第四十七話 その花の名は Ⅰ
第四十七話 その花の名は
ローミリア大陸中央部、最大の国力を持つ独裁国家ジエーデル国が、北部の大国ホーリスローネ王国に侵攻を開始して一か月が過ぎた。
王国と同盟関係にある国々の国境線を越え、王国との戦端を開いたのは、ジエーデルが誇る最強の名将に率いられた精鋭軍団である。名将の指揮した軍勢は、国境線に突如その姿を現わして、防衛用の砦や陣地を電撃の如く突破した。
これに対して、ホーリスローネ王国の動きは慎重だった。同盟国がジエーデルの魔の手に落ちていく中であっても、王国の主だった者達は、極北の大国ゼロリアス帝国の動向を警戒し、迅速な対応を行なわなかったのである。
その結果、ジエーデルの侵攻軍は攻撃目標であった国々を全て降伏させ、ホーリスローネ王国国境線侵攻のための橋頭保を確保した。事態を重く見た国王が軍を動かした時には、全てが手遅れであった。ジエーデル軍の名将ドレビン・ルヒテンドルクは、迎撃に現れるであろう王国軍への備えが万全だったのである。
ジエーデル軍は占領した各国の防御陣地や砦を修復して強化し、強固な要塞を構築した。ジエーデル製の兵器と精強な兵に守られたこの要塞は、短期間の内に構築されたにもかかわらず、その防御は鉄壁だった。それが証明されたのが、ジエーデル軍と王国軍による最初の戦闘である。
同盟国の救援に派遣された王国軍の戦力は、約二万。対するジエーデル軍側の防御兵力は、約五千。侵攻軍の主力が各地の残党の処理や占領に出払っている隙に、最低限の戦力が配置されていた防御陣地へ王国軍は攻撃を仕掛けた。
敵が手薄になっている隙を突く、作戦として何も間違っていない攻撃である。幾ら強固な要塞と言えど、四倍の兵力で挑めば突破は難しくない。そう考えていた王国軍の予想は、脆くも崩れ去った。
ジエーデル軍の防御は、彼らの想像を遥かに超えていた。進軍を開始した瞬間、攻撃の先鋒は防衛部隊の兵器群の前に壊滅し、救援に投入された戦力も、ジエーデル兵の激しい反撃にあって大損害を被ったのである。
ジエーデル軍はこの地に新型兵器を投入していた。この兵器がジエーデル軍の防御をより強化しており、勝利の要因ともなった。ジエーデル側の防御に傷一つ付けられず、王国軍は初戦から敗走したのである。
戦いはそれだけでは終わらなかった。この初戦と結果は、名将が仕組んだ罠だったのである。防御陣地をわざと手薄にして攻撃を誘い、大打撃を与えて反撃するのが狙いだった。王国軍の進軍が始まった瞬間、作戦通り各地の戦力が反撃のため急行し、敗走する王国軍を捉えたのである。
結果、傷付いた王国軍は、自分達を包囲せんと攻撃を仕掛けたジエーデル軍の前に、為す術もなく撃破されていき、撤退を余儀なくされた。更に、撤退した王国軍を追撃する形で、勢いに乗ったジエーデル軍は再び侵攻を開始した。
追撃戦で王国軍に損害を与えながら、遂にジエーデル軍はホーリスローネ王国の国境線を突破した。突破に成功した先鋒は、補給線が伸び切るぎりぎりのところまでで大暴れし、侵攻のための勢力範囲を拡大していったのである。
最終的には、間一髪のところで王国軍側の増援が間に合い、ジエーデル軍の侵攻は一旦停止した。王国軍は防衛の姿勢に徹し、ジエーデル軍は前線への補給と、戦力の合流と補充に務めた。両者は王国領内で睨み合い、一触即発の状況となったのである。
領内への侵入を許し、迎撃態勢を整えるホーリスローネ王国。等々北の大国への侵攻を果たし、再度の進軍へと準備を進めるジエーデル国。
ローミリア大陸全土の眼は、両者の戦争の行く末に向けられていた。
「はぁ⋯⋯⋯⋯⋯はぁ⋯⋯⋯⋯⋯⋯はぁ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯!」
