第二十七話 愛国者 Ⅵ
「・・・・・・」
リックの問いを受けて、彼の目の前にいる彼女は、口を閉ざしたままであった。
昨日のディートリヒとの会話から、目の前の少女に意識を戻したリックは、彼女を見つめ続けていた。彼の意識と視線は、彼女から決して外れない。
「どうした?お前はこの国の何を愛して、愛国心を謳う」
やはり彼女は、口を閉ざしたままだった。リックは彼女が、この問いに答えられない事を、初めからわかっていた。彼の目の前にいる少女、ヴィヴィアンヌ・アイゼンリーゼには、国を愛する理由がない。
「お前は、この国を憎んでいるんじゃないのか?」
「!!」
「だってお前、国を愛してるって言うわりに、全然好きそうな顔してないし」
「貴様っ!私の愛国心を疑うのか!?」
「うん」
瞬間、彼女の拳がリックを殴り飛ばす。椅子から離れ、床に倒れたリックに近付いたヴィヴィアンヌは、彼の襟首を左手で掴み上げ、恐ろしい剣幕で彼を睨む。
「っ・・・・・。殴るの禁止されてたんじゃないのか・・・・・・?」
「黙れ・・・・・」
「図星突かれて殴ってる時点で、自分に嘘吐いてる証明だろ。正直どうなんだ?この国嫌いなんだろ?」
「ふざけるなっ!!」
右の拳を構え、もう一度リックを殴ろうとしたヴィヴィアンヌだったが、彼女は自分の衝動を抑え、どうにか殴るのを堪えた。
自分が異常なまでに感情的になっている事に気付き、少し冷静さを取り戻すヴィヴィアンヌ。リックの襟首から手を放し、尋問官の席へと戻った彼女の呼吸は荒く、まだ怒りに震えていた。
「・・・・・貴様といると、非常に腹が立つ」
「そうか?俺は恐いけど楽しいぞ、お前といるの」
床から立ち上がり、自らの席に戻ったリックは、殴られた頬を手で擦りながら、嬉しそうに微笑んで見せた。そんな彼の表情を見て、彼女は驚いて目を見張る。
「理解できない・・・・・。貴様のその余裕も、その笑みも、・・・・・・どういうつもりだ」
「どうって・・・・・。俺は普段通りにしてるだけだけど」
「・・・・・・何が普段通りだ、駄犬が」
「へえ~、お前陰で俺の事をそう呼んでるのか。また一つ、ヴィヴィアンヌの事を知れたな」
そう言って、またも微笑んだ彼の顔から逃げるように、彼女は視線を逸らした。この時彼女は、初めてリックから逃げたのである。
「じゃあ次は、好きな食べ物とか嫌いな食べ物とか教えて欲しいかな。後は趣味とか、休日の過ごし方とか」
「私に休日など不要だ。休日の過ごし方などあるわけが・・・・・・」
リックの問いに答えていた彼女は、言葉の途中で口を噤む。その反応に悪戯心が湧いたリックは、笑みを浮かべて口を開く。
「そっか、年中無休で働いてるんだな。じゃあ趣味の時間も作れないか」
「私に趣味などない。私には任務さえあれば・・・・・・」
「あれ?また言いかけてやめるのかよ。それなら次は好き嫌いとか知りたいな~」
「・・・・・・」
リックの言葉に答えまいと、彼女は完全に口を閉ざしてしまう。
彼女は気が付いたのである。ふざけている様にしか見えない彼が、言葉巧みに彼女から情報を引き出している事に・・・・・。
内容は大した事ないが、それでも彼女にとっては、敵に情報を奪取された事実は変わらない。これ以上彼の好きにさせまいと、彼女は口を噤んだのである。
(まるで口説いてるみたいだ・・・・。女の子の口説き方、クリスとかにでも教えて貰えばよかったかも)
本当に口説き落とそうとしているわけではない。ただ、彼女の事が知りたいだけなのだ。
初めて彼女が目の前に現れた時感じた、圧倒的な存在感と、胸を貫くような殺気。漆黒に染まる死神のような彼女は、瞬く間に自分の両腕達を圧倒した。そして今、自分は今までにない危機的状況に立たされている。全ては、彼女が現れた結果だった。
