side李紅 戻れない場所
変えたくない日常があった。
私はただ逃げただけだ。
本気で彼と向き合うのが怖かった。
この関係がずっと続いて欲しいと願っていた。
……私は本当にずるい人間だ。
夜空に小さく光る星だけが見ていた。
冷んやりとした空気が短い呼吸と共に肺に流れ込んでくるのがわかる。
あの人とは違う香り。
私は後ろから回された腕に囚われ、身動きが取れないでいる。
どうして、こうなったんだろう。
ふと首だけ動かして少しだけ後ろを振り返る。
あまりにも近くにある先輩の顔に、心臓が跳ね上がるのがわかった。
「 『葵』って、呼んで。そうしたら、蓮には話さないでおくよ。だから……お願い」
耳元で響く低い声が体の半身を震わせる。
首にかかる熱が、私の思考を奪っていく。
「……あおい?」
呼びなれたはずの名前だが、敬称をはずすのには抵抗があった。
なんだか、違う人の名前のようにも感じた。
「あ、アオイ」
声が上手く出せない。
体を包む腕に少しだけ、力が入るのが分かった。
「葵」
私は何度も葵先輩の名前を呼んだ。
どうしていいいか、わからなかった。
先輩の名前を呼ぶ以外に、何をどうすればいいのか。
本能で先輩の名前を呼ぶ。
そして混乱する頭で、考える。
なぜ、先輩は私に名前を呼ばせたのか。
なぜ、先輩は私を後ろから抱きしめているのか。
どのくらい経ったのか。
ふと、先輩の腕が緩んだ。
慌てて振り返ると暗闇にぼんやりと浮かぶ先輩の顔は、眉間にしわが深く刻まれていて。
口元は片腕で隠していた。
その時なんとなく、あの寒い冬の日を思い出した。
『俺の彼女になりませんか?』
遠くで声が聞こえた気がした。
あぁ、先輩もあの時の蓮と同じなんだ。
そう気がついたら、先輩のさっきの苦しそうな表情や名前を呼ばせた理由、そして私を抱きしめた理由もなんとなくわかってしまった。
「先輩……、あの」
「帰ろう、あまり遅くなるといけない」
先輩はそういって私に背を向ける。
「……そうですね、帰りましょう」
気にしてはいけない。
意識してはいけない。
頭の中でそう何度もつぶやきながら先輩の背中を追って歩く。
階段を降りる所で先輩が立ち止まり、こちらを振り返った。
その表情はいつもと変わらないような気もした。
気にしてはいけない。
意識してはいけない。
私さえ気がつかない振りをすれば、もとの日常に戻れる。
学校に行けば蓮に会えて、部室に行けば先輩が居る。
そして二人で絵の話をして、蓮の話をして。
お互い顔を向き合わせて笑うことができる。
そう思いたかった。
またあの化学室の窓から外に出た。
何気なく先輩は手を貸してくれたけど、その手が少しだけ震えていることに私は気がつかないフリをした。
私は先輩の後ろを歩く。
少し肌寒いの夜道は細い虫の鳴き声だけ聞こえていた。
歩きながら暗い夜空を見上げる。
街灯の明かりにならされた目は、もうあの空の小さな光を拾ってはくれなかった。
「……星、もう見えないですね」
「そうだな」
歩みを止めた先輩が同じように空を見上げた。
さっきと同じ空を見ているはずなのに。
こちら側からはもう何も見えない。
喉の奥の小さな痛みを飲み込むように私は一歩足を進めた。
今度はまっすぐ、先輩のその先へ。
本当は。
もう一度。
もう一度だけあの星空を見たかった。
春に一番輝く、あの小さなスピカを。




