運命の恋を見つけた婚約者に、おめでとうと告げて図書館に帰ったら、大公殿下が追いかけてきた
「エラ。君との婚約は、解消したい」
子爵邸の応接室で、リシャール・ノルウェイ子爵は真摯な表情でそう告げた。
私は本から目を上げた。今日も彼が話したいというので来たのだが、読みかけの史料の方が気になって仕方がない。
「理由をお聞きしても?」
「エリスだ。彼女こそが、僕の運命の人だと気づいた」
リシャールの隣には、エリス・ディアナ子爵令嬢が涙を浮かべて立っていた。
「エリス様は、僕の研究を理解してくれる。君は……いつも本ばかり読んでいて、僕の話を聞いてくれない」
ああ、そうか。
私は静かに頷いた。確かにそうだ。リシャールが錬金術の話をしている間、私は古代文字の解読を考えていた。彼の話に相槌を打ちながら、頭の中では全く別のことを考えていた。
「構いませんよ」
私は微笑んだ。心からの、穏やかな笑みだった。
「婚約解消、お受けします。どうぞ、お幸せに」
本を閉じて立ち上がる。リシャールの顔が、驚きに固まった。
「え……本当に? 怒らないのか?」
「怒る理由がありません。私たちは元々、お互いの家の都合で婚約しただけです。貴方が本当に愛する方と結ばれるなら、それは喜ばしいことでしょう」
エリスが呆然としている。彼女は泣き崩れて謝罪する私を想像していたのだろう。
「では、手続きは司祭館を通じて進めてください。私は明日から、図書館に戻ります」
「図書館……?」
「ええ。婚約期間中、私は王立図書館の仕事を控えていました。ようやく戻れます」
踵を返して、応接室を出る。
「待ってくれ、エラ! せめて、もう少し話を――」
「お話しすることは、もうありません。ごきげんよう」
振り返らず、子爵邸を後にした。
馬車に乗り込んで、初めて深呼吸をする。
ああ、軽い。驚くほど、肩が軽い。
貴族社会の社交に合わせて、髪を結い上げて、ドレスを着て、微笑んで。本当は窮屈で仕方がなかった。
「図書館に、帰ろう」
御者に行き先を告げると、馬車は王城の方角へ走り出した。
◆
王立図書館は、王城の西翼にある。
巨大な円形の建物で、壁一面が本棚だ。古代から現代まで、あらゆる知識がここに集まっている。
「おお、エラじゃないか! 戻ってきたのか」
入り口で、老司書長のベルンハルトが目を細めた。
「はい。婚約が解消されましたので」
「そうか、そうか。まあ、お前さんには貴族社会は窮屈だったろうからな」
ベルンハルトは笑った。彼は私を幼い頃から知っている。
私の父は平民の学者だった。古代史の研究に生涯を捧げ、貧しくとも本に囲まれた日々を幸せに生きた。
父が亡くなった後、私は王立図書館の見習いになった。十五歳の時だ。
そして三年前、リシャール子爵と婚約した。彼の父が、図書館で研究していた私を見初めたのだ。「学問を愛する息子の妻にふさわしい」と。
けれど、私が愛していたのは学問そのものであって、貴族社会ではなかった。
「婚約中も、古文書の解読は続けていたんでしょう?」
「ええ。あの『エルディア古語の記録』、もう少しで解読できそうなんです」
「おお! あれは三百年間、誰も読めなかった代物だぞ」
ベルンハルトの目が輝いた。
「早速、続きを見せてもらおうか」
私たちは、図書館の奥深く、特別閲覧室へ向かった。
◆
特別閲覧室の扉を開けると、誰かがいた。
長身の男性が、窓際で本を読んでいる。漆黒の髪に、深い灰色の瞳。
レオンハルト・フォン・アルトハイム大公。
この国で最も権勢を誇る大公家の当主にして、王国軍の総司令官。戦場では冷血の魔王と恐れられているが、実は稀代の読書家でもある。
「……失礼しました」
私は扉を閉めようとした。大公が読書中なら、邪魔をするわけにはいかない。
「待て」
低い声が、私を呼び止めた。
「エラ・ノーラン」
