第五十三話 忘却の世界 Ⅵ
大陸全土を巻き込んだジエーデル国との戦争が終わった事で、ボーゼアスの乱の際、グラーフ同盟軍に参加した各国のもとには、グラーフ教会からの使者が派遣されていた。
異教徒討伐で勇猛果敢に戦い、見事ボーゼアス教なる異端者を討ち取ったとして、グラーフ教会の使者より各国の指導者へ、グラーフ教の勲章が贈られる事になったのである。
教会から派遣された勲章授与のための使者は、ホーリスローネ王国のみならず、ゼロリアス帝国やジエーデル国、同盟に参加した中小国家にも派遣された。そして当然の事ながら、ボーゼアスの乱でこれまでの常識を覆す、全く新しい戦争を始めたヴァスティナ帝国にも、使者は派遣されたのだった。
ヴァスティナ帝国に派遣された使者は、女王アンジェリカ・ヴァスティナへと謁見し、教会十字勲章を女王に授与した。
ただ同時に、勲章授与の使者はアンジェリカのもとだけでなく、実際に現地で戦闘指揮を執り、同盟軍の勝利に大きく貢献した、帝国国防軍将軍リクトビア・フローレンスのもとにも派遣された。その使者団が向かったのは、リクトビアが療養中のブラド公国である。
ブラド公国に到着した使者団は、宮殿内の謁見の間にてリクトビアと対面した。彼の傍らには帝国宰相リリカが付き添い、使者と軽い挨拶を済ませていた。だが驚いた事に、リクトビアのもとに勲章を授与するため現れた人物は、何とグラーフ教会大司教だったのである。
「まさか、我が国の軍人相手に大司教様自ら御出座しになるとは、この私も夢にも思いませんでした」
グラーフ教会大司教の登場に、驚きを禁じ得ないと言わんばかりの態度をリリカが見せる。その内心では勿論驚いてはいるものの、彼女は相手の狙いを考えていた。
大司教自らが勲章を贈る相手が、帝国女王ならばまだ理解できる話だ。実際に現地で戦い、英雄的活躍をしたのはリックだが、将軍とはいえ一軍人でしかない彼のもとに、教会の最高権力者が来訪するなど、何か企みがない方がおかしい。
「宰相殿が驚かれるのも無理はない。私が自らの足で大陸中央に赴いたのは、実に二十年振りのことですからな」
探りを入れられていると知りつつ、大司教グレゴール・フォン・オッペンハイヤーは事実を述べる。髪も髭も白くなった六十を超える、司教服をその身に纏った老体であり、近年は脚を悪くして遠出を控えている。これはリリカも知るところであり、嘘ではないだろう思えた。
問題なのは、そんな御老体が態々リックへと会いに、大陸中央まで足を運んだ事だ。
「この眼で、見定めたいと思いましてな」
「見定めるとは?」
「帝国の狂犬という異名を持ち、その力で今や大陸の覇者なり得んとする男を、我が眼にて見定めるは女神ジャンヌの思し召し。果たして将軍殿が、ローミリアを統べんとするその心は如何か?」
グラーフ教を創りし女神ジャンヌ・ダルク。ここへ来た理由を、グレゴールは神の思し召しであると語った。
だがリリカは知っている。空想の産物と思われている女神が、実はこの世に存在するという事実を。そしてグレゴールは、リリカがそれを知っているのを承知の上で、女神の名を出して理由としたのだと。
「⋯⋯⋯大陸の覇者ですか。私にそのような野心はありません」
迷いなき瞳を向けたリックが、グレゴールの問いにはっきりと答える。
記憶は失われたままだが、事前にリリカからどんな風に振る舞うか、どんな発言をすれば良いか、よく仕込まれている。グラーフ教会にも悟らせないために、リリカは出来る限りの対策を済ませていた。
「飽くまでも私の働きは、我が主君アンジェリカ・ヴァスティナ女王陛下の命によるもの。大司教の仰るような野心など、私に在ろうはずもありません」
「ほう⋯⋯⋯。では、将軍に大陸侵攻を命じられる、女王陛下の真意とは?」
「陛下が望むは、我がヴァスティナ帝国の平和と繁栄です。大司教は侵攻と仰りましたが、エステランにせよジエーデルにせよ、我が国が戦ったのは自国防衛の為であって、侵攻などではなかった」
「ならば将軍は、女王陛下が御望みたる平和と繁栄の為、この先も剣を振るうと?」
「私の場合、剣ではなく銃ですがね。もっとも、この先もそれを使うかどうかは、他国の思惑次第と言えるでしょう⋯⋯⋯」
不安を決して表に出さないリリカが見守る中、リックは見事に帝国国防軍将軍を演じて見せた。
グレゴールはリックがどんな人物か知らず、顔を合わせるのもこれが初めてである。リックが記憶を失っていると悟れるはずはなく、悟らせないだけの模範回答まで示した。
