美大4年 冬 【暗夜】
気が付くと俺は家を飛び出して、雨降りの中を走っていた。
ただひたすらに。
頭を冷やしたかった。
とにかくいつも通りの道をひたすらに走って駅に向かった。
れんが死んだ。
リクからの電話が切れたとわかってから、しばらくその場を動けなかった。
なんだか体に力が入らない。
頭もよく回らない。
ただ、さっき開きかけた封筒がテーブルの上に投げ出されているのが目についた。
ゆっくりと手を伸ばす。
指先が冷えているようだ、上手く手紙がつかめない。
薄い一枚限りの紙を慎重に開いた。
出だしの一文が印象的だった。
まるで小説のプロローグにありそうな一言だった。
『俺は葵の泣き顔を今までに一度も見たことがないようだ。』
駅に着いて電車に飛び乗った。
車内はそこそこ空いていて、席は沢山あった。
適当なところに座ろうとして、やっぱりやめた。
手には水が滴る傘、そして傘をさしていた割にはびしょびしょに濡れた足元。
とりあえずそのまま入り口のところに立ったまま道のりを過ごすことにした。
真っ暗な電車の窓の外では雫が真横に伸びていく。
それを見つめながら思い出していた。
病院内は面会時間をとっくに過ぎていて、真っ白い廊下は照明が落とされて少し薄暗い。
病院について傘をビニール袋に入れた後、受付へと向かった。
受付では白いナース服の看護師たちが笑顔で談笑していた。
大きな病院には初めて来たので、正直何をどうすればいいのかわからず立ち尽くす。
不審に思ったのか、一人の看護師がこちらに向かって歩いてきた。
「すみません、面会の時間はもう終わってしまいました。」
いや、と蓮の名前を出すと看護師は名簿を確認し、ぁぁと小さくうなずいた。
ご案内しますと、静かに動き出した看護師に続いて俺も歩き出す。
さっきまで楽しそうだった後ろの看護師たちも、いつの間にか静かに作業に戻ったようだった。
前を歩く受付の看護婦は、短く茶色に染められている髪を後ろで一つに縛っていた。
永遠に続きそうな景色の中、各部屋から洩れる小さな音と、自分の歩く音。
どこをどう歩いてきたのか、エレベーターで何階まで上ってきたのかもわからない。
そしてなぜ、俺がここにいるのかも。
看護師が一瞬こちらに目線を向ける。
無言の合図とともに曲がった廊下、俺はゆっくりと大きく息を吸って、呼吸を整えた。
数人の人が部屋の扉の前で立っているのが見えた。
病室内では慌ただしく人が動いている気配があり、ただ中を覗くのはなんだかためらわれた。
近くまで行くと2人の男女とそして、リクがいた。
男性に肩を抱かれた女性はうつむき震えていて。
顔は見えなかったが、昔の記憶からこの女性が蓮の母親だったと思い出す。
隣の男性と目があった。
「君は・・・。」
控えめに話しかけてきた男性はきっと加奈子さんの再婚相手の方だろう。
男性が話しかけると同時に、加奈子さんが顔を上げた。
「葵君…。」
蓮が…、と目元は赤く腫れ、弱弱しくつぶやいた加奈子さんは言葉が続かない。
俺はその奥で静かに長椅子にもたれかかる李紅を見た。
彼女の髪が邪魔して、その表情は見ることができない。
彼女はただ俯いている。
説明を聞くと、もう病室内を片づけ終わり病院地下への移動をするところらしかった。
結局蓮を看取ったのはリクで、加奈子さんは数分間に合わなかったらしい。
医師による死亡確認が行われた後、すぐに身なりを整えられ、そして病室の片づけが始まったらしい。
病院はホテルじゃない。
そういわれている気がした。
こちらです、と看護婦が入った部屋は電気はついているのだが、薄暗い。
その独特な香りは俺の心臓の心拍数を上げ、全身の力を抜き去っていくような気がした。
そしてここにきて初めて俺はその姿を見た。
部屋の中央に横たわる「れん」は、まるで眠っているかのようにそこに確かに存在していた。
ただ、前に見たときよりも体は痩せて、肌の色は透けるくらい真っ白に、組んだ指は見るに耐えないほど細くなっていた。
