美大3年 晩夏
世界は広い。
今まで自分の見ている世界だけが全てだと思っていた。
しかし、その考え方がどんなに浅はかで、自分勝手なものだったのかを改めて考えさせられる。
そして今俺は、ヨーロッパの風に吹かれながら、ここにたっている。
「葵、早く来いよ。おいてくぞ。」
蓮はそういって、俺より少し先を歩いている。
左手にはフィレンツェの観光パンフレット、右手には蓮の愛用しているカメラ。
俺と一緒にヨーロッパ7泊8日の旅行に来た蓮は、器用にもすれ違う人にぶつからないように進みながら、いろんなところでシャッターを切っていた。
旅行ももう4日目だった。
ミラノからヴェローナ、ベネチアと要所の観光名所を回って、2人旅だ。
長い時間飛行機に座っていたためか、空港へ降り立った時には眩暈すらしたものだが、蓮はいたって健康で、キラキラと目を輝かせて俺を引っ張ってくれた。
一日目をほとんど移動に費やしたため、本当の観光は2日目からだった。
ミラノではドゥオモの床のモザイク画などを堪能し、市内で街を散策。
買い食いのし過ぎで蓮がおなかを壊した。
『ロミオとジュリエット』の舞台になったベローナでは、蓮がロミオになりきってセリフを続けていた。
なぜか、俺がジュリエットをやされることになり、日本語でとはいえ少し恥ずかしかった。
そしてベネチアでのゴンドラが一番苦痛だった。
どうしても乗りたい!!といった蓮に付き合ってゴンドラに乗ると、その船のゴンドリエーレがやたらと温かい目で俺たちを見てくるのだ。
お二人で写真もどうぞ、なんてゴンドラの上で並んで写真を撮ってもらったりもしたのだけれど。
去り際に『お幸せに』なんて声をかけてきたものだから…。
あぁ、やっぱり…。
蓮は言葉が分かっていないので気が付かなかったようだが、俺は非常にモヤモヤした気分になった。
そして今日、やっと目的の地『フィレンツェ』に2人で足を踏み入れたのだ。
蓮のカメラはひっきりなしに、シャッター音を響かせている。
「やっぱり、フィレンツェはすごいよな。なんて言ったって街中が世界遺産みたいなものだし。あぁ、なんで俺ここに生まれなかったんだろう。」
「そうだな。フィレンツェの街の景色は中世からほとんど変わっていない。時を止めた街、とも言われてるんだ。ほんと感動するよ。」
俺がそういうと、前を歩いていた蓮は少しだけ歩みを緩めたようだった。
自分の足元を一点に見つめたまま動かない蓮。
俺はゆっくりと近づき蓮の様子を伺った。
「時を止めた街、か。」
その日は俺たちはフィレンツェ市内にあるホテルに泊まることにした。
近くにある「チェレスティーノ」というレストランでディナーを予約していた。
レストラン内は静かな落ち着いた雰囲気が漂い、なんだかとても心地良い。
蓮は、窓際のアルノ川が一望できる位置にすわり、ウェイターに手渡された料理のメニューを眉間にしわを寄せながらみている。
俺はそんな蓮を見て一人で小さく笑った。
「何笑ってんのさ?人を馬鹿にして、イタリア語わかんないんだからしょうがないだろ。」
「なんだ、だから俺と一緒に旅行に行きたいとか言ったのか。確か、英語もあんまり得意じゃないんだろ?」
「英語なんて、英語圏の人だけが喋ってればいいんだよ。葵は俺と違って英語もイタリア語も喋れるから俺の苦労はわからないかもしれないけどな。でも、お前と来たかったのは本当のことだぜ?」
確かに、俺は建築家の両親に連れられて海外に行くことが多かったためか、英語には少し自信があった。
イタリア語も得意というわけではないけれども、それなりに勉強したし、レイナにも教わっていたので日常会話程度ならそこそこ通じるはずだ。
ほら、とメニューを俺に押し付けながら蓮は言葉を続ける。
「一度でいいから来て見たかったんだよ、ここに。小さいときに見たヨーロッパの写真雑誌に載ってたんだ。赤い屋根にクーポラのドゥオモ、その上に広がる青い空。空が好きな葵にぜひ本物を見せてやりたいと思ったんだ。」
蓮は窓の外を眺めている。
俺は蓮の視線をたどり、アルノ川の上に大きく広がる夜空を見た。
「本当、夢みたいだ。蓮、誘ってくれてありがとな。」
そういうと、蓮はそのままふと微笑んだ。
そして急に俺に向き直って、メニューを指差した。
どれでもいいから選んでということらしい。
だから俺は、わざと蓮の嫌いなキノコがたくさん入った料理を注文しておいた。
後で蓮の料理と俺の料理を交換することになるのを予定して。
俺たちがレストランを出たときにはもうすでに11時を回っていた。
薄暗い街頭と、月明かりに照らされながらヨタヨタと俺の前を歩く蓮。
先ほど飲んだイタリアワインがよほど効いたのか、少し無口になっているようだ。
俺はアルコールには強いほうなので蓮ほど酔っていはいない。
俺はゆっくりと蓮の後姿を追いながらヴェッキオ橋の上を歩く。
「葵、ちゃんと聞いてるのか?」
ヴェッキオ橋のちょうど真ん中、蓮は突然立ち止まりオレンジ色の街灯の下で川を眺める。
俺はぼぅっと歩いていたので蓮の話はまったく聞いてはいなかった。
「悪い、聞いてなかった。…なんだって?」
俺が素直にそういうと蓮はあからさまに面倒くさそうだ。
「だから、お前と会ってからもう15年もたつんだなって。」