彼女に拉致されたあの日、リックはこう思った。「勝てない・・・・・」と。
今まで様々な絶望的状況に立たされても、勝利を目指して戦い続けた彼が、実戦の中で、決して勝てないと感じた存在と出会ったのである。彼女の力を目の当たりにしたあの日、リックはこの世界で初めて、揺るがぬ敗北というものを感じたのだ。
だからこそ彼女を知りたくなる。自分が決して勝てないと思った、目の前の圧倒的な存在が、どんな生き方をしている人間なのか、興味が湧いたのだ。
リックが彼女にこうした態度を取るのは、それが理由だった。調子に乗り過ぎて、殴られもすれば蹴られもしているが、彼女の事が少しでも知れて満足している。
「尋問の時間はまだ始まったばかりだ。もっと色々話そうぜ、ヴィヴィアンヌ」
「・・・・・・」
この後、尋問終了の時間いっぱいまで、リックは彼女に質問し続けたが、彼女は一切口を開く事がなかった。そしてやはり、彼女が終始不機嫌極まりない表情であったのは、言うまでもない。
尋問のために用意した時間を使い切り、止む無くリックを、収容所地下二階の監禁室へ戻したヴィヴィアンヌは、ディートリヒへの報告のために、国家保安情報局本部に訪れていた。
一人、情報局本部の通路を歩くヴィヴィアンヌ。尋問室での怒りの顔や不機嫌な顔は消え、今は無表情であった、しかし、内心では様々な感情と思考が渦を巻いている。
(またも、奴のペースに乗せられてしまった・・・・・・)
リックの存在は、常に彼女の調子を狂わせている。彼女の部下も、ディートリヒですら、このような調子の彼女を見るのは初めてであった。そして彼女自身も、任務でここまで心を乱される事は、初めての経験だったのである。
(明日こそは必ず情報を引き出してやる)
リックの正体を探り続けている彼女は、未だ彼から全ての情報を引き出す事を諦めていない。リックの正体を突き止めるまで、自分の任務が完了する事はないと、彼女は心に強く刻んでいるのだ。
彼女自身も、ここまで一個人に執着するのは初めての事であった。そして、ここまで遣り難い相手と状況も初めてであった。どんな方法なら、明日こそ彼から全てを聞き出せるか、そればかりを考えている。
(明日も尋問の許可を頂こう。可能であれば、長時間の尋問許可を)
彼を尋問室に長時間拘束し、休憩も睡眠も与えず、肉体と精神の限界を誘い、全ての情報を吐かせようと彼女は企んでいる。この方法ならば、相手を痛めつける事なく情報を聞き出せるからである。
拷問や暴行を禁じられ、薬物の使用も脅しも効かない以上、この方法が一番効果的だと考えた彼女は、明日の尋問計画を頭の中で練り始めた。今度は相手のペースに乗せられないよう、今日の彼のやり口を思い出しながら、明日の尋問の想定を行なう。
(それにしても、どうして私は・・・・・あの男の前で冷静さを失うのだ・・・・)
先ほどの尋問室での彼の言葉が、彼女の脳裏に蘇る。リックは彼女に対して、お前はこの国を愛していないと、そう言った。それに腹を立てた理由は、自分の愛国心を侮辱されたからだ。
だが彼女は、自分でも驚くほどリックに対して感情的となり、激しい怒りを覚えている。自分がどうして、彼に対しここまで熱くなっているのか、それがわからないのだ。
(奴はただの捕虜だ。ヴァスティナ帝国を探るための情報源でしかない。それなのに・・・・・)
今まで彼女は、数多くの任務を遂行する過程で、多くの人間を見てきた。その中には、彼のようによく喋る者や、彼のように人をよく揶揄う者もいた。リックと似たような人間は、何人も見てきた。それなのに、彼の前では簡単に平常を失う。
(奴に苛つのは何故だ?私は奴の何が気に入らない・・・・・?)