静かな室内で、苦しそうに声を漏らした女の声が響き続けていた。暖炉では火が焚かれ、外の凍り付く寒さを忘れさせるほどに部屋を暖めている。その中で女は汗をかきながら、見た者の思考が全く追い付かない、常軌を逸した姿と姿勢で苦しんでいた。
「⋯⋯⋯⋯⋯揺らさないで」
「はっ、はい⋯⋯⋯⋯! 殿下⋯⋯⋯⋯⋯⋯!」
苦しんでいる女は、下着以外は何も身に着けていない姿で、両手を頭に置き、長時間空気椅子をさせられていた。空気椅子となっている彼女の膝の上には、ドレスを着た美しい女性が容赦なく腰を下ろし、眼鏡を掛けて一人読書に耽っている。膝の上に美女を座らせ、一切の抵抗をせず荒い呼吸を繰り返す、全身汗塗れの彼女は、時々苦しさに体を震わせては、読書を邪魔されたくない美女に怒られていた。
空気椅子の女性は、肩まで伸ばした銀髪とエメラルドの瞳を持つ、容姿も整った綺麗な女だが、腰かける美女の美しさは別格である。整えられた長髪と、透き通る色白い素肌。見る者の心を奪う、宝石のように輝く真っ赤なルビーの瞳が、彼女の美しさを一層引き立てる。
そんな美しい女性二人が、本棚に囲まれた暖炉のある部屋で、一体何故こんな異様な光景を作り出しているのか。その答えを知っている人物が一人、部屋の扉をノックして現れる。
「入りなさい」
「失礼致します」
部屋の主の許しを貰い、また一人の美しい女が彼女達の前に現れた。入室したのは、流れる青い長髪と鋭い眼付きが特徴的な、騎士甲冑を纏った美女である。凛とした彼女は、二人の異様な姿はまるで興味がないらしく、部屋の主の様子を見て、少し頭を下げて口を開く。
「読書の最中、申し訳ありません」
「いい。それで、皇帝はなんと言ってきたの?」
現れた騎士甲冑姿の女は、読書に耽る美女の配下であり、軍の将軍である。将軍である彼女が、本国からの連絡を伝える為に参上したにもかかわらず、主たる美女の方は読書を続けたままだ。開いている本の文字から視線を動かさず、次の頁を捲りながら彼女は報告を待った。
「王国とジエーデルの戦は静観せよ。急ぎ国に戻り、姫として己の務めを果たせ、と」
「そう⋯⋯⋯⋯。好機を座して見ているだけなんて、つまらない皇帝ね」
「⋯⋯⋯⋯⋯」
自分の国の絶対的支配者であり、自分の父である存在を、美女は小馬鹿にして鼻で笑う。
この美女こそ、極北の大国ゼロリアス帝国第四皇女にして、帝国の戦姫の二つ名を持つ皇帝の娘、アリステリア・レイ・サラス・ゼロリアスである。
皇帝からの命を伝えに現れた彼女は、アリステリアの配下にして、大陸最強の呼び声高き氷将の二つ名を持つ女将軍、ジル・ベアリットだ。
ジルの口から皇帝の命を聞いたアリステリアは、冗談ではなく心の底から退屈を覚え、つまらなさそうな顔して本を読み続ける。父であり、国の支配者である男の命令など、彼女には全く響いていない。急ぎ戻れと言われても、静かに本を読むばかりである。
アリステリア達がいるのは、ゼロリアス帝国へ帰還する道中で立ち寄った、帝国領の国家ニーベルンゲである。
異教徒ボーゼアス教の反乱鎮圧のため、グラーフ同盟軍に参加して戦った、アリステリア率いるアリステリア戦闘旅団は、各国と共に勝利を手にした。同盟軍解散後、異教徒討伐を終えたアリステリア戦闘旅団は、ホーリスローネ王国とジエーデル国の戦争の事は知りつつも、自国への帰還の途に就いた。
そのまま真っ直ぐ帰国を目指す事も出来たが、兵の疲労や食料補給の事も考え、アリステリアはニーベルンゲへの寄り道を命じた。兵を休ませる事も目的としていたが、王国とジエーデルの戦端が開かれた以上、自国が何かしらの軍事行動を起こす可能性がある。迅速な行動ができるよう、敢えて帰還はせず、この地で自国の動向を待とうと考えたのだ。
