだが、何を喋っていただろうか。覚えていない。
「それに夜会のときはあんたがオレの妹について相談があると男爵令嬢に堂々と口に出していただろうが。
オレはあの夜会の警備の責任者だ。周囲の警戒をしているところに不用意な発言をしたあんたが悪い。
まあ、オレも警備の見直しを終えて夜会の参加者として会場に戻るところだったから、あんたたちの会話が聞こえたのは偶然だがな」
「……」
「それに悪いが、オレだってあんたらほど女の事情に精通はしていないが、妹の周囲に注意が必要であることはわかってるし警戒もしている。
そんなときにあんなに深刻そうな様子で妹の名を出されれば、どうしたって内容は気になる」
「仰るとおりでございます……」
控え室に備えられていた椅子へ腰掛けてこちらへ半眼を向けたパトリック様に私はしおしおと頭を下げる。
見回せば茶器の準備もあるようだが侍女を呼んでるわけではないようなので、パトリック様へ一声かけてまずはお茶の準備をすることにする。
「あの、このお部屋って外へ会話が筒抜けなんでしょうか?」
「いや、オレは魔法の加護があるから聞こえるだけだ」
「ああ、風使いでいらっしゃるのですね」
魔法使いはそんなに珍しいものではない。父も、我が家の三女のエルネスティーヌも魔法使いである。
「では、ここでの会話は」
「ああ、外へ漏れ聞こえないようにしよう。
――もういいか?」
「はい。お待たせ致しました。
失礼致します」
パトリック様へお茶を差し出し、侍女のように一礼をしてから側を離れ、正面に戻る。私の身分では本来はパトリック様と同じ席に着くことはできないのだが、今回は特例としていいだろう。遠慮なく椅子へ腰掛ける。
「では、改めて。オレはパトリック・グレールだ」
言葉通り、パトリック様の口調が改まったものとなった。私は座った直後だが急いで立ち上がり頭を下げる。
「ご挨拶が遅れまして大変申し訳ありません。レオナール・アベカシスの四女、ジェラルディーヌと申します」
「ああ。さっそくだが、先日の夜会で貴女が男爵令嬢と話をしていた内容について聞きたい。あのとき話の内容に相違はないか」
「はい。私に認識違いがなければですが」
緊張で膝の上に置いた手に汗がにじむ。
「シャル――シャルロッテに害意がないというのも?」
「もちろんです! 直接まみえたことはございませんので噂でしか存じませんが、聡明で好感の持てるかただと思っています!」
ここを誤解されたら消される! その一心で高速で回答する。
私の必死の形相が面白かったのか、パトリック様がくすりと笑う。
「では、マルゲリット嬢に害意がないというのも?」
「はい」
「彼女に好意がある?」
「とくには……」
パトリック様が眉をひそめた。
「そこがわからない。害意がないだけでは彼女を救おうという気になる根拠にならない。
積極的に相手を陥れる気はないという根拠とするならわかるが」
「救おうだなんて、そんな大それたことは私にはできません。
……ですが、その、修道院に行くしかないような事態になったり、ご実家と絶縁になったり、社交界に顔を出しにくいような醜聞が立つとか、さすがにそういうのはひどいと思うんです」
「だが実際のところ、本当にそうなるかどうかわからないだろう?」
「では、パトリック様はマルゲリット様がシャルロッテ様にひどいことをなさったときに、そういった報復はなさらないのですね?」
「するが」
「するんじゃないですかッ!」
思わず礼儀もなにもかもを忘れて悲鳴をあげた。
母と四姉妹の出した結論は大当たりの名推理でした! 嬉しくないけどッ!