ヴィヴィアンヌはリックの事を調べ尽くしている。彼の生まれや本当の名前を除けば、彼がどんな人間で、何をしてきたのか、その全てを知っている。
だからなのかもしれないと、彼女は思う。彼がどんな人間か知っているからこそ、彼の何かに苛立ちを覚えるのかもしれないと気付く。
(・・・・・・まあいい。情報さえ引き出せれば関係ない)
個人的感情など、任務の邪魔でしかない。それを思い出した彼女は、この事をこれ以上考えるのは止めた。
思考を切り替え、報告のためにディートリヒの執務室へ急ごうとしたが、彼女が歩く通路の奥に、数人の部下を連れた男の姿を見た。
男は四十代くらいで、彼女よりもずっと背が高い。身体つきもよく、着ている軍服の上からでも、その身体を鍛えている事がわかるほどだ。鍛えているお陰か、肩幅も広い。
男の方も彼女を見つけると、一瞬にやりと笑みを浮かべ、彼女へと向かっていく。そんな男の背後から、この男の部下達も続いた。
「おや、こんな所で貴様に会うとは思わなかったぞ。任務でサザランドに行っているのではなかったか?」
先に口を開いたのはこの男の方であった。男は彼女よりも階級が上の情報局局員であるため、彼女が先に敬礼する。話しかけた男は、彼女の敬礼の後に自分も敬礼し、更に言葉を続けた。
「戻って来たならば、俺に挨拶の一つでも言いに来てもいいだろう、同志大尉?」
「申し訳ありません。現在任務遂行中のため、挨拶に御伺いできませんでした」
この男の名は、ルドルフ・グリュンタール。国家保安情報局所属で、情報局内でも大きな力を持つ存在だ。冷酷非道で有名であり、その手腕で数多くの功績を上げてきた、情報局大佐である。
「サザランドの戦闘を調査していると聞いたが、それを放り出して、一体どんな任務に就いているというんだ?」
「極秘任務のため、幾ら同志大佐と言えど、お話しする事はできません」
「俺に話せない内容だと?貴様、随分偉い物言いをするようになったな」
獲物を狙う狩人のような眼で彼女を見下ろし、何かを企んでいるような、邪悪な笑みを浮かべるルドルフに対し、ヴィヴィアンヌは口を堅く閉ざす。
情報局員の中でも、彼は特に勘が鋭く鼻が利く。相手の隠し事や嘘を見抜くのは得意分野である。故にこの男は、ヴィヴィアンヌが自分に言えない秘密を持っていると、確信しているのだ。
「そう言えば、サザランドでの戦闘にヴァスティナ帝国が介入を行ない、目的を達せず早々に引き上げたそうだな」
「・・・・・・」
「俺の部下が掴んだ情報では、指揮官であった帝国参謀長が行方不明になった事が原因らしい。貴様ならば何か知っているかと思ったが、どうだ?」
「私の部隊は帝国軍が引き上げる前に撤収していたため、詳しい情報は掴んでおりません。帝国参謀長が行方不明という情報も初耳です」
彼女は嘘を吐いた。本当は、上官であるディートリヒの命令を受け、サザランドの街で帝国軍を奇襲し、帝国参謀長リクトビア・フローレンスを拉致した。初耳どころか、実行犯は彼女自身なのである。
その彼女が、階級的に上官であるルドルフに対して嘘を吐く理由は、直属の上官であるディートリヒから命令されているからだ。帝国参謀長を拉致し、ディートリヒがリクトビアと会話を行なった事実は、絶対に漏らしてはならないと厳命されている。
ディートリヒの企みに関して、彼女は何も知らない。ディートリヒの命令は祖国繁栄に必要不可欠なものだと信じ、与えられた任務を遂行するだけの彼女にとっては、彼の企みなど知る必要のない事なのだ。
「初耳だと?いつからそんな冗談を言うようになった」
「いえ、冗談など口にしておりません」
「リクトビア・フローレンスの調査を命じられていたお前が、この情報を知らないわけがない。嘘を吐くならもう少しマシなものを用意しろ」
最初から疑ってかかっているのは、彼女が嘘を吐いているとわかるからだ。ルドルフの狙いが、自分が隠す任務の内容だと気付いているヴィヴィアンヌは、またも口を閉ざした。下手に話せば襤褸が出るからだ。
「・・・・・ふん、ファルケンバイン准将に口止めされているようだな。まあいい」
そう言ってルドルフは、話を止めて、彼女の横を通り過ぎていった。彼の後ろから部下が続き、彼女が元来た通路を歩いていく。ヴィヴィアンヌもまた、何事もなかったかのように、彼らが元来た通路を歩いていった。
「おい、番犬」
「!」
「俺に就くなら今の内だ。身の振り方は考えておけ」
その言葉だけを残し、ルドルフはこの場を去っていった。
