美大2年 春
『アオイ、明日予定ある?』
深夜、寝ようとしてベットに入ったところで携帯が震えた。
レイナ、と件名に自分の名前を入れてくるあたり、律儀だと思う。
メールなのに、アオイと名前を入れる必要があるのだろうか。
話すのは得意だが、文字はまだ微妙らしい。
やはり漢字は難しいと、何度も頭を抱えている姿を見ていたのでなんだか顔がにやけた。
『ない。なんかあるの?』
『ちょっと付き合ってほしいところがあるのよ。ダメ?』
レイナのお願いはこれが初めてではない。
というよりはいつもお願いされている気がする。
買い物、食事、美術館。
レイナが頼みごとをする場合、俺はだいたい案内役だ。
この間は急に京都に行きたいなんて言い始めて、無理やり旅行に連れ出された。
俺も随分久しぶりに行ったものだから、案内役どころか彼女と一緒になって楽しんだのだが。
『今回はどこに行くんだ?』
そう送ってから少しだけ頬が緩んだのはしょうがないと思う。
次の日、駅に呼び出された俺は言われるがままに切符を2人分購入した。
駅のホームで電車を待つ間、レイナはそわそわと携帯と、カメラをチェックしていた。
今日のレイナはベージュのチノパンに若草色のカーディガンを羽織っていて、なんだか春っぽいイメージだ。
「結局どこ行くんだ?これ。」
「cherry blossom.」
「え?」
レイナが携帯の画面を俺の目元に突きつける。
あまりにも近すぎて、画面に何が映っているのかいまいちわからない。
「さくら、よ。さくら。去年撮ったの。綺麗でしょ?」
焦点が合った目に映ったのはピンク色の小さな花。
「ちゃんとお花見?してみたかったのよ。」
そう言って画面に目を落としたレイナは、嬉しそうに笑った。
春の緩やかな風は柔らかく俺の頬を掠めていく。
水で薄めた絵の具で描いたような青さの空が俺の上空に広がり、霞がかった雲がところどころに浮かんでいる。
俺はすれ違うたびに振り向く人たちを無視して公園を歩いた。
その原因はもうわかっている。
隣で俺の腕をとっているレイナに目を向けた。
「なんか、わくわくする。なんだかここだけ別世界だわ。」
彼女の高いヒールの音がゆったりと音を立てる。
「去年はあまり見られなかったから、本当に綺麗…。」
「俺もちゃんと桜を見たのは久しぶりだな。」
彼女はそう言って小さく笑った。
道の両脇に桜の木が並んで連なるその並木道はレイナが言っていたように、本当に別世界のようだった。
空の青と、桜の白にも似たピンク色が絶妙な色合いで溶け込んでいる。
「さくら、日本に来たら絶対に見るってあっちにいた時から決めていたの。・・・アオイとこんな景色見ることができて、よかった。」
レイナはあちこち目を移しながら進んでいく。
お昼をすぎ人も多くなってきていたので、あまり離れないようにと伝えると、彼女は俺の腕に手を添える。
その恋人らしい姿勢に一瞬体が強張ったが、俺はそのまま彼女の腕を外すことをしなかった。
「ピンクって、すごく素敵な色よね。見ているだけで幸せになるような色。」
「そうだな、ピンクって言えば春とか恋愛とか。暖かいイメージの色だからな。」
「…アオイの『恋愛』って言葉、なんだか違和感あるわね。」
…。