「れ、ん?」
小さくこぼれた俺の声が、暗く湿っぽいこの部屋の中に響く。
眠ったまま身動き一つしない親友を目の前に、俺の頭はまったく機能しない。
今の俺の回りは、この空間だけそっくりそのまま時間軸から外されてしまったかのように時が止まっていた。
やせ細り、真っ白な姿の蓮は一緒に旅行に行った時とは風貌がすっかり変わっていた。
しかし、ただ眠っているように見える。
声をかけて、体をゆすればその目を開けておき上がる気がする。
「よう、葵。」
蓮のそんな声が聞こえた気がした。
順番にお焼香を挙げる。
理解ができなかった。
なぜ蓮の前でこんなことをしているのか。
加奈子さんのすすり泣く声が静かすぎる空間に響いていた。
「ご葬儀は?」
聞きなれない言葉が聞こえる。
いつのまにか病院関係者以外に葬儀屋まで来ていたようだ。
流れが速すぎて、よくわからない。
俺は静かに目の前で横たわり眠っている蓮の姿を見つめていた。
「葬儀はこちらで手配いたします。」
凛とした、声が聞こえた。
さっき電話で話した時の声とは雰囲気が全く違うが、これは間違いなくリクの声だった。
わかりました、とあっさりと引き下がった葬儀屋を出口まで見送った。
リクは肩から下げた小さなバックを開き、封筒を取り出した。
「蓮が…蓮が自分で計画を立てたんです。これに従って進めてあげてください。」
お願いしますと、加奈子さんに頭を下げそして封筒を手渡す。
加奈子さんと、男性はお互い顔を見合わせ封筒の中身を確認した。
また加奈子さんの目に大きな涙が浮かび上がり床に吸い込まれるように落ちていく。
俺は目をそらした。
見ていられなかった。
病院から出たリクと俺を待っていたのは、奇妙な沈黙だった。
さきほど紹介を受けた蓮の父親は、泣きじゃくる加奈子さんを優しくなだめながらタクシーに乗りこんだ。
そして残された俺は、一言も口を開かないリクの隣に並ぶ。
リクは傘を持っていなかった。
俺は何も言わないリクの上に傘を描けながら様子をうかがった。
強く降り出した雨に二人、方を濡らしながら静かに沈黙を守っていた。
「蓮ね、笑ってたの。」
夜の街はクリスマスのイルミネーションがまぶしかった。
横を歩く彼女を見る。
騒々しい街の音にまぎれ、唐突に立ち止まり話し出したリクは、笑っていた。
「笑ってたのよ。病院で、自分の体にたくさんの管が繋がれて、動けない状態だったのに。」
そう言った彼女は空を見上げた。
真っ暗で、星も月も見えない空をただ見ていた。
「李紅には笑顔が似合うから、泣いちゃだめだよって、笑顔でそう言うの。」
その瞬間、彼女の目から次々と涙が溢れてくる。
透明で綺麗な粒、雨の粒と混ざり合いながら、ゆっくりと頬を伝って落ちてゆく。
そしてまたにっこりと笑った。
「私、蓮の言った通りにできてたかな?」
傘が地面に落ちた。
すっぽりと納まる小さな体。
少し力を入れれば簡単に折れてしまうのではないかと、本気で思った。
彼女の方は震えていた。
俺はリクの肩に顔を埋め、彼女を抱く腕に力をこめる。
「大丈夫、李紅は泣いてなんかいないよ。」
綺麗な笑顔だ。
俺たちを静かに取り囲む冬の雨は、さっきよりも冷たさを増しているようだ。
雫が髪を伝って頬を流れる。
のどの奥が痛い。
視界がかすむ。
蓮、お前には絶対見せてやらない。
お前のために涙なんか絶対に流さない。
【桐崎 葵 さま
俺は葵の泣き顔を今までに一度も見たことがないようだ。
昔のことを思い出そうとしても葵の涙なんて思い出せないし、思い浮かばない。
葵はどんなときに泣くんだろうな。
李紅は結構泣き虫だから、よく見るんだが。
お前が泣いているとき俺はどうすればいいのかわからないし、きっと何もすることができないだろう。
だから葵、お前は泣くな。
約束だ。
本当、楽しかった。
俺、幸せだ。
葵、お前も。
お前の親友、蓮より】