恐らくあの男は、この後も彼女を探り続ける事だろう。そうして何度も、多くの人間達から情報を吐き出させてきたのである。
ルドルフの恐ろしさは、彼女自身もよく知っている事だ。何故なら、彼女が両親を処刑する原因を作ったのは、他でもないあの男なのだから・・・・・。
(知られるのは時間の問題か・・・・・)
ヴィヴィアンヌと別れ、情報局本部の正門にやって来たルドルフ達は、待機していた馬車の一台に近付いた。
一見、四人の乗りの普通の馬車だが、鉄の車輪に護謨タイヤが履かされている。大陸でも珍しい、護謨の生産が盛んなこの国では、馬車や荷車の車輪に、護謨でできたタイヤを履かせ、乗り心地や走破性能を向上させているのだ。
「大佐。あの女には監視をつける必要があるかと」
「馬鹿が。奴の勘は人間のレベルじゃない。どうせ気付かれる」
「ですが、このまま何もしないわけには・・・・・」
「寧ろ逆だ、何もするな。下手につついて、奴を怒らせる必要はない」
彼の部下達は、ヴィヴィアンヌに監視を付けるなどして、その動向を探るべきだと訴えるが、部下達とルドルフ自身の考えはまるで違った。
ヴィヴィアンヌの諜報員としての能力は、人間業とは思えないと言われている。監視や尾行は御手の物であり、逆に監視や尾行を自分が受ければ、一瞬で相手に気付き、その命を奪う事もできる。
そんな無駄な事をするよりも、情報を得るならもっと良い方法がある。そうルドルフは考えているため、部下達の意見を迷う事無く却下した。
「お前達は黙って俺の命令に従っているだけでいい。それともお前達は、俺よりも優れた策を思い付けるのか?」
「・・・・・己の分を弁えず、申し訳ありません大佐」
「心配しなくとも、奴らは俺から逃げられん。せっかく向こうから墓穴を掘ってくれた。この機会、逃すわけにはいかない」
不敵に笑うルドルフの頭の中には、今後の行動が全て構築されている。順当に、そして正確に、焦る事なくやりさえすれば、この男の目的は達せられるのだ。
しかし相手は、「情報局の番犬」と呼ばれているヴィヴィアンヌと、穏健派の主要にして、かつては「アーレンツの荒鷲」と呼ばれたディートリヒである。決して油断してよい相手ではない。
「予定よりも早く動く事になる。準備だけは済ませておけ」
「はっ」
この場から移動するため、待機していた馬車に乗り込むルドルフに、彼の忠実な部下達が続く。ルドルフ直属の部下達は、彼の命令に従う、彼の忠実な駒である。ルドルフの計画のために、彼の部下達はアーレンツの変革を目指して、行動を起こすのだ。
(荒鷲が焦って動いたおかげで、計画の前倒しが必要になった。荒鷲も老いたな)
アーレンツの悲願成就を訴える強硬派に対抗している、中立を貫くべきだと主張する穏健派。そんな穏健派の主要人物の一人であり、大きな影響力を持っているのが、ディートリヒ・ファルケンバイン准将である。
強硬派の代表格であるルドルフにとって、ディートリヒの存在は非常に厄介な敵であった。大きな権力と影響力を持ち、その配下には、報局最強の戦闘力を持つヴィヴィアンヌの部隊を従えている。穏健派にとって彼の存在は、戦うための支えであり、最強の武力でもあるのだ。
ルドルフは強硬派のために、これまでずっと彼を打倒する機会を窺っていた。そして、待ちに待った機会がやって来たのである。
追い詰められつつあるディートリヒは、このタイミングで賭けに出た。穏健派を勝利させるために、上層部を騙し、独断で大胆な行動を起こしたのである。
(リクトビア・フローレンス。まさか、帝国の狂犬を利用しようとするとはな)
ルドルフ旗下の諜報員が手に入れた、ある一つの情報。それは、ヴァスティナ帝国軍参謀長リクトビア・フローレンスが、帝国軍から姿を消したというものである。
エステラン国に潜り込んでいた、ルドルフ配下の諜報員の一人が、リクトビアの率いていた軍団の帰還を知り、調査を行った結果判明した事である。彼がどこに姿を消したのか、それはわからない。だがルドルフは、これがディートリヒとヴィヴィアンヌの仕業であると確信している。
行方不明のリクトビア。撤退した帝国軍。そして、突如帰還したヴィヴィアンヌとその部隊。これだけの事実が揃っていれば、何が起きたか予想するには十分だ。
(精々足掻け。荒鷲だろうが、番犬だろうが狂犬だろうが関係ない。勝つのは俺だ)
国家保安情報局ルドルフ・グリュンタール大佐。別名、「暴豹」。
己が定めた獲物に襲い掛かり、必ず仕留める獰猛な男。アーレンツでは皆、彼の事を陰でそう呼ぶ。