「つまり貴女は、マルゲリット嬢が遭うかもしれない自業自得を一人で想像して、一人で勝手に震え上がっていると」
「仰るとおりにございますが、先ほどのパトリック様の回答で『かもしれない』が『絶対そうなる』になりました……」
私は頭を抱えた。
「父は申しておりました。マルゲリット様のご両親に問題がある、と。
よほどのことがない限り、父はそういったことは私たちに向かって口に出すことはしません。他の家の事情をあげつらうなど、私たちにはおこがましいことですから」
「そうだな。それでは、なぜ貴女は首を突っ込もうとしている?」
「父がそう言うからには、よほどマルゲリット様が理不尽な境遇にいらっしゃるんだと感じました。父は本心ではマルグリット様をお救いしたいと考えているのでしょう。
ただ、父は自分の領分を心得ております。気持ちはどうあれ、手を出したりはいたしません」
「ふむ」
「そして私はアベカシスの四姉妹のうちで、これといった能力のない頭の悪い末娘です」
「……何が言いたい?」
「つまり、私が多少おかしな行動をしたとして、皆様そういうものだとお考えくださるのです」
そう言ってにっこり笑うと、パトリック様は額に手を当てた。
「つまり」
「はい」
「単にファザコンってことだな」
「……違いますもん」
「とりあえず、事情はわかった」
パトリック様がお茶を飲みながら息をついた。冷めているだろうから淹れ直そうかと伺うが、そのままでいいと言われてしまった。
「あの、お話は以上でしょうか?」
「いや、これからが本題だ」
「え」
シャルロッテ様に害意がないことと、私の行動に伯爵家へのなんらかの意図がないことをわかってもらえればいいと思っていたので驚いた。
なにを言われるんだろう……
「そんなに怖がるな。期待に応えたくなる」
「期待していません!」
よほど怯えた表情をしていたらしい。あわてて首を振って拒否の意を伝える。
「冗談だ。
本題というのはほかでもない、貴女に提案がある。シャルの身を守るためのはかりごと、オレにも協力させてくれ」
あ、なるほど。
願ったり叶ったりのことなので、私は力強くうなずいた。
「そう言って頂けると心強いです。シャルロッテ様の御身は心配でしたが、これは私の勝手ですもの。
兄君であるパトリック様に行動の後押しを頂けるだけで、動ける範囲がまったく変わってまいりますから」
「では、オレの行動にも貴女の協力を得られるということで、いいか?」
「はい。もちろんでございます。
私も両親から簡単な護身術は習っておりますし、昨年まで公爵家の侍女をしておりましたので、シャルロッテ様の御身に危険が迫ったり、もしくはお世話が必要な面が出てきたとしても、ある程度のことはこなせると自負しております。なんなりと申しつけください」
よくあるのが夜会の最中にドレスを汚されたり、髪の毛を崩されたりといった事態である。というか、マルゲリット様の常套手段である。そういったときも私なら会場の侍女などを使わずに秘密裏にフォローできるはずである。
会場の侍女の質にもよるが、侍女を動かすとどうしてもどこかに漏れて噂となる可能性が高い。
嫌がらせなど直接的なことはなくとも、シャルロッテ様を快く思わないのはなにもマルゲリット様だけではない。
醜聞にされてしまう芽が出ないよう秘密裏に片をつける必要があることも出てくるだろう。
「いいんだな? 言質はとったぞ?」
「え……? は、はい」
パトリック様に不自然に念押しをされた気がしたが、笑顔の圧力に負けてうなずく。
「そうか! ではさっそく協力してくれるな?」
「はい、なんでございましょう?」
パトリック様が席を立ち、私のかたわらに膝をついた。緊張で握りしめたままだった右手を取られる。
こわばっている私の右手を丹念に開いて、その指先にくちびるを落とした。
「結婚してくれ。
ああ、とりあえずは婚約でいい」
「……はい?」
言われたことが理解できずに眉をひそめた。
「聞こえなかったか? 婚約者になってくれ」
「は……?」
言い直してくださったが、それでも脳が拒否したのか、しばらく理解できなかった。
「あ……あー……」
よく考えてみれば、パトリック様も女性に人気のある方だ。
次期伯爵だし、しかも陛下の覚えめでたい騎士でもある。顔よし、頭良し、評判よし、将来性よしの優良物件だ。
シャルロッテ様が一番人気のかの方を射止めてしまった今、次に結婚相手としてロックオンされるであろうお方は、このパトリック様である。
それをかろうじて貴族と言える程度の最下級の身分の、姉たちのように特筆した才能もない、しかも美人でもない小娘が射止めたとしたら。
超 妬まれる。
シャルロッテ様は伯爵令嬢だ。身分は上から数えた方が早いし、振る舞いや教養なども十分ある方だそうだから、そう簡単に手出しできる相手ではない。
万が一、私がパトリック様と婚約をしたら……
おそらくシャルロッテ様よりも、私の方が絶対ヤバい。
背筋が凍る。今自分の顔を鏡を見たら、真っ青か、それを通り越して真っ白か、はたまた土気色か……どちらにしても、健康な人間の顔色はしていないはずだと思う。
「さきほど……期待……してませんと、申し上げました……」
「ああ、むしろこちらの期待通りの反応をありがとう」
鬼だ。鬼がここにいる。
「あの、お断りすることは……」
私は にげだした!
「貴女の姉上の中に騎士を志している方がいるとのことだが、この国初の女性騎士が生まれるには多くの貴族の賛成が必要になるだろうな。
シャルの結婚相手は宰相閣下の嫡男――しかも公正な考えを持っているが、貴女の姉上が騎士を目指していることはまだ知らない様子。
知らないものを援助することはできないだろうし、さて、どうしたものかな?」
しかし まわりこまれてしまった!
「お、お受け……します……」
血を吐くような心持ちで、なんとか言葉をしぼり出した。
「そうか、それはよかった!」
私の返答を聞いたパトリック様は、今日一番の花咲くような笑顔を見せてくれた。
シシリー……
今はここにいない友人に心の中で語りかけた。
シシリー、私のパトリック様に対する印象は間違っていなかったと思う……
遠い目をしている私を現実に引き戻すためか、パトリック様は再度私の手を取って甲にうやうやしく口づけた。
「婚約者殿、どうぞよろしく」