実はそれだけでなく、読書好きな彼女は、大陸中の本を取り扱っていると言われているこの国に前から興味があり、一度行ってみたかったという理由があったのは、誰にも言わない彼女の秘密である。だがしかし、彼女の趣味嗜好をよく知るジル達からすれば、そんな魂胆はお見通しだった。
「殿下、読書は程々に。この国の本が珍しいとは言え、クラリッサが限界です」
アリステリア達がいるのは、国の中心に位置するニーベルンゲ城にある、来客用の一番上等な部屋である。高級な絨毯と家具の数々と、大陸北方の国家にとって必需品たる大きな暖炉に、大陸中から集められた本が並ぶ、部屋一面の本棚。とても一日で読み切れる量ではない本に囲まれ、彼女は朝からずっとこの部屋で読書を続けている。
そんなアリステリアの護衛兼椅子としてここにいるのが、風将の二つ名を持つアリステリア戦闘旅団の女将軍、クラリッサ・グルーエンバーグだ。汗だくの彼女は今日ここで何時間も、アリステリアの椅子として過ごしていた。
「はぁ⋯⋯⋯⋯はぁ⋯⋯⋯⋯はぁ⋯⋯⋯⋯⋯⋯!」
「息が鬱陶しい」
「いっ!? もっ、もうしわけ⋯⋯⋯⋯ありま⋯⋯⋯せん⋯⋯⋯⋯⋯!」
クラリッサの荒い息は、丁度アリステリアの首元にかかってしまう。それを鬱陶しく感じたアリステリアは、右手でクラリッサの腿を容赦なく抓る。抓られたせいで痛がり、そして謝罪する彼女に一切の同情はなく、アリステリアの視線は本の文章だけに集中していた。
クラリッサが何故、アリステリアの空気椅子として過ごしているのか。別にこの部屋に椅子が無いわけではなく、何なら寝転がれるソファだって置いてある。下着姿で空気椅子という、特殊な性癖でもあるのかと疑われる状態なのは、もっと違う理由があった。
風将クラリッサ・グルーエンバーグがこんな目に遭うのは、彼女達の間では日常茶飯事である。クラリッサが暴走したり、勝手な事をしてアリステリアを困らせた時、決まって「お仕置き」が確定するのだ。
今回のこれもお仕置きの一環である。異教徒討伐の際、アリステリアの頭を悩ませた罰なのだ。下着姿である理由は、普段から彼女が身に着けている銀の鎧や軍服が、座るのに邪魔だったため、アリステリアに「脱げ」と言われた結果だった。
「ねぇ、クラリッサ」
「はっ、はい殿下⋯⋯⋯⋯!」
「貴女、自分がどうして罰を与えられているか、ちゃんと分かっているのかしら?」
読書に集中した変わらない表情で、次の頁を捲るアリステリアが、動かないよう必死に堪えているクラリッサに問いかける。気を抜いて椅子を崩さないよう気を付けつつ、問われた事に彼女は思い当たる節を口にした。
「あの、不埒な雌犬と、揉めたことでは⋯⋯⋯⋯⋯」
「それもある。他には?」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯?」
「貴女また、人を虐殺大好き残虐皇女にしてくれたわよね? 命じた言葉を自分の言葉にするなって、前にも言ったわよね?」
「そっ、それは⋯⋯⋯! 殿下の強大な御力を大陸中に知らしあっ痛あああああああああああっ!?!?」
お仕置きの理由を理解せず、反省の色が全く見えないクラリッサに、再びアリステリアの容赦なき抓りが襲い掛かった。今度も右手で腿を抓り、さっき以上の力を加えて激痛を与えたのである。
「でっ、殿下⋯⋯⋯⋯! どうか、御許しを⋯⋯⋯⋯⋯!」
「許しが欲しい? でも貴女、にやけ顔で嬉しそうじゃない」
「!!」
確かにクラリッサは、本にしか視線を向けていないアリステリアの指摘通り、興奮して頬を朱に染め、口元は悦に入って薄ら笑っていた。
これはアリステリア直々に行なう罰なのだが、実はクラリッサからすれば嫌なものではない。