レイナが冷やかすようにこちらを見て笑う。
自分が愛だの恋だのの単語が似あわないことくらい俺自身わかっている。
ただ、別に無縁というわけではないということは、レイナにもわかっているはずだ。
彼女の歩幅に合わせてゆっくりと足を進める。
ほんのりと一面に広がる桜色。
俺はここに初めてきた日のことを思い出した。
ちょうど一年前、なんの夢も希望もなくただこの地に降り立ったときのことを。
あの時見た時よりも、今日の桜はすごく綺麗に見えた。
去年と同じ場所で、同じ桜を見ているはずなのに、一人じゃないというだけでこんなにも違うのだろうか。
「画材、持ってくればよかったな。」
「いいわね、今度私たちもあそこで絵を描きましょうよ。アオイの好きな『空』の絵。」
小さくつぶやいた言葉は彼女の耳に届いていたらしい。
この桜と、この空。
心の中が洗われるように清々しい気持ちになった。
今日はレイナに誘われて本当によかったと思う。
「ねぇ、あそこで誰か絵を描いてるみたい。」
彼女が俺の腕を軽く引っ張り小さく公園を指差した。
俺はそんなレイナの指の先をたどり見るが、人が多くなかなか見つけることができない。
俺は目を細めて公園の内部を探した。
「ほら、あの椅子のところよ。あの場所、いいスケッチポイントになりそうな角度ね。」
ようやく見つけた桜の木の下にあるベンチ。
ずいぶん遠くで、よく見つけたなと思う。
そこには腰をかけ絵を描く女性がひとり…。
「アオイ?」
一瞬で俺は過去に引き戻される。
今の俺が見ているのは現実なのか夢なのか。
もしかしたら自分自身で創り出した想像のものかもしれない。
俺の心臓はなぜか激しく鼓動していた。
隣でレイナが話しかけているが、今の俺の耳はまったく機能していないらしい。
俺はただ、ただ、絵を描いている女性を見つめた。
「…り、く?」
いつのまにか俺は腕に添えられたレイナの手を振り切って、公園へ走り出していた。
こんなに走ったのは何年ぶりだろう。小学生の運動会以来かもしれない。
桜の甘い匂いと、暖かい春の日差しが俺の周りを通り抜けていく。
俺は一直線に彼女のいるベンチへと人を避けながら足を動かした。
だんだん鮮明になってゆく彼女の姿に、俺は小さな不安を抱き始めていた。
「…李紅。」
俺の目の前にいるのは本物、なのだろうか。
あまりにも鮮明すぎるその姿はやはり現実のものとしか思えない。
薄い桜色のワンピースの女性。
俺は彼女の正面に立ってようやく声を搾り出した。
「葵さん?」
大きな目を見開いて彼女はこちらを見ていた。
久しぶりに聴いたその声は過去のものと全く変わらず、一年たった今でもはっきりと覚えていた自分にも驚いた。
「お久しぶりです。まさか、こんなところで会えるなんて思ってもいなかった。」
「…なんで、ここに?」
李紅は持っていた色鉛筆をゆっくりとベンチに置く。
頭上に広がる、爽やかな水色の色鉛筆だった。
「蓮から聞いてないですか?私、今年の春からまた葵さんの後輩なんです。」
微笑む彼女はどこからどうみても本物だ。
「今日は本当は部屋の片づけをやらないといけなかったんですけど、あまりにも良い天気だったので、つい。」
…後輩?
李紅も同じ美大に通うのか…?
