美大4年 初夏
講義、バイト、就活、論文。
…講義、バイト、就活、論文。
美大生に問わず、大学4年生というものはきっとこのサイクルの繰り返しなんだと思う。
俺もそれは例外ではなく。
4年生になってからは繰り返しの毎日で。
しかも、就活というのは学生の精神は擦切られる。
「…レイナは、卒業後はイタリアに帰るんだっけ?」
卒業制作に取り掛かっている、レイナは所々に絵の具をつけて振り返る。
ふんわりと絵の具の匂いとともに、レイナお気に入りの香水の香りが鼻をかすめる。
「えぇ。日本への留学は学生の4年だけってパパとの約束だったから。」
私がいなくなるとやっぱり、寂しい?
なんてレイナはおどけたように言うけれど、正直少しだけ、そう思う。
絶対に口には出さないが。
俺も大概、自分勝手だ。
「アオイもこっちで就職先決まったんでしょ。おめでとう。」
「あぁ、ありがとう。」
つい先週、東京に本社がある広告代理店に内定をもらったばかりだった。
就職氷河期いわれているこの時世に、ずいぶん早くに内定を頂けたのですごくほっとしている。
内定を取り消されない限りは、だが。
美大生の就活は困難を極める。
ゼミで講義を受け持ってくれていた先生が脅しではないと、そう言っていた。
バタバタと焦り慌てて履歴書を書き、試験に向かう他の学生を見ているとどうしても心苦しく感じてしまう。
試験とは無関係なレイナと並んで絵を描いているときが、最近の学校生活では一番落ち着く瞬間だ。
「…リク、最近来ないわね。」
リク。
その名前をレイナの口から聞いたのは久しぶりのような気がした。
実際、あの図書館での一件以来意識的にレイナの前でリクの話題は伏せていたし、レイナもきっとそうだったのだろう。
それになにより、最近リクはこちらに顔を見せない。
タイミング的にはちょうどよかったのだが、構内でも姿を見かけない。
連絡を取ってみても帰ってくる返事はいつも同じで。
『バイトとか、講義とか忙しくて。』
まぁ、3年の授業は基本的に追い込みの授業なので課題も多い。
リクが忙しいというのは納得だ。
それに、少しだけ離れた場所での蓮との関係も時間の余裕を作れない要因だろう。
「…まぁ、俺にしてみたら今はちょうどいいクールダウン時間だな。」
「本当、そのまま諦めてくれたらいいのに。」
レイナが意地悪そうにこちらを見て笑った。
それがなんとなく…すごく安心する笑顔だった。
最近は蓮ともあまり連絡がつかない。
去年イタリアへ旅行に行ってから、正月に顔を合わせたきり一度も会っていない。
蓮曰く、「リクとの約束が最優先‼」だそうだ。
まあ、わからなくもないが。
「アオイは、もう少し自分を好きになるべきよ。」
レイナと目が合う。
「自分がどう動けば周りにとって最善か、頭の中で先に計算してしまう。自分の気持ちなんて後回しでね。」
彼女の細く形のいい指先が、俺の左胸に突きつけられる。
「周りを傷つけるくらいなら、自分が。そうやってずっとイロイロ我慢してきたのかもしれないけどね。それじゃあ、アオイのことを好きな人は報われないわ。」
「アオイが誰かの幸せを願うように、他の誰かもアオイの幸せを願ってるんだってこと。」
私も含めてね。
そう付け加えて、レイナの指が胸からゆっくりと外される。
ピンク色に塗られたその指先に、いつか彼女と見た桜の花を思い出した。
「…レイナ。」
微かに洩れたこの声が、自分のものには思えなかった。
喉の奥の痛む感覚に焦って彼女から視線を外した。
「アオイは、本当に…。」
臆病なんだから。
窓の景色が後ろにどんどん流れていく。
まだまだ梅雨が明けずに曇天空が続く中、今日は久々の快晴だ。
それでも空気は水分を多く含んで、じんわりと生ぬるい風ともに纏わりついてくる。
窓を開けた車内には、それが勢いよく入ってくるのだから、なんとも。
『海が見たいです。』
お昼からの講義に出るためホールに向かっている最中、久々に顔を見せた彼女は俺を見て開口一番にそう言った。
今は助手席で窓から流れる景色を静かに見ているが。
こちらからは横顔しか見えず、表情はわからない。
ただ、以前会った時よりも全体的に痩せたような気がした。
海が見たい、そう言われた時。
正直、冗談なのかと思った。
今住んでいるところから海までは、電車や高速道路を使ってもかなりの時間がかかる。
なんで海?と、聞き返しても、なんとなく。と返ってくる。
彼女の様子がおかしい事には会った時の表情でなんとなくわかった。
元気がない、それくらいは俺にだってわかる。