リックは、記憶喪失を誤魔化す為、大司教との謁見が必要だとリリカに説明を受けた際、初めは緊張や不安で謁見を拒んでいた。リリカが望む通りに、記憶を失う前の自分を演じられるか、不安で仕方なかったからだ。
しかしリックは、自分を守り傍にいてくれるリリカのため、最終的には彼女の願いを聞いた。リリカのため、少しでも彼女の力になりたいと考えたからだ。
もしもリックがどうしても謁見を拒んだなら、負傷を理由に自分だけで対応しようと彼女は考えていた。ただ、リックの姿を人前から隠し続ける事は、余計に他勢力の探りを招く危険性がある。結果としてリックはリリカの願いを聞き届け、この危険を回避する事に成功した。
「成程、噂通りの忠臣だ。先程の無礼な物言い、御許し願いたい」
「とんでもありません。大司教に対して無礼な発言だったのは、寧ろ私の方なのですから御気になさらず」
グレゴールはグラーフ教会最高権力者であるが、大司教と言う割にリック達の前では、あまり権力者らしくない物腰であった。グラーフ教はローミリア大陸の陰の支配者と呼べ、その大司教ともなれば、各国の権力者でも敵わぬ巨大な存在だ。
そのはずなのだが、今リック達の目の前にいるグレゴールという男は、格好こそグラーフ教会大司教ではあるものの、身に纏う空気は穏やかなものである。これが本当にグラーフ教を統べ、あのホーリスローネ王国やゼロリアス帝国すらも平伏させる、グラーフ教の最高権力者なのかと疑いたくもなるだろう。
初めてグレゴールと出会った人間は、皆同じ事を考える。このような穏和な空気感を纏う老体が、グラーフ教によって大陸を支配し、他宗教を根絶やしにする命令を出しているのかと⋯⋯⋯。
だがリリカは、グレゴールの陰に隠れた狂気の存在を知る故に、一人納得する事ができてしまう。権力に溺れるような尊大な者より、命令をよく聞く従順な者を欲したが故なのだ。
「流石は帝国一の忠臣と名高いリクトビア・フローレンスですな。女王陛下への絶対の忠義があったからこそ、将軍は自国内の貴族粛清も厭わなかった。ローミリア広しと言えど、あのような貴族粛清を行なった例はそれほど多くありません」
「⋯⋯⋯」
貴族の粛清とは、前女王ユリーシアに反発し、彼女を死に追いやった貴族達を皆殺しにした、ヴァスティナ帝国にとって忘れられない粛清の日である。この粛清を命じたのはリックであるが、今の彼には身に覚えのない話だ。
こんな話を聞かせられれば、動揺してしまうのも無理はない。演技を続けていたリックも、揺さぶりをかけて彼を測ろうとするグレゴールの言葉に、緊張で息を呑んでしまう。
だが、この話は事前にリリカから話を聞いており、自分が行なった事なのだと理解している。もしこの話が出たら、どう答えればいいかも分かっている。それでも言葉を詰まらせるのは、リリカ以外の他人から聞かされると、やはり事実なのだと理解し、堪え切れず動揺してしまったからだ。
「⋯⋯大司教。粛清された貴族達は、女王陛下を亡き者にしたが故に裁かれたのです。例え私でなくとも、前女王を愛した民達が、必ずや悪しき者共を粛清していたでしょう」
「であるから、女子供すらも手にかけて、躊躇いはなかったと?」
「当然です。躊躇えば、生き残った者達が再び反逆する。将来、陛下に危険が及ぶ要因を全て取り除くのもまた、私の務めなのです」
動揺を見せてしまったものの、リックは教わった通りに答える事ができた。反逆した貴族だけでなく、その家族すらも皆殺しにした事実に苦悩しつつも、彼は必死に耐え続けている。リリカはそれを知りつつも、リック自身を守るために、彼にリクトビア・フローレンスを演じさせ続ける。
「将軍の忠誠と覚悟、老いた我が身も奮えますな。それ程の忠義を尽くす帝国女王に、私も直接お会いしてみたいものです」
「我が国にいらした際は、是非お会いになって下さい。普段南ローミリアの外に出る機会がないので、陛下もグラーフ教のお話には興味を持っているかと思います」
穢れのない純粋な眼差しを向け、微笑を浮かべて見せるリック。思惑や打算のない、あまりにも綺麗な瞳を向けるリックに、流石のグレゴールも一瞬目を見開いてしまう。
その後、大司教グレゴールによる教会十字勲章の授与が行なわれた。授与式を終えたグレゴール達は、リリカの計らいで宮殿内の客室に通され、帰国の日までの間、長旅の疲れを癒す事となった。




