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道化に捧げる鎮魂

作者: 梶本俊貴

 私は血の鎖に囚われていた。


 遺伝子の中に組み込まれた劣等が私自身を苦しめ、理不尽に慟哭する。ドロリとした液体が肺を溺れさせる。まともな呼吸法を忘れたかのように、私は激しい息遣いと共に膝を折った。


 この世界は平等ではない。それは理解していたつもりだったのに、目の前に突き付けられた事実は私を追い詰めるには充分過ぎる程の暗闇を帯びていた。光など届かない、黒の世界で生きる事を強制されているように、絶望が襲い掛かってくる。陽光に手を伸ばしても届かない。空を覆い尽くす影に憤怒と嫉妬を抱えながら切望するのだ。


「なんだ、これは……」


 どれだけ努力しても、何を犠牲にしても、這いつくばって足掻いても、求めるモノを掴めるとは限らない。いつだって他人が奪い、悪意の無い悪意を向けてくる。眩しい笑顔で、自分は何の罪も無いという表情で。


 私の場合、それが兄であった。運動、頭脳、人望、性格、容姿、全てが完璧な兄に勝とうと様々な努力をした。足りない、まだ足りないと自分を傷付けながら諦めきれない想いを果たそうとした。だけど、その背はいつだって遥か先にあり、朧月のように霞んでしか見えない。


 才能が無くても、努力で勝てると勘違いした私が悪かったのだろうか。希望を持つのが、悪と言うのか。何も掴めない絶望を背負って生きていけと。


 何もかもが無駄になってしまう虚無感を吐き出しながら、地面を殴り付ける。血が流れ、骨が断末魔を上げる痛みでも誤魔化せない。周りの侮蔑などとうに慣れて、悪意に対する感覚が麻痺をしていた。この世の全てが私を敵と認識しているような錯覚に陥り、後悔と情けなさに涙を流す。何故、もっと早く心を閉ざしてしまわなかったのか。そんな後悔と、逃げるしか己を保てない無力な自分に情けなくなった。


 毎日のように続く敗北に、私は折れる事なく必死にしがみついてきた。兄弟の片割れが優秀で、もう一方は劣等。才能の欠片もないクズがいくら頑張ったところで、地を這う虫けらにしか見えないだろう。


 口から、黒い血液が流れる。私はそれを拭おうとせず、顎に伝う感触さえ麻痺させようと努めた。救いの無い自分を戒めるように唇を噛み、頭を下げる。休む事なく走り続けてきた。もう、疲れてしまった。この残酷な世界に存在するのは飽きている。


 私が諦めて、放棄しないのは矮小な自尊心を持っているからだ。全部が羨ましい、自分も陽光に照らされながら胸を張って歩きたかった。狂おしい程の憎しみの中には、憧憬があった。醜い嫉妬だけを糧に、今まで生きてきた。


 しかし、こんな行いをされては我慢の限界に達してしまう。兄は、わざと私を勝たせたのだ。優しい優しいお兄様は、まるで天使のような笑顔で私に勝ちを譲った。それが最上の侮辱と気付かず、僅かに残った自尊心さえ燃やし尽くした。


 天からのお恵みに感謝を申し上げます、とでも言うと思っていたのだろうか。醜悪な怪物が、太陽に焼かれただけの結果に終わりました。清らかな天使様は困ったような笑みで去っていき、残された怪物の灰は誰の目にも触れる事なく虚空に消える。


 ありがとうございます、ありがとうございます。やっと気付けました。醜怪な虫けらは天を仰いではいけない。太陽に近付くなんて、夢にも思ってはいけなかった。もう私の目は焼き爛れ、正常に世界を見る事すら出来なくなっている。


 虚無感だけが、ずっと私の傍にいてくれた。最高の友人ではないか。お似合いの親友だと誰もが言うだろう。きっとこれからも一生、この虚無感は付きまとってくる。無駄な足掻きは、希望を打ち砕く絶望を生むだけ。望めば、期待してしまう。なら、全てを諦めて死んでいけば良い。


 腐り果てた手足は千切れ、身動きの取れない身体を引っ掻いていく。まずは、色褪せた希望。次は人間らしい憧れ。その次には兄との歪んだ絆。次々と、己を構成していた心を傷付けていく。痛みに悲鳴を上げそうになるが、少しだけ頑張った。きっとこれが最後の努力だから


 誰も望まない人間はここで消えますから。鬱陶しい負け犬は死んでしまいます。喉を切り裂いて、頭を割って、臓器を抜き取って、目をくり貫いて、誰にも迷惑をかけずに消えます。今までありがとうございました。最大級の苦痛を味わいながら逝くので許してください。


 落ちた手足は鋭利なナイフを持ち、こちらに走ってくる。自分だから分かった。躊躇もなしに、苦しませてくれると。それがこれまで生きてきた証になると信じながら、刃は降り下ろされる。断頭台にいる囚人はこんな気持ちだったのか、どこか達観した心境で最期の瞬間を迎えようと、爛れた目を閉じた。


 そこには暗闇と無音が支配する世界が広がっており、私は心地よさに身を任せた。だけど、仄かな明かりがある一部分を照らし出す。


 リンゴを持ったピエロのような人間が、私を射殺すように睨み付けていた。あれは、私が殺そうとする自分自身。醜い化粧が施されたそれは、瞳から黒い涙を流していた。悲しそうに、しかし憤怒を込めた視線が私を突き刺した。


 まるで、殺さないでくれと懇願しているようだ。これ見よがしにリンゴを掲げ、差し出してくる。何を意味しているのか、既に溶けてしまいそうな思考では分からない。ただ、感情だけは読み取れる。


 それが望んだ事なのか。本当はもっと簡単なのではないのか。単純な願いが叶っている事に気付かない道化には死んでいく資格もない。


 否。気付いている。私の願いなど、本当に単純で簡単に手に入るものなのだと。それでも私は自分を殺す。賽は投げられ、死神は頭を食いちぎらんと凶悪な顎を開いている。


 複雑にしてしまったのは私自身である。嫉妬をして、勝手に悲嘆して、絶望に委ねてしまった。重要なのは過程ではなく結果。負け犬にも負け犬なりの譲れないものがあった。それを否定してしまえば手に入るかもしれない。だけど、拒絶の心で得た結果に価値などなく、きっとすぐに色褪せてしまうだろう。


 道化が、醜悪な顔を精一杯に歪めて訴えかけてくる。下らない自尊心がその瞳を曇らせているのなら、くり貫いてやる。そうすれば、聞こえるはずだ。ずっとずっとずっと、差し伸べてくれた手を振り払ってきたのはお前自身。認めてほしい、愛してほしい、そんな当たり前の事を拒絶したのはお前だ。兄は、いつだって優しかった。


 勘違いではなく、それが正しい。こんな暗闇の世界で、まさか正常な言葉に出会うとは思わなかった。


 道化は必死になって手を伸ばしてきた。これに掴まれば、再び私は地獄のような眩い世界に戻る。本当の意味で認めてもらうように、格好悪くもがいて天を仰いでしまう。まだ、諦めなくて良いのだと物語る手には赤いリンゴが握られていた。


 ああ、そう呟き私は手足を失った体を動かす。


 だけど、それでも、私は与えられた権利から目を背けて、血の鎖が邪魔をして、そして私はーー。


 

 


 

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