そのまま、彼女の小さな手を引いて校舎をでた。大人しく歩く姿に力はなく、レンタカーショップに着くまでな何度も後ろを振り返って確認した。
そうして今、久々の運転に精神を疲弊させながらも車を走らせている最中だ。
車のオーディオから流れるのは夏を感じさせるポップな曲だった。
あまり興味がないので、タイトルも歌っている歌手も知らないが、なんとなく好きだと思う。
途中パーキングのコンビニで冷たいコーヒーを買った。彼女もずいぶん喉が渇いていたらしく、すぐに飲み終わっていた。
そしてすぐに助手席に戻ると、さっきと全く同じ体勢になる。
窓の外を睨み助けているようにも見える彼女に、かける言葉もなく車を発進させた。
そのまましばらく走った後、やっと海が見えてきた。
山と山の間から見え隠れする海は緑と青の色合いがすごく印象的だ。
彼女も一瞬だけ、あっと声を漏らしたがその後はまた元通り。
俺はナビ通りに走らせて、やっと目的地へと車を止めた。
生臭い匂いと、べたついた潮風。
お世辞にも最高に気持ちいいとは言えないが、ザァザァと寄せては帰る波の音と、空の青さを映しながら光を反射させるこの景色は見ていてとても綺麗だ。
太陽もだいぶ傾きかけ、沈む準備に入っている。
車から降りた彼女は、砂浜に足を取られながらも1人、波打ち際へと足を進める。
その迷いのない歩みに、一瞬背筋が寒くなった気がした。
「…リク、リクッ‼」
急いで駆け寄ろうとするが、足が取られもつれる。
そうしている間にも彼女の足には波が打ち付けられていく。
「おい、リク‼いくな‼リクッ‼」
声が波の音で消される。
「…ぅ、ああアァー‼」
ピタリと足を止めた彼女の後ろ姿は逆光で影になっていた。
そこから聞こえる、音は叫び声なのかそれとも鳴き声なのかはわからない。
ただ、今までに聞いた事のない彼女の声は何かに必死に耐えているようで、胸が締め付けられたように痛かった。
何度も、何度も繰り返し吐き出される音は海が吸い込んで行くように小さく聴こえなくなっていった。
「リク…。」
しばらくしてから小さく声をかけた。
相変わらず彼女の足には波が押し寄せては消え、膝丈のスカートも裾の方が水しぶきで少し濡れている。
「…アオイさん。なんで、何も聞かないんですか?」
彼女はまだ俺に背を向けたままだ。
波の音にかき消されそうな小さな声でリクはそういう。
「どうして、怒らないんですか!理由も言わず、黙ったままこんなところに連れて来られて!」
「こんなわがままな女、無視してればいいじゃないですか!なんで、理由も聞かず、そんな…そんな、顔で…。」
振り返った彼女は相変わらずの逆光で、目を細めて何とか彼女の輪郭をとらえる。
「…理由を、聞きたくないって言ったら嘘になる。」
本当はどうして彼女がそんな悲しそうなのか、何が苦しめているのか、知って一緒に悩んで助けになりたい。
そう思う。
「でも、今は。」
ゆっくりと近づいて彼女の手を取り海から砂浜へと戻る。
ひんやりと冷たくなった彼女の指先を少しでも温めてあげたくてぎゅっと握りしめた。
「その涙を止めてもらうほうが先だから。」
はっとしたようにリクが顔に手を当てる。
まるで涙を流していることに今更気が付いたといったようだ。
目元を片手で覆って見えないようにして、小さな声で彼女がつぶやく。
「泣いてなんか…ない。」
声を押し殺したまま、顔を片手で隠しまま。
俺に手を引かれて歩くリクは、端から見ればまるで子供のように見えただろう。
そしてふと、ハイトーンの声を思い出す。
『臆病なんだから。』
レイナの言葉は少しだけ、違っていると思う。
自分の気持ちは伝えることができないのに、どうしても手を差し伸べたくなる。
リクには笑ってて欲しい。
それが自分の隣ならなおのこと。
俺と一緒にいる時くらいは、何も考えずただ笑顔でいて欲しいだけだ。
…きっとアイツの所ではもっと違う表情がたくさんあるんだろうけど。
車に戻り、少しだけ落ち着いたリクが扉に手をかけたまま、海を振り返った。
「…綺麗。」
ちょうど太陽が海に半分隠れていた。
オレンジ色に染まった空に、深い紺色の海。
「アオイさん、今日は、ごめんなさい。…あと…ありがとう。」
「…じゃあ、帰るか。」
思えばあの一言で、ずいぶん遠くに来たような気がする。
リクが車に乗り込んだのを確認し、エンジンをかける。
そして、アクセルを踏んでその場から立ち去った。
帰り道。
海が太陽を飲み込んでいくのを、彼女は最後まで助手席から見つめていた。




