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運命の恋を見つけた婚約者に、おめでとうと告げて図書館に帰ったら、大公殿下が追いかけてきた

作者: 夢見叶
掲載日:2026/02/12

「エラ。君との婚約は、解消したい」


 子爵邸の応接室で、リシャール・ノルウェイ子爵は真摯な表情でそう告げた。


 私は本から目を上げた。今日も彼が話したいというので来たのだが、読みかけの史料の方が気になって仕方がない。


「理由をお聞きしても?」


「エリスだ。彼女こそが、僕の運命の人だと気づいた」


 リシャールの隣には、エリス・ディアナ子爵令嬢が涙を浮かべて立っていた。


「エリス様は、僕の研究を理解してくれる。君は……いつも本ばかり読んでいて、僕の話を聞いてくれない」


 ああ、そうか。


 私は静かに頷いた。確かにそうだ。リシャールが錬金術の話をしている間、私は古代文字の解読を考えていた。彼の話に相槌を打ちながら、頭の中では全く別のことを考えていた。


「構いませんよ」


 私は微笑んだ。心からの、穏やかな笑みだった。


「婚約解消、お受けします。どうぞ、お幸せに」


 本を閉じて立ち上がる。リシャールの顔が、驚きに固まった。


「え……本当に? 怒らないのか?」


「怒る理由がありません。私たちは元々、お互いの家の都合で婚約しただけです。貴方が本当に愛する方と結ばれるなら、それは喜ばしいことでしょう」


 エリスが呆然としている。彼女は泣き崩れて謝罪する私を想像していたのだろう。


「では、手続きは司祭館を通じて進めてください。私は明日から、図書館に戻ります」


「図書館……?」


「ええ。婚約期間中、私は王立図書館の仕事を控えていました。ようやく戻れます」


 踵を返して、応接室を出る。


「待ってくれ、エラ! せめて、もう少し話を――」


「お話しすることは、もうありません。ごきげんよう」


 振り返らず、子爵邸を後にした。


 馬車に乗り込んで、初めて深呼吸をする。


 ああ、軽い。驚くほど、肩が軽い。


 貴族社会の社交に合わせて、髪を結い上げて、ドレスを着て、微笑んで。本当は窮屈で仕方がなかった。


「図書館に、帰ろう」


 御者に行き先を告げると、馬車は王城の方角へ走り出した。



 王立図書館は、王城の西翼にある。


 巨大な円形の建物で、壁一面が本棚だ。古代から現代まで、あらゆる知識がここに集まっている。


「おお、エラじゃないか! 戻ってきたのか」


 入り口で、老司書長のベルンハルトが目を細めた。


「はい。婚約が解消されましたので」


「そうか、そうか。まあ、お前さんには貴族社会は窮屈だったろうからな」


 ベルンハルトは笑った。彼は私を幼い頃から知っている。


 私の父は平民の学者だった。古代史の研究に生涯を捧げ、貧しくとも本に囲まれた日々を幸せに生きた。


 父が亡くなった後、私は王立図書館の見習いになった。十五歳の時だ。


 そして三年前、リシャール子爵と婚約した。彼の父が、図書館で研究していた私を見初めたのだ。「学問を愛する息子の妻にふさわしい」と。


 けれど、私が愛していたのは学問そのものであって、貴族社会ではなかった。


「婚約中も、古文書の解読は続けていたんでしょう?」


「ええ。あの『エルディア古語の記録』、もう少しで解読できそうなんです」


「おお! あれは三百年間、誰も読めなかった代物だぞ」


 ベルンハルトの目が輝いた。


「早速、続きを見せてもらおうか」


 私たちは、図書館の奥深く、特別閲覧室へ向かった。



 特別閲覧室の扉を開けると、誰かがいた。


 長身の男性が、窓際で本を読んでいる。漆黒の髪に、深い灰色の瞳。


 レオンハルト・フォン・アルトハイム大公。


 この国で最も権勢を誇る大公家の当主にして、王国軍の総司令官。戦場では冷血の魔王と恐れられているが、実は稀代の読書家でもある。


「……失礼しました」


 私は扉を閉めようとした。大公が読書中なら、邪魔をするわけにはいかない。


「待て」


 低い声が、私を呼び止めた。


「エラ・ノーラン」