大公が、私の名を呼んだ。
「はい」
「婚約が、解消されたそうだな」
私は息を呑んだ。もう噂になっているのか。
「お耳に入るのが早いですね」
「子爵が、今朝、宮廷で吹聴していた。『運命の恋人を見つけた』と」
大公が本を閉じる。そして、ゆっくりとこちらを向いた。
「俺は、お前を三年間見ていた」
何を言っているのか、理解できなかった。
「毎日、ここに来て本を読んでいたお前を。古代文字と格闘し、史料を読み解き、誰よりも知識を愛していたお前を」
大公が一歩、近づく。
「お前は貴族社会に馴染めなかった。社交の場で、いつも退屈そうだった。けれど、ここでは違った」
もう一歩。
「本に囲まれている時、お前は輝いていた」
私の心臓が、早鐘を打つ。
「大公殿下……」
「レオンハルトでいい」
彼の手が、私の頬に触れた。
「エラ。俺は、お前が欲しい」
「え……」
「三年間、待った。お前が子爵のものである間は、何も言えなかった。けれど今、お前は自由だ」
灰色の瞳が、私を映している。
「お前の知識、お前の情熱、お前のすべてが欲しい。俺のものになれ」
「私は……平民です。大公殿下の妻になどなれません」
「王族でも貴族でもない、知識そのものを愛する者が欲しい。お前以外にいない」
大公の手が、私の手を取った。
「考える時間をください。今日は、驚きすぎて……」
「ああ」
大公が頷いた。
「だが、諦めはしない。お前を手に入れるまで、俺は何度でも来る」
◆
その日から、毎日大公が図書館に来るようになった。
特別閲覧室で、私の隣に座って本を読む。時々、古代文字の解読を手伝ってくれる。
驚いたのは、大公が古代語に精通していたことだ。
「軍事史料の多くは古代語で書かれている。読めなければ、戦略が立てられない」
そう言って、難解な文法を解説してくれた。
一緒に研究する時間が、心地よかった。
リシャールとは違う。彼は自分の研究を語るばかりだった。けれど大公は、私の研究を理解し、対等に議論してくれる。
「レオンハルト様」
三日目の夕暮れ、私は彼を呼んだ。
「あの、お尋ねしたいことが」
「なんだ」
「どうして、私なのですか? 貴方には、もっとふさわしい方が――」
「いない」
大公が即答した。
「俺が求めているのは、美貌でも家柄でもない。知を愛し、真実を追い求める心だ」
彼が立ち上がって、私の前に来た。
「お前は、本物だ。誰のためでもなく、ただ知りたいから学ぶ。その純粋さが、俺を惹きつけた」
大公の手が、また私の手を取った。
「エラ。答えを聞かせてくれ」
私は、もう迷っていなかった。
「はい」
大公の瞳が、揺れた。
「はい……?」
「はい。私を、貴方の妻にしてください」
次の瞬間、私は大公の腕の中にいた。
「承った」
彼の声が、耳元で震えた。
「二度と、手放さない」
◆
その夜、子爵邸から使者が来た。
リシャール子爵が、謝罪したいと言っているという。
「お断りします」
私は使者に告げた。
「もうお話しすることはありません」
「ですが、子爵様は深く後悔されていて――」
「後悔は、ご自分で背負っていただくものです」
翌日、リシャール本人が図書館に来た。
「エラ、話を聞いてくれ!」
閲覧室の入り口で、彼が叫んだ。
「俺が間違っていた。エリスは……僕の研究を理解していたわけじゃなかった。ただ、僕の地位が欲しかっただけだ」
私は本から目を上げずに答えた。
「それは、貴方が見極めるべきことでした」
「エラ……」
「私は、もう貴方の婚約者ではありません。どうか、お引き取りください」
リシャールの顔が、絶望に歪む。
「待ってくれ! もう一度、やり直せないか? 俺は――」
「子爵」
冷たい声が、リシャールを遮った。
大公が、閲覧室の奥から姿を現した。
「エラは、俺のものだ」
リシャールの顔が、蒼白になった。
「大公……殿下……」
