美大4年 春
「アオイは、リクのことが好きなのね。」
就職活動真っ只中の大学 4 年生。
大学の図書館で履歴書を書く俺の隣でレイナがつぶやく。
俺は一瞬ボールペンの動きを止め、横目でレイナを見る。
彼女は選択授業の課題を真剣な表情で進めていた。
「何だよ突然。」
「いえ、ただそう思ったから言ってみただけ。」
レイナはこちらに顔を向けることもなく、淡々と作業を進めている。
俺はレイナの突拍子もない一言に続きを進めることができなくなってしまった。
「だって、そうでしょ。アオイ、リクのこと見る目が他の人と全然違うんだもの。誰だってわかるわ。」
「確かに好きだよ。李紅は高校の頃からの後輩で、俺の親友の彼女だから。言うとすれば妹みたいな感じだよ。」
俺はボールペンを指先で転がしながら小さく言葉を捜す。
「知ってるわ。アオイの親友ってレンって言うんでしょ。会ったことはないけど、何回かアオイから話聞いたことあるし、リクからも写真見せてもらったもの。」
レイナもそこでやっと顔を上げて俺のほうを見た。
「アオイ、私、アオイが好きよ。」
レイナの綺麗なグレーの瞳が真剣なまなざしでこちらを見ていた。
いつものおどけた表情とはまったく違う、レイナの真剣な表情。
「いつも、軽く流されてきたけど、私本気よ。アオイのこと Like じゃなくて Love だと思ってる。」
「葵は私のこと、嫌い?」
レイナが俺の手にその長い指を重ねてくる。
俺はその整えられた指先に目を奪われた。
中学生の頃、初めて女子から告白された。
一番最初に告白してくれたのは同じクラスの、ツインテールが印象の女の子だった。
「桐崎くん、彼女とか居るの?」
その女の子とは委員会が一緒だった。放課後の教室で帰り支度をしている時にそう聞かれた。
「別に、いないけど。」
そう答えると、彼女はそっかっと小さくつぶやいて、一瞬の間を開けた後口を開いた。
「私、桐崎くんのこと、前から気になってたの。もしよかったら付き合ってくれないかな。」
あまりにも唐突な展開に、俺は脳がついていかず、黙ったまましばらく彼女を見つめ続けた。
すると彼女のほうも気恥ずかしくなったのか、小さな声で、一言付け加えた。
「私のこと嫌い?」
そう聞かれて、嫌いと答える人はいるのだろうか。
俺はからからに乾いた口をなんとかごまかすように「嫌いじゃない」と答えた。
そういう流れで、俺はその子と付き合うようになった。
彼女が始めての彼女だった。
放課後はいつも家まで送って帰ったし、デートにも何回か行った。そしてはじめてのキスも彼女だった。
だけど、半年付き合って、彼女とは別れた。
別れたというか、振られたというか。
「桐崎くん、今まで一度も私のこと好きって言ってくれなかったね。」
と最後に彼女が電話を切った。
そういわれて気がついた。
俺は彼女のことを本気で好きだったわけではない。
最初からそうだった。
嫌いかどうかと聞かれたら嫌いじゃないけれど、特別好きだったわけではなかった。
別れようといわれればあっさり「いいよ」とうなずける、その程度の好きだったのだ。
だから彼女に対して好きだと言ったことがなかったことに、今更気が付く。
その頃の俺には理解できなかった。
特別な「好き」という感情がいったいどんなものなのか。
他人を好きになる感覚をずっと知りたいと思っていた。
しばらく続いた沈黙は俺の指先から零れ落ちたボールペンの落下音で終わりを告げた。
ふと気がつくと、レイナが俺の落としたボールペンを拾おうと腰を曲げたところだった。
俺はあわててレイナの伸ばした先にあるものに手を伸ばす。
『お前さ、李紅のこと、どう思ってる?』
蓮の声が聞こえた気がした。
古い本の匂いがする図書館で。
あの時に聞いた蓮の声。
「アオイ?」
レイナが拾い上げたボールペンを俺に渡してくれる。
…そうだ。
あのときもそうだった。
好きかどうかと聞かれて、俺は好きだと答えた。
だけど自信がなかった。李紅のこと、特別な目で見る自分の気持ちに。
もしあの時、自分の気持ちを疑わなかったら。
もしあの時、蓮に嘘をつかなかったら。
もしかしたら現在とはまったく違った現在になったのだろうか。
レイナがフリーズしたまま動かない俺の顔を心配そうにのぞき込んでいた。
焦点の定まらなかった目は次第にレイナの輪郭をとらえていく。
俺は…。
「俺は。」
「…俺はやっぱり、李紅が好きだ。」
一度口に出した言葉は止まらない。
「後輩とか、妹とか、そんなんじゃなくて。…一人の特別な女の子として好きなんだ。きっと高校の時、放課後の美術室で出会ったときから。きっと。」
自分の気持ちを確かめるように、ゆっくりと言葉を選ぶ。
レイナが驚いたように、目を丸くしてこちらを見ていた。
「…それはやっぱり彼女は特別だけど、私はアオイの特別にはなれないってこと?」
こちらから視線をそらさず彼女は聞く。
俺はそんな彼女からできる限りそらさないように小さくうなずいた。
過去をやり直したいなんて、そんなこと思わない。
だけど過去と同じ間違いを犯して、同じように後悔はしたくない。
そして、自分が振り回したこの女性に対して精一杯の謝罪を込めて。
「アオイも馬鹿ね。自分からわざわざ辛い恋愛に立ち向かっていこうとするなんて。自分の親友の彼女が好きだなんて。もう叶わないも同然じゃない。」
そう言って彼女はため息混じりに手元の課題を進め始めた。
「でも、まぁ、好きになったらしょうがないものね。」
「李紅が特別じゃなくなったら、私は特別候補ってことで。」
そうおどけてウインクまでして見せたレイナの目がかすかににじんでいるような気がした 。
俺はそれを見なかった振りして、また履歴書の上のペンを走らせる。
恋は一人でもできるが、愛は一人では生まれない。
そう何かの本で読んだことがあるような気がした。
レイナの想いも、俺の想いも、宙にうかんだまま形にはならない。
だけど、もう自分の気持ちに嘘はつきたくない。
気持ちをごまかして、後で後悔してなんてただの悪循環でしかないことを知った。
いつか、この気持ちを李紅に伝える日が来るのだろうか。
蓮にも正直に話して、だからといって、これまでどおりに行くわけがない。
親友も、好きな人も同時に失う覚悟。
自分の気持ちを認めることはできても、その覚悟だけは今はまだできずにいる。