 大公が、私の名を呼んだ。


「はい」


「婚約が、解消されたそうだな」


 私は息を呑んだ。もう噂になっているのか。


「お耳に入るのが早いですね」


「子爵が、今朝、宮廷で吹聴していた。『運命の恋人を見つけた』と」


 大公が本を閉じる。そして、ゆっくりとこちらを向いた。


「俺は、お前を三年間見ていた」


 何を言っているのか、理解できなかった。


「毎日、ここに来て本を読んでいたお前を。古代文字と格闘し、史料を読み解き、誰よりも知識を愛していたお前を」


 大公が一歩、近づく。


「お前は貴族社会に馴染めなかった。社交の場で、いつも退屈そうだった。けれど、ここでは違った」


 もう一歩。


「本に囲まれている時、お前は輝いていた」


 私の心臓が、早鐘を打つ。


「大公殿下……」


「レオンハルトでいい」


 彼の手が、私の頬に触れた。


「エラ。俺は、お前が欲しい」


「え……」


「三年間、待った。お前が子爵のものである間は、何も言えなかった。けれど今、お前は自由だ」


 灰色の瞳が、私を映している。


「お前の知識、お前の情熱、お前のすべてが欲しい。俺のものになれ」


「私は……平民です。大公殿下の妻になどなれません」


「王族でも貴族でもない、知識そのものを愛する者が欲しい。お前以外にいない」


 大公の手が、私の手を取った。


「考える時間をください。今日は、驚きすぎて……」


「ああ」


 大公が頷いた。


「だが、諦めはしない。お前を手に入れるまで、俺は何度でも来る」



 その日から、毎日大公が図書館に来るようになった。


 特別閲覧室で、私の隣に座って本を読む。時々、古代文字の解読を手伝ってくれる。


 驚いたのは、大公が古代語に精通していたことだ。


「軍事史料の多くは古代語で書かれている。読めなければ、戦略が立てられない」


 そう言って、難解な文法を解説してくれた。


 一緒に研究する時間が、心地よかった。


 リシャールとは違う。彼は自分の研究を語るばかりだった。けれど大公は、私の研究を理解し、対等に議論してくれる。


「レオンハルト様」


 三日目の夕暮れ、私は彼を呼んだ。


「あの、お尋ねしたいことが」


「なんだ」


「どうして、私なのですか? 貴方には、もっとふさわしい方が――」


「いない」


 大公が即答した。


「俺が求めているのは、美貌でも家柄でもない。知を愛し、真実を追い求める心だ」


 彼が立ち上がって、私の前に来た。


「お前は、本物だ。誰のためでもなく、ただ知りたいから学ぶ。その純粋さが、俺を惹きつけた」


 大公の手が、また私の手を取った。


「エラ。答えを聞かせてくれ」


 私は、もう迷っていなかった。


「はい」


 大公の瞳が、揺れた。


「はい……?」


「はい。私を、貴方の妻にしてください」


 次の瞬間、私は大公の腕の中にいた。


「承った」


 彼の声が、耳元で震えた。


「二度と、手放さない」



 その夜、子爵邸から使者が来た。


 リシャール子爵が、謝罪したいと言っているという。


「お断りします」


 私は使者に告げた。


「もうお話しすることはありません」


「ですが、子爵様は深く後悔されていて――」


「後悔は、ご自分で背負っていただくものです」


 翌日、リシャール本人が図書館に来た。


「エラ、話を聞いてくれ!」


 閲覧室の入り口で、彼が叫んだ。


「俺が間違っていた。エリスは……僕の研究を理解していたわけじゃなかった。ただ、僕の地位が欲しかっただけだ」


 私は本から目を上げずに答えた。


「それは、貴方が見極めるべきことでした」


「エラ……」


「私は、もう貴方の婚約者ではありません。どうか、お引き取りください」


 リシャールの顔が、絶望に歪む。


「待ってくれ! もう一度、やり直せないか? 俺は――」


「子爵」


 冷たい声が、リシャールを遮った。


 大公が、閲覧室の奥から姿を現した。


「エラは、俺のものだ」


 リシャールの顔が、蒼白になった。


「大公……殿下……」


