高校3年 春
学校の一番高い塔の最上階、そこにはいつも鍵がかかっていた。
そこは屋上に繋がる扉、学校の先生方も誰もそこの鍵を持ってはいない。
特別な人しか開けるのできない扉はもう何年も開かれてはいなかった。
しかし、一昨年の春、その扉はまた一人の生徒を屋上へと招き入れた。
そう、俺が一年生のときに。
「久しぶりだな、最近いろいろあったから、来てなかったんだよな。」
具合が悪いといい、三時間目の授業を抜けてきた。
今日は最高の小春日和で、俺は暖かい日差しと春の匂いを感じながら、誰もいない屋上で一人寝転がった。
薄い青で統一された空に、細切れに浮かぶ雲。
桜の匂いと日差しの暖かさが、強く春の訪れを語っていた。
俺は空を仰ぎながら、手にした鍵を透かして見た。
この学校に続いている知る人ぞ知る特別な伝統、それがこの屋上の鍵らしい。
俺は高校の入学式の朝、この学校の卒業生で六歳年上の姉さんからこの鍵を受け取った。
この鍵のことは秘密にしている必要があるらしい。
本当は卒業式の際に在校生の誰かに渡すのが習わしだったのだが、俺の姉さんは私忘れてしまったのだそうだ。
だから姉さんは卒業してからもこの鍵を大事に持っていたらしい。
さび付いて鈍く光るその鍵は、俺の癒しの鍵として、いまでは有効的に活用されている。
俺は起き上がると、美術室から無断で持ってきた画材で屋上からの風景を描いた。
淡い青い空に、桜の並木道、俺は思いつくままに色を塗り続けた。
それから、何時間くらいたったのだろう、途中でポケットの中に入っていた携帯電話がなった。
ディスプレイには「水嶋 蓮」という文字があった。
「今、どこ?俺に黙ってサボるなんて。早く戻って来い。今日最後の授業はお前の大好きな「数学」だぞ。」
「別に好きじゃないんだけど・・・。なるべく早くもどるようにするよ。」
電話をきった俺は絵を描くのをやめ、またその場で仰向けに寝転んだ。
そして、その場で目を閉じ、最後の授業まで時間を潰した。
最近俺はまた部活に行かなくなった。
放課後も前のように蓮たちと放課後まで残って遊んだり、写真を撮りに出かける蓮に付いて行ったり。
そして、今日もそのまま家に帰ってきていた。
時刻は8時、俺は散歩してくるといって外へ出た。
春の夜はまだすこし肌寒く、俺は薄手のコートを羽織って歩いた。
夜に一人で散歩するというのは高校に入ってからの癖だった。
イライラしたときは、いつもこうやって歩いて気分を落ち着かせていた。
しばらく歩くと、あの日の公園が目の前に現れた。
ふと甦る、あの日の青さと、蝉の音。
俺はまたあのときのようにゆっくりと川原沿いを歩いた。
今回もまた空を見上げながら。俺の歩く足音だけが大きくあたりに響いていた。
「先輩、転びますよ。」
急に後から聞こえた声に体がふわっと浮いた感覚になった。
聞き覚えのあるその声に、そんなことあるわけがないと思いながらも俺は後ろを振り返る。
するとそこには暗闇の中に浮かび上がる白いパーカーを羽織った、正真正銘本物の李紅の姿があった。
「こんばんは。久しぶりですね。最近また、先輩部活に来なくなったから。」
1か月ぐらい部活に出ていなかったので、久しぶりなのは間違いないのだが、その違和感を全く感じさせない話し方だった。
「こんな時間に、なにやってんの。危ないだろ。」
「先輩だって出歩いてるじゃないですか。私はコンビニの帰りです。」
彼女は大きなビニール袋を手にしている。
にこやかに微笑む李紅を目の前にし、俺は今険しい顔をしているに違いないと思った。
「リクは女の子だし、なんかあったら大変だろ。」
「だって、珍しく綺麗な夜だったから、じっとしていられなくて・・・。」
そう言った彼女が見上げた空をつられて仰ぎ見る。
すると綺麗な星がはっきりと見えた。
「暗い場所だったらもっと明るく見えたのかもしれないですね。ここはまだ街頭とかで明るいから。」
そうつぶやいた李紅は少し寂し気に首を下げた。
「暗い場所…。」
俺はその隣で同じように夜空を見上げながら、自分のポケットに手を入れる。