「二度と、彼女に近づくな」
大公の瞳が、氷よりも冷たかった。
「これは警告だ。次に彼女を煩わせたら、お前の研究資金をすべて凍結する」
「そんな……」
「立ち去れ」
リシャールは、震えながら閲覧室を出て行った。
大公が、私の隣に座った。
「邪魔が入って、すまなかった」
「いえ。ありがとうございます」
私は微笑んだ。
「でも、少し厳しすぎたのでは?」
「甘くする理由がない」
大公の手が、私の手を握った。
「お前を手放した愚か者に、同情する気はない」
◆
一週間後、王立図書館で茶会が開かれた。
大公家主催の、学者たちを招いた集まりだ。
私は、図書館の一角で史料を整理していた。
「エラ」
大公が、私を呼んだ。
「少し、時間をもらえるか」
「はい」
彼に連れられて、図書館の中央ホールに出る。
そこには、宮廷の貴族たちが集まっていた。
そして、リシャールとエリスの姿もあった。
何が起こるのか、わからなかった。
「皆、聞いてほしい」
大公が、声を上げた。
「俺は本日、エラ・ノーラン嬢に求婚し、承諾を得た」
ホールがざわめいた。
「彼女は、この国で最も優れた古代史研究者だ。三百年間解読されなかった『エルディア古語の記録』を、たった一人で読み解いた」
大公の手が、私の肩を抱いた。
「その史料には、古代の防衛戦略が記されていた。彼女の研究は、軍事的にも極めて重要だ」
リシャールの顔が、驚愕に染まった。
彼は知らなかったのだ。私が何を研究していたのかを。
「エラ・ノーラン嬢は、今後、大公妃として王立図書館の監督も務める。彼女の知識は、この国の宝だ」
大公が、私の前に跪いた。
ホール全体が、息を呑んだ。
「エラ。改めて問う。俺の妻になってくれるか」
私は、涙が溢れそうになるのを堪えた。
「はい。喜んで」
大公が立ち上がって、私の手に口づけた。
拍手が、ホールを満たした。
リシャールは、蒼白な顔で立ち尽くしていた。エリスは、彼の腕にすがりついて泣いていた。
けれど、もう私には関係ない。
◆
大公との結婚式は、一月後に執り行われた。
王城の大聖堂で、王族や貴族たちが見守る中、私たちは永遠の愛を誓った。
「レオンハルト」
式の後、私は彼を呼んだ。
「貴方と結婚して、本当によかったです」
大公の腕が、私を抱き寄せた。
「俺もだ」
彼の声は、誰にも聞こえないほど小さかった。
「お前を見つけられて、幸運だった」
私たちは、毎日図書館で過ごしている。
大公妃としての務めもあるが、レオンハルトは私の研究時間を大切にしてくれる。
「エラ。この史料の翻訳、手伝ってくれないか」
「ええ、喜んで」
隣に座って、古代文字を解読する。
こんな日々が、ずっと続くといい。
◆
リシャール・ノルウェイ子爵は、その後も何度か図書館に来たらしい。
けれど、大公の命令で警備兵に追い返されたと聞いた。
エリスとの婚約も、彼女の浮気が発覚して破談になったそうだ。
「あの時、エラを手放さなければ……」
彼は今でも後悔しているという。
けれど、もう遅い。
私は今、レオンハルトの妻として、心から幸せな日々を送っている。
「エラ」
「何ですか?」
「愛している」
レオンハルトが、私の額に口づけた。
「ずっと、お前の隣にいる」
「私もです」
本に囲まれた図書館で、愛する人と共に学ぶ。
これが、私の望んだ人生だ。
そして、それを叶えてくれた人と、私は結ばれた。
これ以上の幸せは、ない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「冷却系ざまぁ」と「図書館での恋」を組み合わせた作品です。主人公は怒らず、ただ本来の居場所に帰る。その品格が、最良の相手を引き寄せる……という構造で書きました。
よろしければ評価・ブックマークいただけると、とても励みになります。