あまりにも突然の話題。俺は蓮を凝視したまま声を出した。
「そうだよ、もう俺は人生の半分以上をお前と時間を共有してる。今じゃ、お前と一緒にいないほうが不自然な気がするくらいだよ。」
そうだな、そういって蓮は小さく笑った。
なんだかその横顔は少し寂しげで、蓮のこんな顔を以前にも見たような気がした。
「葵はさ、いつも損な役回りなんだよな。毎回俺や晃がなんか悪さして、何もしてないのに俺たちと一緒に怒られたり。」
「俺たちがやらかしたことの後片付けっていうか、俺と一緒にいて損したことのほうが多いんじゃないか?」
蓮の顔は未だ川を覗き込んだままだ。
「いや、蓮たちと一緒にいるときが一番楽しかったし、得とか損とか、考えたことなかったよ。」
まぁ、そのせいで俺も蓮率いる『悪ガキ共』の一員として、散々大人に怒られたけど…。
「そりゃ、よかった。葵が俺といることで「幸せ」だと感じてくれて、嬉しいよ。」
俺のほうに振り返った蓮は清々しい笑顔だった。
先ほどの寂しげな表情はどこにもみあたらない。
今まで沢山見てきた笑顔と何ら変わりないように思えた。
その日は俺たちの予定にあわせたかのように爽やかな空が俺たちの頭の上に大きく広がっていた。
予定通りに旅行5日目を迎えた俺達は今、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の前に立っている。
俺の目の前に立ちはだかる、大理石で装飾されたゴシック様式の建造物。
圧倒的な威圧感が背後のクーポラをかき消しているといってもいいほどだ。
蓮は相変わらずカメラのシャッターをひっきりなしに切っている。
「早く入ろうぜ、夕方にはローマへ向かわないといけないからな。」
蓮はその荘厳な建物に臆することなく足を進めた。
俺はそんな蓮の後ろについていく。
中に入ると、正面入り口ほど威圧感は感じず、華美な装飾もあまり施されてはいなかった。
蓮はまるで一度ここに来たことがあるかのように迷いなくクーポラへの廊下を進んでいく。
後のほうにはギベルティ作の「聖ザノービの棺」、エントランス上部に飾られているのはパオロ・ウッチェロの 24 時間時計。
そして、これから上るクーポラの天蓋フレスコ画『最後の審判』。
あまりの美しさに俺は呼吸をするのを忘れてしまいそうになった。
本や雑誌では何度か目にした事のあるそのフレスコ画は、実際に見るとこの世のものではないのではないかと思うほど素晴しいものだった。
「葵、こっち。」
先ほどとはまったく違う雰囲気をかもしだす石造りの壁が目の前に現れる。
ひんやりと冷たく、適度な湿度。まるでそこだけが違う空間であるかのように感じる。
蓮は俺に構わず一人でどんどん先に進んでいった。
人が一人すれ違えるくらいの幅しかない螺旋階段を黙々と登り続ける俺たち。
会話なんてこの優美な建物の中では必要のないものに思えた。
400段以上にもなるこの螺旋階段は俺にとっては本当に未知の世界への試練のようなものだった。
登っても登っても頂上にたどり着けないもどかしさ、俺はこの階段が永遠に続いているのではないかと思ってしまう。
ようやくクーポラの頂上に着くとそこに待っていたのはフィレンツェを横切る夏の風と、限りなく広がる青空だった。
下のほうに広がる赤い屋根の並びはここが地球で、世界の一部だということを忘れさせた。
俺は先に着いて街へシャッターを切っていた蓮の隣に並ぶ。
「なぁ、葵。写真とってくれないか?」
低めの声が隣から聞こえた。
カメラをこちらに差出し、街を眺めている蓮。その表情はなぜか少し強張っているようだ。
俺は無言で蓮のカメラを手に取った。
蓮はほかの人に自分のカメラを触られるのを嫌がっていた。
それは俺例外ではなく。
「カメラ、いいのか?」
あぁ、とこちらにカメラを手渡してきた 蓮のほうにカメラを構えると、背後に ある空の青さがあまりにもまぶしくて、少しだけ目を細める。
フィルター越しに映る蓮は青と赤の鮮やかな背景にぴったりと収まっていた。
「あぁ、帰りたくないな。…日本に帰ったらまた蒸し暑い空気が俺たちを待ってる。」
乾いた、涼しげにただようフィレンツェの風が俺の腕をかすめていくのがわかった。
「そうだな、ほんとに。時間が止まってしまえばいいのに。」
蓮が青い空に向かって手を伸ばす。
シャッター音が連続で響き、数枚細切れに蓮の姿がカメラに収められた。
蓮の手が何かを掴み損ねたかのように宙を切る。
カメラを蓮に手渡した後も、そのシーンだけがコマ送りのようにゆっくりと俺の頭の中で繰り返されていた。
それから俺たちは名残惜しくもフィレンツェを後にし、ローマへ向かった。
ローマでお土産を選ぶ蓮は、そのほとんどがリクへの物で俺は少し笑ってしまった。
ちゃんと蓮の母加奈子さんと、再婚相手の方にも忘れるなと忠告すると、本当に忘れてたと焦って選んでいた。
こうしてお土産も無事購入でき、ローマから日本への帰国を果たした。
7泊8日の不本意ながらも男二人旅は終わりを告げたのだ。
羽田空港から一歩外に出ると、日本らしい晴れているが湿度の高い、ムシムシとした空気が肌にまとわりつく。
「…やっぱり、蒸し暑い。」
じんわりとにじむ汗に俺たちは顔を見合わせ、声を上げて笑った。