「二度と、彼女に近づくな」


 大公の瞳が、氷よりも冷たかった。


「これは警告だ。次に彼女を煩わせたら、お前の研究資金をすべて凍結する」


「そんな……」


「立ち去れ」


 リシャールは、震えながら閲覧室を出て行った。


 大公が、私の隣に座った。


「邪魔が入って、すまなかった」


「いえ。ありがとうございます」


 私は微笑んだ。


「でも、少し厳しすぎたのでは?」


「甘くする理由がない」


 大公の手が、私の手を握った。


「お前を手放した愚か者に、同情する気はない」



 一週間後、王立図書館で茶会が開かれた。


 大公家主催の、学者たちを招いた集まりだ。


 私は、図書館の一角で史料を整理していた。


「エラ」


 大公が、私を呼んだ。


「少し、時間をもらえるか」


「はい」


 彼に連れられて、図書館の中央ホールに出る。


 そこには、宮廷の貴族たちが集まっていた。


 そして、リシャールとエリスの姿もあった。


 何が起こるのか、わからなかった。


「皆、聞いてほしい」


 大公が、声を上げた。


「俺は本日、エラ・ノーラン嬢に求婚し、承諾を得た」


 ホールがざわめいた。


「彼女は、この国で最も優れた古代史研究者だ。三百年間解読されなかった『エルディア古語の記録』を、たった一人で読み解いた」


 大公の手が、私の肩を抱いた。


「その史料には、古代の防衛戦略が記されていた。彼女の研究は、軍事的にも極めて重要だ」


 リシャールの顔が、驚愕に染まった。


 彼は知らなかったのだ。私が何を研究していたのかを。


「エラ・ノーラン嬢は、今後、大公妃として王立図書館の監督も務める。彼女の知識は、この国の宝だ」


 大公が、私の前に跪いた。


 ホール全体が、息を呑んだ。


「エラ。改めて問う。俺の妻になってくれるか」


 私は、涙が溢れそうになるのを堪えた。


「はい。喜んで」


 大公が立ち上がって、私の手に口づけた。


 拍手が、ホールを満たした。


 リシャールは、蒼白な顔で立ち尽くしていた。エリスは、彼の腕にすがりついて泣いていた。


 けれど、もう私には関係ない。



 大公との結婚式は、一月後に執り行われた。


 王城の大聖堂で、王族や貴族たちが見守る中、私たちは永遠の愛を誓った。


「レオンハルト」


 式の後、私は彼を呼んだ。


「貴方と結婚して、本当によかったです」


 大公の腕が、私を抱き寄せた。


「俺もだ」


 彼の声は、誰にも聞こえないほど小さかった。


「お前を見つけられて、幸運だった」


 私たちは、毎日図書館で過ごしている。


 大公妃としての務めもあるが、レオンハルトは私の研究時間を大切にしてくれる。


「エラ。この史料の翻訳、手伝ってくれないか」


「ええ、喜んで」


 隣に座って、古代文字を解読する。


 こんな日々が、ずっと続くといい。



 リシャール・ノルウェイ子爵は、その後も何度か図書館に来たらしい。


 けれど、大公の命令で警備兵に追い返されたと聞いた。


 エリスとの婚約も、彼女の浮気が発覚して破談になったそうだ。


「あの時、エラを手放さなければ……」


 彼は今でも後悔しているという。


 けれど、もう遅い。


 私は今、レオンハルトの妻として、心から幸せな日々を送っている。


「エラ」


「何ですか?」


「愛している」


 レオンハルトが、私の額に口づけた。


「ずっと、お前の隣にいる」


「私もです」


 本に囲まれた図書館で、愛する人と共に学ぶ。


 これが、私の望んだ人生だ。


 そして、それを叶えてくれた人と、私は結ばれた。


 これ以上の幸せは、ない。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


「冷却系ざまぁ」と「図書館での恋」を組み合わせた作品です。主人公は怒らず、ただ本来の居場所に帰る。その品格が、最良の相手を引き寄せる……という構造で書きました。


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