葵25歳 初秋
蓮は、約束を破るのが得意だった。
待ち合わせには何度も遅刻してくるし、来ないことすら多々あった。
本当に自由というか、気まぐれな猫みたいなやつだ。
律儀に約束を守ろうとしている俺が馬鹿みたいだと思っていた時期もある。
……だから、一つくらい。
一回くらい、俺の方から破っても罰は当たらないだろう。
例えそれが、お前と交わした最後の約束であったとしても。
それは本当に何気なく、目に留まった。
このところ残暑の夏の暑さが続く日曜日の午後だった。
小さなガラス瓶に入った砂のようなものがリクの化粧台の上に遠慮がちに置かれていた。
「リク、これは?」
そういって指をさして彼女を見ると、最近さらに活発に動くようになってきたヒカリの着替えに奮闘する彼女が動きを止めてこちらに視線を投げる。
「あぁ、それ」
ヒカリから脱がしたパジャマを丁寧にたたむ。
なめらかなその動きが、ふと目に残った。
「灰よ。火葬の時の」
そう何気なく言った彼女は化粧台の小瓶を手に取ると、懐かしそうに振って見せた。
さらさらとビンの中で動くその灰は、窓から差し込む光で白く光っている。
「なんだか実感わかないんだけどね。あの年のお正月にね、蓮のご両親と会う機会があっていただいたの」
ほら、あの時私は火葬に参加できなかったから。
と小さく彼女はつぶやく。
なんとなく彼女を直視できなかった。
「でも私ね、今でも思うの。本当は蓮はどこかに隠れてて、私のこと見て笑ってるの。なんかかくれんぼの気分で。そしてね、しばらくするとひょっこり顔出すんじゃないかって。李紅、遅いよって」
襖を隔てた隣の部屋から朝のテレビの音が小さく聞こえてくる。
ヒカリがなにか歌う声も混じって聞こえた。
「だけど、なかなか、見つけられないの。私、にぶいらしいから。早く見つけてあげたいんだけど、葵だったらそんなこともないのかもしれないね」
「……俺にも、見つけられないよ。アイツは隠れるのが上手すぎた」
リクの背中。
儚げで子供一人産んだとは思えないほどに細い体。
俺はその壊れてしまいそうな小さな体をつぶさないように軽く、軽く抱き寄せる。
「あお、い…?」
「まだ、蓮じゃなきゃ、だめ…か?」
腕の中で彼女が小さくなるのがわかった。
顔にかかる李紅のやわらかい髪の毛が俺の頬を掠める。
「こんなことするの、卑怯だってわかってる。李紅にも、蓮にもどう言い訳したらいいのかも、思いつかない。だけど、今でもアイツこと想って泣く李紅なんか、俺は見たくない。アイツだって、そんなの望んでない」
もうずっと前から考えていた。
何度も言おうとして、そして言えなかった。
言葉にしようとするたびにアイツの顔がちらついた。
無意識に握った彼女の左手に少しだけ力がこもる。
きっと彼女にも言いたい言葉はもう伝わっている。
「結婚しないか?」
部屋に続く沈黙を、隣の部屋のテレビの音と窓から聞こえる蝉の音が紛らわしてくれた。
ヒカリの歌声が聞こえなくなっていた。
俺はいたたまれず、リクに回した腕をほどき襖の奥をのぞき込んで光の姿を確認する。
光は今のカーベットの上ですやすやと寝息を立てているようだ。
自分自身、精一杯の一言だった。
何度も、何度も考えた。
……蓮のため、李紅のため。
いろいろ巡り巡って、それでも最後にたどり着くのは自分のためだった。
李紅を欲するのは自分が李紅を手元に置きたいから。
蓮を心配させないため、李紅の生活のため、なんて笑える言い訳にもならないことくらい、最初からわかっていた。
すべては俺がリクを欲しいから。
「葵」
彼女が小さく、震える声で俺の名を呼ぶ。
こちらを振り向いた彼女はその細い指で、目元をすくう。