クラリッサにとってアリステリアとは、この世に降り立った天界の女神の如し存在であり、矮小な自分を臣下として飼ってくれている、偉大な支配者である。絶対的忠誠を誓い、彼女の為ならば迷わず死を選ぶ事ができ、彼女の魅力に魅了されている。
つまりどういう事かと言えば、アリステリアを愛するあまりクラリッサは、大好きな御主人様に叱られても喜ぶ飼い犬同然なのだ。
「そんなに苦しくて痛いのが好きなら、今度は縄で縛り上げて鞭でも打とうかしら」
「なっ、縄⋯⋯⋯⋯!? 鞭⋯⋯⋯⋯!」
「⋯⋯⋯⋯⋯今、絶対淫乱な妄想したでしょ」
「なっ、何故ばれ⋯⋯⋯⋯、じゃなくて決してそんな妄想など⋯⋯⋯⋯!」
「ほんと、分かり易い単純馬鹿ね」
呆れて溜め息を吐いたアリステリアが、今度はジルに向かって右手を上げ、人差し指をくいっと動かして見せた。「こっちへ来い」というサインに、ジルが彼女の目の前までやって来る。
「そう言えば、監督不十分でジルもお仕置きだったわね」
「はい」
「ジルは今晩私の抱き枕。それと、明日は街へ本を買いに行くから荷物持ちよ」
「畏まりました。ですが、皇帝陛下は急ぎ帰国をと」
「第四皇女アリステリアはニーベルンゲで流行病にかかって倒れたとでも言っておきなさい。私、この本の作者の新刊買うまでは帰らないから」
軟弱な皇帝の命令など、素直に聞く必要など全くない。それよりも、自分が今夢中になっている本の新刊の方が、アリステリアにとってはよっぽど重要なのだ。
皇帝の娘でありながら、ここまで彼女が父を馬鹿にするのには、相応の理由がある。
大陸中央を支配するジエーデル国が、いよいよローミリアの覇権を大国から奪うべく行動を開始した、此度の戦争。ジエーデルがまず狙いを定めたのは、ローミリア大陸最古の王国ホーリスローネである。そしてホーリスローネ王国は、アリステリアの国であるゼロリアス帝国にとって長年の敵なのだ。
帝国と王国は、かつて大陸中を戦火で包んだローミリア大戦時も、大陸の覇権を懸けて激しく戦った。大戦後は互いに停戦し、今日まで武力衝突に至る事はなかったが、宿命の敵である事に変わりはなかった。
だが、現ゼロリアス皇帝は、現ホーリスローネ王国国王とは友好関係を築き、互いに睨み合いながらも不戦を貫いてきた。これは王国国王も同じであり、国家間の揉め事は話し合いで解決してきたのである。これは、安易に戦争を起こしてきた先人達の考えを否定し、自国の安定を目指したからだった。
戦争に明け暮れ疲れ果てた今の時代に、大陸の覇権を懸けた戦争など、自国を消耗させてしまう愚かで古い思想。そう考えての不戦であり、お互い大国であり長年の宿敵であるから、相手の軍事力を警戒しての政策でもあった。
しかし今、王国はローミリア大戦後初となる、国の行く末を左右する危機に瀕していた。
近年弱体化を続けてきたホーリスローネ王国は、特に軍事力の低下が深刻な問題となっている。それを狙ったジエーデル国の侵攻に、王国は有効な対処が出来ぬまま、緒戦で敗北してしまった。
王国とジエーデルの戦争が、一体どんな結果で終わるのかは、まだ分からない。だがこれは、ゼロリアス帝国が大陸の覇権を得る、またとない機会なのは間違いなかった。
今、精強なるゼロリアス帝国軍が、王国の脆弱な防備を突破して侵攻を開始すれば、王国は二方面での戦いを余儀なくされる。ジエーデル軍と違いゼロリアス帝国軍にとって、大陸北方は慣れ親しんだ土地であるから、必然的に進撃速度も速くなる。
そうなれば、先に王国本土に到達して占領するのは、ジエーデル国ではなくゼロリアス帝国となるだろう。その足でゼロリアス帝国軍は、補給線が伸びたジエーデル軍を叩き、大陸中央にまで進軍すればいいのだ。
簡単にはいかないだろうが、決して不可能ではない。寧ろ勝算の高い、勝てる戦争と言えるだろう。皇帝がどう考えているかは分からないが、少なくとも、王国軍の質の悪さを実際にその眼で見たアリステリアは、王国相手なら勝てると考えている。
