高校2年 初冬
今、張り詰めた空気が漂う図書館の一番隅の席には、二人分の教科書とノート、筆記用具が広げられている。
季節は冬、第5回目の今年最期の定期考査、と言う大きな壁を目の前に、俺たちは身動き取れない状況にあった。
そして図書館の椅子に座った俺の目の前には数学が、そしてとなりに座る蓮の前には世界史が堂々と存在感たっぷりにおかれている。
「葵、もうやめよう。絶対に間に合わない。定期考査はあさってだぞ?今からはじめたところでどうにもならない。」
蓮はもう、どうでもいいとでも言うように、世界史の教科書を鞄にしまおうとしていた。
俺はすばやく蓮の鞄を取り上げ、自分の世界史のノートを蓮の前においた。
「どうにかなる、ならないはお前次第だよ。ほら、俺のノート貸してやるから、チェックの入ってるところだけ、やって。俺、お前が後輩になるのは嫌だし。」
蓮はしぶしぶ今回の範囲であるページを開き、いかにもやる気がなさそうにペンを走らせ始めた。
時折ペンを回すしぐさに、蓮も相当参っているようだ。
俺は自分の視界に入る、数字に目を向けた。
意味のわからない数式の羅列に、アルファベットや数字がならんだ問題集。
教室での授業では理解したと思うのに、いざ一人でこの数列に対峙すると一瞬で頭が真っ白になっていく。
この不思議な感覚は中学に数学に出会ってからというもの何度も遭遇した。
周りには同じ同じ制服を身にまとった学生が多数机に向かっていた。
一人で座っている人もいれば、数人で固まって勉強している人たちもいる。
ヒソヒソと何かをささやく声に、なぜか耳が勝手に傾いてしまう。
明らかに集中していない証拠だった。
「アオイ。」
囁くように俺の隣から声が聞こえた。
毎日聞いている声だが、しんっとした場所で聞くとまた違った声に聞こえる。
「なぁ、お前さ、李紅のこと、どう思ってる?」
沈黙が続いた。
質問の意味を理解するのに時間がかかったのだと思う。
突然な蓮の問いは数学で混乱していた頭の中をさらにかき回すように追い打ちをかける。
隣を見ると蓮はずっと視線をノートに落としたままで、そこから蓮の表情を見ることはできなかった。
「…突然だな。どうって、どういう意味?」
「そのままの意味だよ。好きとか、嫌いとか、いろいろあるだろ?」
小さな声で蓮の質問を聴きなおしてみたものの蓮の方を見ることができなかった。
視界の端でクルクルと蓮のペンが回っているのだけはわかった。
「…嫌いなわけ、ないだろ。」
横目で蓮をみやると蓮はノートの一点を見つめていた。
その真剣な表情に、俺はいつもと違う空気を読み取る。
それはまるで不安と悲しみが入り混じったような。
「葵・・・俺は、俺は李紅が、好きだ。」
それは、一瞬聞き逃すくらい小さな声だった。
いつも自由で、マイペースで。ふわふわした蓮の雰囲気はどこにもなかった。
何度か見たことのある、真面目な蓮。
「一目ぼれだった。真剣に絵を描く彼女に、俺はあの日、無意識にシャッターを切ってた。こんなの初めてなんだ。」
そうか、と一言つぶやいた。
なんと声をかけていいのかわからなかった。
一つだけはっきりとわかったことは蓮は本気だということ。
蓮の震える声が、表情が、すべてがそう言っていた。
「葵は?」
えっ、と蓮のほうを振り返ると、真顔でこちらを見つめる蓮がいた。
俺は一瞬蓮の眼に囚われ、持っていたペンを床に落としてしまった。
図書館に大きく響く落下音、その後にある静かな空気がなんだかとても痛かった。
「・・・彼女の絵はすごく好きだよ。」
そう言いながらゆっくりとした動きで床に落ちたペンを拾い上げた。
これ以上の言葉も、これ以下の言葉もみつからなかった。
この言葉が今の精一杯のセリフだった。
「葵、俺リクに告白するから。」
程なくして、蓮から報告を聞かされた。
なんとなくそうなるだろう、と思っていた。
わかっていたのに、蓮には「よかったな」の一言すら言えずに頷くだけになってしまった。
「葵先輩。最近なんだか元気ないですね。どうしたんですか?絵もなかなか進んでないみたいですし。」
後から俺の絵を覗き込むリクは、もう帰る準備を整えたようだった。
大き目のダッフルコートを着て、手にはカラフルなマスコットがついたカバンを手にしていた。
「あぁ、わかった。先輩、この間の定期考査の結果悪かったんでしょ。だから落ち込んでるんですね。」
「違うよ。むしろ良かった。今までの中で一番いい成績だった。」
「そんなんですか。じゃあ、今度私に勉強教えてください。私数学本当に苦手なんです。」
「いや、俺も数学と化学は苦手なんだ。文系だし。」
「なんだ、私と同じですね。じゃあ、一緒に蓮…先輩から教わりましょう。」
何回か蓮と李紅が二人で話すところや一緒に帰るところを見たけれど、なんだか未だに慣れないでいた。
それでも2人の距離は以前よりどんどん近くなっているようだった。
俺の知らないところでどんどん変わっていく2人がなんだか、遠くにいるように思えた。
「ところで、今日は蓮と帰るんじゃないのか?早く行かないと、アイツ待ってるだろ。」
「そうだった!」と李紅は振り返って壁にかかっている時計を見た。
もう、15分近くこうやって話していたらしい。
李紅はあわて気味に「さようなら。」と美術室から出て行った。
俺は書きかけの絵に視線を戻し、作業を再開した。
窓の外の景色は冬に向けた寂しげなものに移り変わってきていて、夕日で山並みが赤と群青色のコントラストで染まっている。
李紅が帰って一人になった美術室の教室はひんやりとした空気に包まれ、遠くでは運動部の掛け声が小さく聞こえていた。
俺は少しの間俯いて目を閉じて一呼吸つく。
あと少し。
目を開けると手に真っ赤な絵の具がついていた。
いつの間についたのだろうか。
まるで血が滲んでいるかのような赤の絵の具。
ふと、さっきまでここにいた李紅の姿を思い出した。
李紅は今頃蓮と歩いているのだろうななんて考える。
2人の並んで歩く姿を想像し、俺は赤の絵具を布で拭って、また作業を再開した。