美大1年 初夏
青々とした空に、迫るように立ち上る雲。
絵を描きたい衝動を抑えながら構内を足早に進む。
俺がこの美大の一年生になってからもう早くも4ヶ月が過ぎた。
ここの美大は俺の地元から電車で約1時間以上。
自宅からでも通える距離だが、あまり家にいたくない俺はアパートを借り、バイトも始めた。
よく行く雑貨店のバイトは社員割引で画材が購入できるので、あまり持ち金のない俺には十分魅力的だった。
学校では蓮も李紅もいない生活にもなれ、それなりに新しい友達もできた。
ただ、蓮とは高校を卒業した今でも連絡を取り合っている。
蓮は地元の一般企業に就職、李紅とは土日に会ったりで上手くやっているらしい。
この間は温泉旅行に行ってきた!!というメールを、女子のようなハートマークが並べて送ってきた。
メールに添付された写真には李紅と2人浴衣を着て、料理を食べている姿。
蓮はともかく、李紅の浴衣姿には顔が少しだけ熱くなった。
今日は大講義ホールのちょうど真ん中あたりに席を確保。
いつもなら目があまり良くないので前の席に座るのだが、この講義の教授は基本的に口頭で話すだけで板書をしない。
聞くだけなら目立たない後ろ席でもいいかと、荷物を置いて着席する。
いつもより早く来たため、まだ生徒の数は少なかった。
このホールは後ろがガラス張りになっているため、日当たりが良く暖かい。
俺は時間までいつも見ている美術雑誌を読むことにした。
「アオイ、今日は早いのね。隣いい?」
隣を見上げると、そこにはレイナがたっていた。
レイナ・メル・ベルターニャ。
彼女はイタリア人で、日本に留学しに来ている学生だった。
ふわりと揺れる長い赤毛の髪が陽差しに透けて金色っぽく見える。
俺は、どうぞ、と短く言って彼女のほうから視線をそらした。
「ありがとう。」
そう言って座る姿もどことなく優雅だ。
「ところで、何の雑誌見てるの?」
レイナが俺の手元をのぞきこむ。
彼女のの甘い香水の香りがほんのりと俺のまわりを覆ったのが分かった。
「あぁ、絵画。アオイは本当に絵が好きね。」
「そうだ、今度一緒にイタリアに行きましょう。フィレンツェを案内してあげるわ!」
そう言った彼女は楽しそうに両手を合わせた。
彼女の故郷はイタリアの北部に位置するイタリア・ルネサンス発祥の地、フィレンツェだった。
中世ヨーロッパからの雰囲気をそのままに残した歴史地区にはもちろん興味がある。
「そのときはよろしく。」
とレイナに向かって言い、また本に目を落とした。
しばらく静かな空気が戻ってきた。
横目で彼女を見てみると、つまらなそうにしたレイナがこちらを見ている。
そして突然の一言。
「アオイは、なんでいつも寂しそうな顔をしているの?」
彼女の上手な日本語の意味が俺には理解ができなかった。
俺が寂しそうな顔?
自分ではそんなつもりはない。ただ、いつもどおりに生活をしているはずなのに。
「みんなといるときは普通なのに、一人でいるときはいつもそんな顔してる。なんか悩みでもあるの?私、聞いてあげるわ。アオイの役に立ちたいから。」
レイナは真剣な表情だ。
強い意志を感じるその眼差し、確信を持ったそのセリフに一瞬ひるんでしまった。
「別に俺はいつもと同じだよ。悩みなんてないし。」
そこまで言うとちょうど教授が扉から入ってきた。
いつのまにかホールの席も半分以上埋まっていて、結構な時間がたっていたことに俺は気が付いた。
俺はそのまま口を閉ざし、彼女もそれ以上俺に尋ねるようなことはなかった。
レイナとは入学式で隣の席になって以来、よく話すようになった。
なにがきっかけで、というのはまったく覚えていなかったが。
彼女と話すのは嫌いじゃない。
「アオイ、お昼なに食べる?私今日は天ぷらそば食べるわ。」
この時間にぎわった食堂のメニューを見ながら嬉しそうにレイナは言った。
彼女が少し声を上げるだけで周りにいた人が振り向く。
もう慣れたが、レイナはこの学校でもとても有名だ。
イタリアという異国の容姿、その中でも一級品であろうプロポーションと顔立ちから多くの人の目を惹いた。
そしてこの人懐っこさもきっと人気の要因だろう。
「今日って、確か昨日もそれ食べてただろう。俺はBランチ。」
彼女が俺の分の食券をもってきてくれる。
俺はその間二人分の席の確保をする。
窓際にあいたテーブルを見つけ腰掛けたが、外のほうを見ると遠くのほうで誰かがサッカーしているのが見えた。
そのままボーっと外を眺めているとトントンと肩を誰かがたたく。
振り向いてみると同じクラスの有川が笑顔で立っていた。
「何、たそがれてんの。桐崎、お前の綺麗な彼女があっちで呼んでるぞ。」
有川が指差すほうへ目を向けると、すらりと伸びた長い腕を大きく振りながら俺の名前を呼び、向かってくるレイナの姿が目に入った。
「あぁ。」
ゆっくりと椅子から腰を上げると隣でくすくすと笑う声が聞こえる。
「本当、お前の彼女かわいいな。ほら、今無視されたと思って怒ってるみたいだぞ。」
笑いを隠すように口元を手で抑えている有川はレイナの行動ががツボにはまってしまったようだった。
「…彼女じゃないよ。」
えっ?と聞こえなかったとでも言うように、彼は俺の言葉に耳を傾ける。
「俺とレイナは付き合ってないんだ。」
そう言って、俺は目の前まで戻って来たレイナを正面切って迎える。
最初はぽかんとして俺をみつめていた彼女だが、そのうちそう言われるのを予想してたかのように、口元に綺麗な弧を浮かべて笑った。
「È il mio amante.
…Uno di questi giorni certamente.」
久しぶりに聞いた彼女のイタリア語。
本場の言語は早すぎて、俺も一瞬聞き逃すところだった。
隣にいた有川はなんていったの?と彼女を見つめている。
なんだか楽しそうにこちらを見つめてくるレイナの両手にはBランチプレートが二つ。
彼女の手に乗っかっていたBランチのプレート1つをその手から取り上げ先ほどのテーブルへ向かう。
「È un scherzo.」
俺が小さくそうつぶやくと、彼女はますますおもしろいといった表情で笑い、テーブルへと戻る俺の後を嬉しそうについてきた。
有川も「なんていってたの?」と俺たちの後をついてくる。
『あなたは私の恋人よ。
…いつか必ず、そうなるわ。』
『冗談だろ。』
レイナとならもしかしたら、本当にそうなれるかもしれない。
単純にそう思った。
純粋で、積極的。
思ったことははっきり言う。
…なんとなく誰かに似ているのはあまり深く考えないようにしようと思った。