寝起きのように回らないその頭は、目の前の李紅を理解するのに時間がかかっているようだった。
その間も話し続けているらしい李紅のコロコロと変化するその顔はやっぱり記憶の中の笑顔だった。
髪の毛は少し伸びたようだが、それ以外の変化はあまり見られない。
「葵さんも、桜を見にここへ?」
・・・。
「ねぇ。アオイ、その子は?」
ふと我に帰った俺は声のするほうへと目を移した。
なにがなんだかわからない、というような顔で俺と李紅を交互にみつめるレイナ。
俺を追って走ってきたらしく、少しだけ肩を上下させている。
声をかけられる前まで俺はレイナを置いて走ってきたことをすっかり忘れていた。
「…レイナ、ごめん急に。俺の高校のときの後輩で、片瀬李紅。」
へぇ、とつぶやいた彼女は面白そうに彼女を見つめている。
「レイナ・メル・ベルターニャよ。よろしくね、リク。」
そう言って彼女は李紅に手を伸ばした。
二人の手と手が繋がれる。
俺はなんだか不思議な感覚に囚われた。
今やっと過去と現実が合わさったような、そんな感じ。
「わぁ、日本語すごくお上手ですね…。」
「ありがとう。これでもまだまだって、葵によくからかわれるわ。」
レイナの隣で、二人の会話を呆然と眺めていた。
この状態で、レイナにも李紅にもなんと声をかけていいのかわからなかった。
「レイナさんも葵さんと同じ大学ですか?学科は何を?」
「私も葵と同じよ。専攻も同じでね、最近はいつも一緒なの。」
俺の腕に彼女の腕が絡まる感触。腕に刺さるような李紅の視線。
「やめろよ。」
気づいたときにはもう遅く、俺は思わずレイナの腕をはじいてしまっていた。
穏やかだったこの空間に滞るような緊迫感。
唖然と俺を見つめる李紅と、何もいえないでただ立ち尽くしているレイナ。
俺が勢いよく払ったレイナの手は空中で止まったまま動かない。
まるでそこだけ時間が止まったかのようだった。
「…ごめん。」
その言葉の後に残ったのはレイナへの罪悪感と、3人の間にだけしんと静まり返った空気。
頭の中には真っ白い靄がかかったようだった。
「なんだ、葵さんったら。そんなに照れることないじゃないですか。」
風で桜の花びらが俺の視界の端のほうで舞っている。
李紅の楽し気な声が割って入ってきた。
「確かにレイナさんは美人さんだから、みんなに見られて恥ずかしいかもしれませんけど。」
冷めた空間に柔らかく響く声。
緊迫した雰囲気が一気に暖かくなるのがわかった。
隣に目を向けると少しだけ表情を取り戻したレイナがいた。
「さぁ、そろそろ帰らなきゃ。私、これから部屋とか片付けなきゃいけないし。」
そう言って色鉛筆やスケッチブックを片づけ始める。
大きめのトートバッグにはかわいらしい猫の絵が描かれていたのが目についた。
「葵さん達は、もしかしてデートの最中でしたか?ごめんなさい、私ったら邪魔しちゃって。」
『いや、そんなこと』
そういうつもりだった。
でもベンチから李紅が立ち上がるタイミングと言い出すタイミングが重なり、声がでなかった。
最初の一言だけがそこに小さく響く。
「そうだ、今度葵さんとレイナさん、私と蓮の四人で遊びに行きましょう。きっと楽しいですよ。それではこれからの大学生活よろしくお願いしますね。」
「リク、またね。」
レイナが横で手を振っていた。
「はい、レイナさん、葵さん、では、また学校で。」
俺はそれからずっと、公園から出て行く李紅の後姿を見つめていた。
『また学校で。』
李紅の声が大きく頭の中でこだましている。
人込みで見えなくなった後も彼女の姿を探してしまっている自分がいた。
「彼女、かわいらしい子ね。桜ピンクがよく似あってた。」
「そうか?」
ゆっくりと腕にレイナの手が回ってきた。
その感覚に、さっきを思い出して少し苦く感じた。
「知り合いに見られるのは恥ずかしい?」
「…まぁ、そうだな。」
「それとも…あの子だから?」
えっ、とレイナを振り返ると、にっこりと微笑んでこちらを見つめている彼女と目があった。
透き通ったグレーの瞳。
目をそらそうとしても彼女の瞳は逃がしてくれない。
「…あーぁ、私もピンクが似あうようになりたいわ。」
「レイナは何着ても似あうだろ?」
「そうなんだけど、そうじゃないのよ。」
レイナの言っている意味が分からず無言で立ち尽くしていると、レイナは呆れたようにこちらを見て笑った。
「アオイ、アイス食べましょう。あっちにあったの。」
レイナが俺の腕を引いて歩いていく。
その瞬間強めの風が吹いて、足元に散っていた桜の花びらが一斉に空に舞った。
空の水色と桜の白とピンクのコントラスト。
色鮮やかなそれは、はっきりと春の訪れを伝えているようだった。