指先に触れる少し冷たい物。
それを確認し少し考えて、冷えた李紅の手を取った。
いきなりの出来事に頭が付いて来ていないのか、李紅は呆気にとられた表情で繋がれた手を見つめていた。
「ここ?」
李紅が隣で不思議そうな顔で俺をみている。
俺はあぁ、と一言だけ言うと躊躇せず足を進めた。
いまだ繋がったままの左手が妙に熱を帯びていた。
「夜の学校って、初めてです。でも、入れるんですか?鍵とかかかってるんじゃ?」
「この学校、一回の化学室の窓の鍵が壊れてるんだ。一年生のときに発見したんだけど、そこから入れる。」
そう、夜の学校に忍び込むのはこれが初めてじゃなかった。
前に一度、一年生の夏休みに蓮と晃と3人で忍び込んでいた。
その目的が何だったのかいまいち覚えてはいないのだけれど。
忍びこんだのがばれて、なぜか自分だけが捕まって怒られた記憶。
今となっては笑い話だ。
李紅と俺は化学室の窓からあっさりと学校の中に入った。
俺たちが歩く音以外は何も聞こえない、暗く長い廊下。
唯一の光は窓から差し込んでくる月明かりだけだった。
俺たちはうっすらと浮かびあがる壁や非常看板を頼りに目的の場所へとたどり着いた。
「葵先輩、ここ屋上でしょう?開かずの扉って、みんな言ってました。どうするんですか?」
俺は無言でポケットから鈍色に光る鍵を取り出し、扉の鍵穴にはめ込んだ。
わぁ、と小さくつぶやく李紅。
そのまま何かに誘われるようにして歩き出し、屋上のちょうど真ん中で急に立ち止まった。
「葵先輩、本当にありがとうございます。こんな景色めったに見られないですよ!」
振り返って笑みを見せる李紅、うっすらと見える李紅の輪郭に心拍数が少しだけ上がった気がした。
2人並んで屋上に寝転がった。
昼間とは違い、下のコンクリートが冷たかったが、あまり気にならなかった。
「俺は、春の大三角形くらいしか知らないな。星座なんてここらじゃあまり見られないし。」
「アルクトゥールス、デネボラ、スピカ。その先にあるのがうしかい座に、あっちがおとめ座・・・。」
「・・・スピカぐらいしか知らないな。」
俺は隣で手を伸ばしながら話す李紅の姿を見つめていた。
夢中で指をさし続ける李紅は見ていてもまったく飽きることはなかった。
楽しそうに話す彼女の横顔はいつもより少し幼く見えた。
しばらくして落ち着いたのか、口数が少なくなり、静寂が訪れた。
かすかに聞こえる車の音と、木々の葉が風に揺られてこすられる音。
心地よい沈黙に包まれて、俺はそっと目を閉じた。
「先輩、今日のこと、蓮…先輩には内緒にしておいてくれませんか?」
長く続いたこの穏やかな沈黙を最初に破ったのは俺ではなくて、李紅のほうだった。
唐突なお願いにとっさになんで?と聞き返してしまった俺は、少し後悔した。
俯いて一生懸命言葉を捜す李紅に、俺は「そろそろ帰ろうか。」と、声をかけ立ち上がった。
李紅も俺に合わせてゆっくりと立ち上がるが、俺に背を向けたまま黙ったままだった。
李紅の言いたいことはもうわかっている。
それに、自分の気持ちも。
「李紅。」
俺は李紅をそっと後ろから抱きしめた。
彼女は慌てたように後ろにいる俺を振り返る。
「『あおい』って、呼んで。そうしたら、蓮には話さないでおくよ。だから。」
今、俺はどんな顔をしているのだろう。
李紅の甘い香りが間近で鼻をかすめる。
小さく震えているのは李紅か、それとも俺かわからなかった。
「あ、アオイ。」
俺の腕の中で小さく深呼吸をした彼女の口から小さな声が漏れた。
「葵。」
呼びなれない俺の名前に戸惑いながらも、李紅は何度もそうつぶやいた。
俺は彼女の呼ぶ自分の名前が恥ずかしく、そしてとても暖かくなった。
たとえそれが俺が無理矢理言わせた偽りの言葉だとわかっていても。
この日のあと、一度だけ部活に参加し、高校最後のコンクールの絵を仕上げた。
忘れられそうにない、あの夜の空。
春の大三角形とそれにつながる星座は、李紅が教えてくれた。
あと1年。
ここでの生活を楽しむために、一番輝くスピカはこの絵に閉じ込める。