歴史地区フィレンツェにて
プロローグ
乾いた夏。
それは俺がここに来て初めて思ったことだった。
日本の夏は湿度が高く、湿った空気が蒸し暑い日々を作っていた。
少し歩みを止め、空を見上げる。
それは青々としたまぶしい空だった。
「どうしたの?具合でも悪いの?」
隣で一緒に歩いていたレイナが急に立ち止まった俺を不思議に思ったのか、心配そうに見上げていた。
なんでもないよ、と軽く笑う。
レイナはイタリア人で、見事なまでのプロポーションと美術品のような整った顔を持つ女性だった。
そして今、彼女はその美貌を生かして絵や雑誌のモデルの仕事をいろいろとこなしている。
「ところで、来週には日本に帰るって本当なの?もう少しここにいたら?フィレンツェの方が日本より快適よ。」
「ヒカリは、学校があるから、そんなに長くはここにいられない。」
ここ、フィレンツェは「花の都」といわれるイタリアの都市で、14世紀の初め、人口20万人を擁するヨーロッパ最大の都市であった。
メディチ家の庇護の下で「イタリア・ルネサンス」の中心として繁栄したフィレンツェは現在も赤いタイル屋根の美しい町並みが残り、当時の面影を今の世界に伝えている。俺はそんな町並みを見るたびに中世のヨーロッパにタイムスリップしたかのような錯覚に落とされる。
「じゃぁ、しょうがないわね。今回は食事だけで許してあげる。おいしいお店があるの。ちょうどお昼だし、ねぇいいでしょ?」
レイナはそういって俺の腕を取って歩き出した。
こんな彼女の強引さには学生の頃から少しも変わっていない。
俺はレイナに腕をとられながら、目の前に堂々と聳え立つ聖マリア=デル=フィオーレ大聖堂を見上げた。
変わらないな、本当に。
フィレンツェの街並みは、10年以上前にきた時と何も変わっていなかった。
赤煉瓦の屋根の続く、美しい景色。
自分の周りが足早に変わっていく。
俺は自分だけがその場に取り残されたような寂しさを感じていた。
そんな中、レイナのその変わらない笑顔や明るい性格が、過去に戻ったような感覚にさせる。
レイナは、まっすぐ前を見て進んで行く。
俺はそんな彼女に身を任せ、空を見上げた。
ふと空を見上げれば思い出す。
あの日々の色様々で、鮮やかな空。
そして屈託のない笑顔の君と、その君をカメラ越しで見つめるアイツ。
初めてここに訪れてから10年以上の年を経ても、いまだに昔と変わらない街並みを残すフィレンツェは昔をありありと思い出させる。
18年という歳月は俺をこんなにも変えたというのに。
戻らない過去に囚われながら今を生きる俺を、君は馬鹿だと笑うだろうか。
過去は絶対に変えられない。
そう、わかっているのに、追い求めずにはいられない。
約束の日である明日を、俺はどんな気持ちで迎えたらいいのだろう。
俺はまだ、記憶の中に住む君の笑顔に心奪われる。