「葵、ありがとう」
綺麗な笑顔が俺を見上げていた。
迷いのない瞳。
いつか見た、あの目。
「私、葵が好きよ。葵がいたからやってこれたの。一人だったら、耐えられなかった。葵にはすごく、感謝してる。これからも一緒にいたい。
……だけど、
蓮のことをまだ忘れることができないのに、私の心の中に蓮が居るのに。今、このまま葵と結婚してしまったら、葵に対しても、蓮に対しても、私。」
少しだけ滲んだ茶色い瞳とまっすぐに合わさる。
そらしたいのに、どうしてもそらすことができない。
「もう少し時間がほしいの……中途半端な気持ちで2人に向き合いたくないから」
彼女の声が部屋にやけに大きく響いた気がした。
光を起こさないように、2人で冷たいお茶を飲んだ。
窓から流れ込んでくる、生ぬるい風に当たりながら、甘いお菓子とともに。
なんとなく話の流れから、話題は蓮のことだった。
「そういえばね、前に蓮からもらった写真があるの」
リクはごろりと横になって寝ている光のお腹にタオルケットを一枚かける。
気持ちよさそうに眠る光は、どことなくアイツに顔が似てきたようだ。
「フィレンツェ、って言ったかな?ヨーロッパの。葵と旅行にいったんだって。嬉しそうに写真くれたのよ」
そう言って差し出した一枚の写真には4年前のあの茜色の街が鮮やかに写っている。
「海外旅行なんて、私一言も聞いてなくて。あの時は蓮が帰ってきてから散々説教したんだっけ」
くすくすと口元を押さえて笑い出す彼女。
俺は手元の写真から顔を上げ、昔の記憶をたどってみる。
「本当に?あいつは李紅はバイトがあるから一緒には行けないとか言ってたけど」
「そんなはずない。私はあの頃まだバイトなんてしてなかったし」
フィレンツェの街と、楽しそうに笑うアイツが写った写真。
彼女はそっと指で写真をなぞる。
「でも、本当楽しそうに話してたわ。川の近くのレストランで食事したこと、葵に意地悪されたとか、ホテルのお風呂がぼろぼろで驚いただとか。
……一番はやっぱり、この写真だけどね」
ドゥオモの天辺で俺が撮った写真。
蓮の手は空へと伸びている。
映画のワンシーンにありそうな、綺麗なカットのその写真は。
「まるで葵の絵の世界みたいだったって」
『葵の絵って、本当に写真みたいだよな』
リクの声と、アイツの声が重なって聞こえたようだった。
はっとして思わず小さく笑う。
俺の絵の世界って。
そんな例え、蓮以外、思いつかないだろうと思った。
どうして蓮が遠いヨーロッパの、それもフィレンツェにこだわったのか。
今ならなんとなくわかる気がした。
「アイツ、馬鹿だよ」
そうつぶやいてリクを見ると、なんのこと?と聞き返してくる。
写真の中のフィレンツェは、今この時もあの姿のまま色鮮やかに息づいている。
「リク。一緒にフィレンツェに行こう」
えっ?
「蓮もつれて、今度は俺と李紅、光と4人で」
あ、おい?
リクの顔が近づいてくる。
俺はとっさに彼女の瞳から目をそらし、顔を下に背けた。
こんな姿、リクにだけは見せたくなかった。
片手でふさいでも、隙間から流れ落ちるそれは止められなかった。
「泣かないで、葵」
彼女の小さな手が、そっと俺の頬に添えられた。
彼女の指先はひんやりと冷たくて、火照った俺の頬をゆっくりとなでている。
蓮、お前本当に馬鹿だよ。
こんな形で残そうとするなんて。
俺が気がつかなかったら、どうするつもりだったんだ。
時を止めた街、フィレンツェ。
こんなことしてまで、お前は生きてたかったんだよな、蓮。
写真に写る茜色の街。
その中で幸せそうに笑う蓮は、今にも動き出すかのようにリアルに、時を止めている。