この機会を活かさず、静観するだけで済ませるなどあり得ない。軍事行動を起こさずとも、今後帝国が優位に立つ為に、王国に対して政治的な策を巡らす事だってできる。そのどちらもする気がない皇帝を、彼女が馬鹿にするのも無理はなかった。
だからこそ彼女は、ニーベルンゲに立ち寄って趣味の読書に没頭している。自国が何もする気がないなら、丁度いい休暇だと考えているのだ。
「今やらなければ必ず後悔するというのに、馬鹿な男。ザイリンと違ってあの男は、大陸で今何が起こっているのかまるで分かってないのね」
父であるゼロリアス皇帝ガイロスを無能と思い、自身の兄である第一皇子ザイリンの名を口にして、無意識に舌打ちをするアリステリア。
帝国では憎き自分の兄だけが、自分と同じように大陸の情勢を真に理解している。あんな野心の塊のような男と同じ考えだと思うだけで、無意識に舌打ちが出る程、彼女は不快感を露わにしてしまう。
「⋯⋯⋯⋯まあいいわ。それより、この駄目な椅子を風呂にでも放り込んできて。汗塗れで気持ち悪いわ」
最後の頁を捲り終え、本を読み切ったアリステリアが眼鏡を外して、ゆっくりと本を閉じる。読書を終えた彼女が腰を上げて立ち上がると、限界を迎えていたクラリッサの体が、立っていられなくなって崩れるように倒れてしまった。
「はぁ⋯⋯⋯はぁ⋯⋯⋯はぁ⋯⋯⋯⋯はぁ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「クラリッサ、最後に言う事があるでしょ?」
「はっ、はい⋯⋯⋯⋯! 愚かで、罪深き我が身に、罰を御与え下さり、ありがとう御座います⋯⋯⋯⋯、殿下」
「宜しい」
倒れた状態で息を切らしているクラリッサに、誰が御主人様か分からせるように、最後まで虐め抜くアリステリア。ただやはり、罰を受けたクラリッサはこれだけ辱められても尚、救いようのない快感を覚えてしまっていた。
アリステリアの命令通り、ジルはクラリッサを抱き起こし、汗でぐっしょりの彼女を風呂場にでも連れて行こうとする。すると、そんなジルに向かってアリステリアが、先程まで読んでいた自分の本を差し出した。
「これ、面白かったから読んでおきなさい。聞いた話だと、この作者の最新刊が明日店に並ぶそうよ」
「どのような本でしょうか?」
「恋愛小説よ。とある国のお城で働く女の侍従同士が惹かれ合って、禁断の愛を深めていくっていう。このラベンダ・ヒッキーていう作家、只物じゃないわ」
基本アリステリアは、どんなジャンルの本も読み漁る読書家である。数多くの本を読んできた彼女が、読んだ方の作者の名を口にする時は、決まって読んだ本に満足している。作家の名を口にするのは、この本が彼女のお気に入りになった事を意味しているのだ。
そこで早速、自らの足で明日発売の最新刊を入手しようと計画している。この計画にジルを巻き込み、事前に本を読ませようとしている理由は、後で本の感想を語り合う相手を用意するためだ。
「殿下が買いに行かずとも、兵に任せれば良いかと」
「自分の足で買いに行くからより価値があるの。それにこの作者の本は南ローミリアで出版されてて、北で取り寄せてるのはニーベルンゲだけらしいわ。そんな珍しいもの、是非この手で得たいとは思わない?」
こうなると頑固な彼女は、自分で買うと言ったら聞かなくなる。説得を諦めたジルは、いつも通り大人しく従う事にした。
皇帝の血を引くアリステリアが、ここまで自分勝手に振舞うのは、ジルとクラリッサの前だけだ。それだけ彼女が二人に心を許している証拠だが、だからと言ってこうも自由だと、付き従う方としては困りものである。皇女である時と口調が変わるのも、最も傍に置くこの二人の前だけだ。
