葵27歳 夏
「あおい、ママがごはんだって」
あおむけに寝そべって本を読む俺のお腹にずっしりとした重さが乗りかかる。
本のから目をそらし下の隙間からのぞくとそこには不機嫌そうに俺を見るヒカリがいた。
「なんだ、今日のごはんは魚か」
「なんでわかったの!!」
「俺には人の考えていることがわかってしまうんだ」
目を大きくさせてこちらを見るヒカリは写真で見た昔の李紅そのものだ。
彼女に告げると彼女は先ほどまでの不機嫌さが嘘のように元気になる。
「光、『パパ』って呼びなさいって言ってるでしょう。何回言っても聞かないんだから」
扉の向こうからエプロン姿の李紅が顔をのぞかせた。
「いいよ、気にしてないから」
「そういう問題じゃないのよ」
と李紅は最近の小さい彼女の言動に悩まされている。
テレビや幼稚園の友達の影響からかヒカリは最近俺たちが思ってもないことを口にするようになってきていた。
「ママ、今日はハンバーグにしてっていったのにぃ」
「ハンバーグは一昨日食べたじゃない」
リクはあきれたように光の頭に手を載せる。
頬を膨らました光は魚が大嫌いだ。
「ハンバーグはまた今度ね」
こういう普通の会話がものすごく心地よかった。
今となっては気にならない話だが、俺の家族はよく言えば『放任主義』、悪く言えば『無関心』を暗黙の了解としていた。
何をするのも自己責任。
大学を決めるときも、俺がリクとヒカリと家族になると告げた時も、俺の両親は頑張りなさいという一言だけだった。
もともと家族団欒の機会の少ない家庭だったのだ。
しかしリクとヒカリと言う家族が増えて、年に何度か俺の実家に帰る頻度も増えて。
両親と会話する機会も増えて。
俺と両親をつないでくれたのもヒカリだった。
「葵、もう寝た?」
薄暗がりの部屋の中、李紅の細い声が反対側のふとんから聞こえる。
俺とリクを挟んで間には寝息を立てるヒカリがいる。
「まだ、おきてる」
細く目を開けると、カーテンの隙間から差し込む青白い光が李紅の白い指先に当たっているのが目に留まった。
できる限り小さな声で、そしてリクに届くように慎重に声を出した。
「明日から……ごめんね。できうる限りの準備は整えてあるから、お願いね」
「大丈夫だよ。料理もリクほどじゃないけど、得意なほうだ」
「仕事も忙しいのに、うちの両親も休みの時は預かってくれるって言ってたから」
「うん、何とかなると思うよ。リクは何も心配しなくていい」
「……ありがとう」
明日からリクは長期入院生活になる。
一昨年の春先から体調を崩し、何度か短期で入退院を繰り返してきた。
昨年のフィレンツェの旅行も、体調の良い合間を縫って訪れた。
もともと弱かったのだ。
ヒカリを産んで少しぶり返したのだ、そう思っていた。
「……葵、ちょっと昔話していい?
昔ね、蓮と話したことがあるの。未来の自分たちのこと。その時にヒカリの名前もね、決めてたの」
首をひねって声のほうを見る。
まっすぐ天井を見つめている顔は暗くてよく見えないが、その声はとても優しく、それでもってとても幸せそうだった。
「私たちの光、そして未来への道しるべとなるように。子供ができたらそう名づけようって蓮が言ったの。蓮ったら、本当にそういうところがキザな人だったわ」
「わかるよ、アイツはそうゆう男だ」
人に褒められたり好意を向けられるとすごく照れるくせに、さらっとそう言った台詞を口にする。
本当に憎めない奴だった。
「生まれた子供とどこに行きたいだとか、何をしたいだとか。未来の私たちをたくさんたくさん、想像して。蓮は事あるごとにその話をしていた」
蓮が『家族』というものにずっと憧れているのを俺は知っていた。
母子2人で、父親が居なかったせいもあるかもしれない。
蓮は家族に対しての理想が高かった。
俺のあんな希薄な関係の家族でさえもうらやましいと言ってくれた。
「その話の中でね、やっぱりいつも葵の名前が出てくるのよ。葵に子供ができたら、その子とヒカリを結婚させて、俺と葵は家族になるんだってね」
「本当いいかげんな奴だよ、蓮は」
小さくつぶやいた俺の言葉に李紅は静かに笑う。
月明かりで青く浮かび上がる線の上にきらきらと埃が浮かび上がっては消えてゆく。
その様子がひどく幻想的だった。
「蓮は、本当に葵が好きだった。私よりも葵が好きなんじゃないかって、本気で疑ったくらい。葵の話ばっかり。私、葵が本当に羨ましかったわ」
ゆっくりと起き上がり、リクの枕元まで移動する。
ヒカリを起こさないように、そっと。
「……葵」
俺に合わせたように体を起こしたリクは今にも消えてしまいそうに、ぼんやりと輪郭が浮かび上がっている。
