高校2年 秋
真っ白なキャンパスを目の前に、俺の頭の中ではたくさんの色が浮かび上がっては消えてゆく。
俺は冷たくなった手に息を吹きかけて、絵筆を取った。
季節は秋、残暑も終わり肌寒く感じるようになった。
美術室の窓からは早くも赤くなり始めた太陽が陽を注いでいる。
オレンジ色に浮かんだ雲は見ているだけで、体を暖かくしてくれるようだった。
「葵先輩、最近毎日美術室に来て絵を描いていますよね。」
俺の隣では同じようにして絵を描く彼女がいた。
彼女はまたいつものように制服に虹色の鮮やかなエプロン姿でキャンパスに筆を落としていく。
「どうしたんですか?急に。」
意味ありげな表情でにこにこと微笑む彼女はいつのまにかこちらを向いていた。
「なんとなくだよ。ただこんな空間で絵を描くのも悪くないなって思っただけ。」
「じゃぁ、今まではどんな風に絵を描いてたんですか?」
「描きたいときに描くって感じ。いい風景とかあったらその場ですぐにスケッチしたりとか、画材広げてそのまま描くとか。」
「そっか、だから葵先輩の絵はいつも生き生きしてるんですね。そういうのってすごくいいと思います。」
彼女は大きな目をこちらに向けて感心したようにうなずいた。
そんな彼女を横目で見ながら手を動かし続ける。
すると彼女は少しだけ俺のほうに身を乗り出し、俺の描いている絵を覗き込んできた。
「やっぱり、葵先輩の絵はすごいですね。感動が率直に伝わってくるから。私、本当に先輩の絵が好きみたいです。」
肩が触れるか触れないか。
ゆっくりと彼女から体を離し、彼女につかないように黄色の絵の具が付いた絵筆を置いた。
先ほどまで冷たかった指先がジンジンと熱を帯びてきたようだった。
周りの生徒がぞくぞくと帰る準備をし始めた頃、俺はまだキャンパスをにらんで椅子に座っていた。
隣に座る彼女も一通り描き終えたのか、手直しを加えているところだった。
「リク、そろそろ時間だ。それ塗ったら片付けよう。」
あと、もう少し・・・と丁寧に色を塗り続ける彼女の頬には赤色の絵の具がついていた。
白い肌にそれはよく映えていた。
コンコン。
美術室の扉のほうから壁を二回叩く音が聞こえた。
振り返ると、そこにはカメラをこちらに向けた寝癖頭の男がひとり。
「蓮、悪い。今片付けるから少し待ってて。」
道具を片付けながら声をかける。
おう、と小さな返事を返す蓮だが、以前蓮はカメラを構えたままだ。
「れん?」
次の呼び掛けに答えはなかった。
蓮は無言でシャッターを切り続けている。
俺は蓮のとなりまできてやっと蓮の視線に気がついた。
静かな空間に響くシャッター音、俺の頭の中でその音が反芻する。
「だれ?あの子、お前の後輩?」
「あぁ、片瀬李紅。」
そうか、とつぶやいた蓮はやっとカメラを下した。
俺が視線を蓮から彼女へうつすと、彼女はまだ真剣な表情で筆を動かしている。
そして、その彼女の絵の中では、夕日が沈みかけ、小さく陰りを作っていた。
あぁ、なんて色使いをするんだろう。
窓からの日差しとキャンバスの絵で彼女自身が真っ赤に染まっているような気がした。
次の日教室に入って席に着くと、見計らったかのようなタイミングで後ろの席の蓮が何かを俺の机の上に置いた。
それは茶色の封筒だった。
「なにこれ?」
それを手に取り、中を確認する。
数枚の写真だった。
小さな紙の上には、真剣なまなざしでキャンバスに筆を落とすリク。
昨日見たばかりの光景だった。
「どう?これ今回のコンテストに出そうと思ってるんだ。」
「李紅ちゃん、すごく生き生きとしてるだろ。・・・それに、すごくよく撮れてる。」
昨日の帰り、蓮は彼女にとった写真のプレビューを見せながら歩いていた。
初めて話す二人のはずなのに、彼女は相変わらず違和感を感じさせずに蓮との会話を続けていた。
彼女の才能か、それとも、蓮の人懐っこさなのか。
俺は二人の盛り上がりをすこし後ろから眺める形で帰路についたのだ。
後ろの席で笑顔で話す蓮は、いつもより少し饒舌だった。
普段から元気で明るいやつだったけど、こんなにはしゃいでいる蓮を見たのは今回がはじめてのような気がした。
俺は写真を机の上におき、すごくいいよと一言だけ言った。
蓮はしばらくの間嬉しそうにその写真たちを、眺めていた。
放課後の美術室俺はまた李紅の隣で絵を描いている。
窓の景色はすっかり色褪せ、冬の訪れを告げていた。
横目でリクを見ると彼女は石膏で作られた人の頭を目の前に眉間にしわを寄せている。
俺は乾いた唇を湿らせて、口元をしっかりと引き締める。
コンコン。
小さく壁をたたく音が聞こえた。
ここ何日かお馴染みの音だった。
扉のほうに視線をやると、笑顔を作った蓮の姿。
俺達のほうに軽やかに歩いてくる蓮、その手には一冊の雑誌があった。
「アオイ、これ。」
蓮が手渡してきた雑誌はフォト雑誌だった。
読んだことのない雑誌で、非常に薄く基本写真ばかりが乗っているようだ。
「なに?」
とりあえずペラペラとページをめくる。
柔らかそうな動物の写真や、子供。景色。
その中にふと見覚えのある写真が載っていたような気がして数ページ先までめくり戻した。
そして、あぁ、と納得。
「リクだ。」
自分の名前がつぶやかれたのに反応して、彼女がこちらをのぞき込む。
彼女の頭が顔のすぐ横まで来ていた。
「なんですか?私・・・?ぁあ!!これ!蓮先輩、これ送ったんですか!?」
彼女は俺から雑誌を取り上げると、雑誌に顔をつけるように見続けている。
雑誌の一ページには見慣れた美術室と夢中で絵をかく、これまた見覚えのある女子。
まさにこの空間でとられたリクの姿が写真に収められ、雑誌のページを飾っていた。
「やっぱり、これが一番いいかと思って。」
自分の知らないところで二人の話は進んでいるようだった。
隣で楽しそうに話をする親友と李紅の姿に、自分の知らない二人を見ていた。
俺はそのまま視線を二人から自分の作品に移し、絵の続きを描き始めた。
先ほどのようには進まない筆になんだかいらいらした。
俺は自分のこのいらだちの意味に少しの間頭を抱えた。
俺は自分を落ち着かせるように静かに筆を置いた。