「⋯⋯⋯⋯わかりました。ところで、その本は南ローミリアでなら簡単に手に入るのでしょうか?」
「そうなんじゃないかしら。それが?」
「新刊に限らず、南でしか手に入らない本ならば、あの男に入手させれば宜しかと」
「あの男⋯⋯⋯? あぁ、もしかして狂犬の事かしら」
狂犬という言葉を聞いた瞬間、疲れ果ててぐったりしていたクラリッサが覚醒する。敵意剥き出しの眼をした彼女は、ジルの提案に断固反対して噛み付く。
「あんな男、二度と殿下やジル様に近付けません!! 今度見かけたら番犬共々大剣で真っ二つにしてやります!」
「この通り、クラリッサの相手も狂犬に任せれば、殿下の読書を邪魔する者はいなくなりましょう」
「ジル、貴女冴えてるわね」
「あの男なら、殿下の退屈を紛らわす事ができるかと思いまして」
あの男とは、極北の大国ゼロリアス帝国と別の、南ローミリアに存在するもう一つの帝国の将軍の事を指す。その男は「帝国の狂犬」という異名を持ち、アリステリア達と共に異教徒と戦った。
クラリッサは敵視しているが、アリステリアは狂犬を気に入っている。それを知っているからこそ、彼女自ら買わせに行かせるくらいならと、ジルは意外な提案を口にした。その提案にアリステリアは納得しつつ、妖艶な笑みを浮かべて彼女を見る。
「ジルが面白い冗談を口にするなんて、明日は世界の終焉?」
「殿下があれを気に入っている様子でしたので」
「中々面白い男ではある。でも私より、ジルの方が気に入っているように見えるわよ」
「私が、でしょうか⋯⋯⋯⋯⋯?」
あの男、帝国の狂犬リクトビア・フローレンスを気に入っているのは、実はアリステリアだけではない。ジルは彼女の事を考えて、話題にリクトビアを出したつもりでいる。だが本当は、ジル自身も気に入ってしまったが故に、ついリクトビアを話題に出したのだ。
普段のジルなら、如何にアリステリア達の目の前であったとしても、冗談のような発言は一切しない。そもそも彼女は、真面目な堅物といった性格であり、冗談などを口にできるほど器用ではなのだ。更に言えば、アリステリアやクラリッサ以外の相手に興味を持つ事など、極稀である。
ジルは、リクトビアがいればアリステリアは退屈しないだろうと言った。実際はその逆で、ジルの方が退屈しないのだろう。帝国の狂犬は本人も知らぬ間に、大陸最強の存在に目を付けられていたのである。
「ふふっ⋯⋯⋯、まあいいわ。そう言えば、王国とジエーデルの戦争が始まって、ヴァスティナに動きはあった?」
「まだ何も。主力は我が軍同様本国への帰還を続けています」
「あの男がこの状況を黙って見ているはずがない。賭けてもいいわ」
「そこまでの自信が?」
「ある。だって、あの男下衆だもの」
リクトビアの次なる狙いは、独裁者が支配する大国ジエーデルなのは間違いない。
異教徒との戦いは、リクトビア率いるヴァスティナ帝国軍にとって、実戦での運用試験だった。新たなる兵器、新たなる戦術を存分に試した彼らは、次に狙う大物を仕留めにかかる。
南ローミリア最大の国家が、大陸中央部にまでその手を伸ばして、約一年が経つ。エステラン国を降し、あの情報国家アーレンツまでもを手中に収めた彼らが、ここで止まるはずがない。最大の標的を討つ準備を整えた彼らは、必ず行動を開始する。
もしも、ヴァスティナ帝国がジエーデル国すらも降し、大陸中央の覇権までも手に入れたなら。その時彼らが狙う次なる獲物は何か⋯⋯⋯⋯。
「敵が王と独裁者だけだと思ったら大間違いなのよ。本当に危険な相手を野放しにしておいて、何が皇帝か」
近い将来、ゼロリアス帝国が真に戦うべき敵。
それが、すぐそこまで迫っている事を感じているのは、アリステリアだけだった。