彼女の顔にそっと手を延ばす。
ひんやりとした空気に、やわらかい肌がとても暖かかった。
「……俺は蓮がすごく羨ましかった。俺にはないものいっぱい持ってるあいつが、本当に羨ましくて、すごくまぶしかったんだ。リクのことも。俺にはかなえられなかったことが、蓮には何でもかなえられていたように思ってたんだ」
彼女に添えられた俺の手に、冷たい雫が伝ったような気がした。
「……私、たぶんもう長くないと思うの」
震える小さな声で発せられた言葉に喉が鳴った。
本当は知っていた。
以前の検診で、担当医の先生に呼び出されたときから。
リクには隠していた。
リクからこの言葉を聞くのは、嘘が現実になってしまうようで怖かったから。
「……わかるよ、自分の体だもの。葵は、知ってたんだよね?」
あぁ、やっぱり私と蓮は同じ道を歩む者同士だったみたい。
冗談交じりにそう言いきった彼女の言葉尻は少しだけ歪んで聞こえた。
俺は何も言えなかった。
かける言葉も、自分のこの感情さえも分からないまま。
ただじっと、彼女の言葉に耳を傾けていた。
ねぇ、葵。
私、間違ってたのかな。
自分のことばっかり後先考えずに突き進んで、結局最後は何一つ責任取れないまま。
全部中途半端なままで。
蓮のことも、光のことも、そして……葵のことも。
葵の未来を奪っておいて、蓮と私の理想を押し付けて。
私、葵にはひどいことしかしてないよね。
私は間違った道を、正当化したくて走り続けたのかもしれないけど。
……やっぱり行き止まりだったみたい。
ねぇ、葵。
私も、蓮も……本当にこんな未来を望んでいたのかな?
リクの背中に手をまわして抱き寄せた。
細い肩を小さく震わせて、俺の胸に頭を寄せる彼女はあの時を思い出させる。
冷たい雨に打たれた4年前のあの日。
あのときは迷いや戸惑いばかりだったけど、今ならわかる。
俺の答えはもう決まっている。
「間違ってない。リクの選択は正しかった。結果はどうであれ、一つの家族がここにいて、これからも繋がっていく。蓮が望んだ未来そのものだよ」
ありがとう、葵。
あなたに出会えて本当によかった。
私達は本当に幸せ者ね。
その日の夜、俺は夢を見た。
見たことのある、なんとなく懐かしい風景。
よくアイツと待ち合わせた公園だ。
まだ夏の始まりの若葉の匂いがしたような気がする。
暑くなってきた気温に重い足取りで蓮の背中を追って歩く。
アイツはお気に入りの一眼レフカメラを首からかけ、俺の前を颯爽と歩き続ける。
「蓮、待てよ」
だんだんと離れていく蓮の背中を見ながら必死に足を動かすが、その距離は開くばかりでなかなか追いつけない。
ふと立ち止まって空を仰ぐと、あの頃の夏にみたままの青く、青く澄んだ空がずっと彼方まで続いている。
「片瀬李紅です」
ふと視線を目の前に戻すと景色は一変して変わり、懐かしい母校の美術室の一角にリクと二人で立っている。
カラフルなエプロンを身に着けた、いまより少し幼いリク。
まだ高校生の彼女。
「葵先輩」
そう呼ぶ彼女は笑みを浮かべている。
そっと手を伸ばすと李紅の姿が急に蓮に変わった。
古い本の匂いが鼻を掠める。
「なぁ、お前さ、李紅のこと、どう思ってる?」
聞いたことのある唐突な質問に一瞬ひるむ。
下をうつむいたままの蓮の表情は読み取れない。
「葵、俺は、俺は李紅が好きだ。……葵、お前は?」
あの時の質問が今、蘇る。
自分の本当の気持ちに自信が持てず、蓮に小さな嘘をついたあの日。
あの時から胸にちくちくと刺さる小さな棘が、ずっと刺さったままだ。
……もう十分わかったはずだ。
レイナの想いを断ち切って、蓮の気持ちを裏切ってまで自分の気持ちを貫こうと決めた。
もう、高校生の俺じゃない。
今、俺の答えはもう決まっている。
俺は。
……俺は、李紅を愛してる。
彼女が悩んでるときは一緒に悩んで、嬉しいときは一緒に喜ぶ。
泣きたい時は一緒に泣いて、楽しいときは一緒に笑う。
見えない先の未来を彼女の隣に並んでみてみたい。
蓮、お前は俺にとって未来そのものだった。
まぶしくて光り輝いてて、突き進むべき道だ。
本当に、俺は幸せだ。
蓮に出会えて、リクとも出会えた。
2つの光に導かれて、俺はこれからも迷うことなくまっすぐ進める。
蓮、ずっと言いたかったんだ。
小学生の頃、教室の隅で一人絵を書く俺を見つけてくれて、ありがとう。
……ありがとう、蓮。
言い切った俺は蓮の方を振り返る。
懐かしい、聞きなれた蓮の声が聞こえた。
「今頃気がついたのか。……遅いよ、葵」
そこには満面の笑みでこちらを見つめる蓮の姿があった。
夢を見てから一年。
翌年7月、蓮は李紅を迎えに来た。




