プロローグ
遠い遠い記憶。
定かではない記憶。
母の胸に抱かれて無邪気に、空をかき回すように小さい手を掲げているのはパルマール・ディメトーリアス。母はその娘をパルマと呼び、優しく揺らしてあやしている。
パルマの目線の先では、大地から飛び出すように空へ煌々とした光が一筋上っている。その光は雲を突き抜け、たしか夜だったはずの空を明るく照らしていた。
その光の美しさ、神々しさを手に入れようと必死に手を伸ばすパルマ。その光から遠ざけるように母はパルマを抱きしめ、光へ背を向けた。胸にうずめられたパルマがその苦しさから逃れようと母を突っぱねる。
パルマが文句の意志を伝えようとムッとした顔で母を見上げると、その顔は逆光のせいか表情は見えなかったが、明らかにパルマを包む母の体は、震えていた。
「パルマ、あなたは…」
その言葉を遮るように強い輝きが起こり、光のカーテンが二人を包み込む。
暖かさすら感じるその光の中で照らされた母の顔は、確かに泣いていて、そして笑顔だった…。
―――――――――
月の白んだ光を浴びると、気持ちよさと同時に何かがフラッシュバックする。30年前の、塵のような記憶。
ひび割れたステンドグラスからは砕けた七色の光が差し込み、パルマの金と白銀が混じったような色合いの髪と豊満な体を覆い隠す修道服を色彩豊かに照らしていた。
「みっともない……」
修繕するお金もない教会で、ぼろぼろの箒を持ったパルマが小さくため息をついた。お化け教会──という名で子どもたちに親しまれて(?)いるこの建物は、本来「愛の教会」と呼ばれるべき建物だ。
パルマは愛の神パル=メクを信奉するその教会の神官を務めている。とはいっても普段は人目を避け、掃除などぼろぼろの教会を少しでも延命させるための仕事が主で神官らしいことはほとんどしたことはない。
神の信奉者は質素倹約すべし、教会の長を務めるディン・ピンター神官長の口癖だ。それは分かるがこれは度を超えているんじゃないか、パルマは常日頃そんなことを考えていた。教会とは神の教えを広め、信じる者を救い導く……。そんな神の威光を背負った施設であり、間違っても「廃墟」や「お化け教会」と揶揄されるのはもってのほか! こんなことになったのも世界中の魔力が半減して神の力が見えなくなったせいだ!
パルマは教会の、そして自分の行く末に絶望して空を仰ぐ。ステンドグラスだけでなく天井にもヒビが入っていて、あきらかに昨日よりも伸びている。いつか青空の下で掃除することになる、とパルマは苦笑する。
パルマは手に持っていた箒で掃除を再開した。昨日掃除したばかりなのにどこから流れ着いてくるのか塵が積もっている。これも神の御業か…。
ただ、ここがお化け教会と呼ばれる所以はそれだけじゃない。
「だれがお化けですか……私はれっきとした生き物です!」
こみ上げてきた怒りで箒を地面に叩きつけると、由来の分からない埃が舞い散る。夜になると教会に”ハイエルフの亡霊”が現れるらしい。30年前、一夜にして10の王国が消滅したと言われる「災厄の日」。その災害を起こした張本人とされる種族だ。
パルマはそのハイエルフの血を引いている。そしてその血のせいで数多くの迫害を受けてきた記憶が蘇り、苦い表情になる。一人で各地を放浪しては物乞いして、石を投げられツバを吐かれ…。
そして色々、本当に色々あって今はボロ教会で人目を避けて暮らしている。
我ながら不憫で少しは恵まれてもいいんじゃない? 神官がそんなことを考えるのは不謹慎……それは分かってるけど……。もやもやとした気持ちを乗せ、目の前に浮かぶ埃に息を吹きかける。
今の楽しみはたまに度胸試しで忍び込んでくるガキを全力で恐怖のどん底に叩き落とすこと、それと──
「今日はチェロフ様の新作『丸太のうえでワルツを踊ろう2』……! どれだけ待ったことか……!」
正体不明の恋愛小説家 チェロフ・チュロスキー。突然隕石のように現れ、話題をさらった稀代の恋愛マスターだ。素性は謎に包まれ、誰も彼? 彼女? のことを知る者はいない。チェロフはパルマにとって特別な存在だ。愛を、そして恋を知らないパルマにとって、チェロフの著書は教科書だった。愛情や男女の心の機微を緻密に描いた処女作『蓮の葉に乗って池の女神と恋に落ちる』を読んだパルマは衝撃で二日寝込んだ。あまりの美しさ、あまりの切なさに胸が締め付けられ、呼吸さえ忘れて主人公たちの幸せを願った。
愛は苦しく、切ない。それでも命ある者すべては愛に生きている。パルマはそんな世界を愛おしく感じた。だから今の仕事に耐えられている。ほとんど人が寄り付かず、週に一度の集会も近所の噂好きのルーおばさんしか訪れないこの教会の仕事を。
「はぁ……もう、フェリペ……。彼女の想いに答えてあげて……!」
ぼろぼろと泣きながら本を読んでいるパルマ。その感情に合わせるように腰掛けているチャーチチェアが軋む。静かな教会で、誰も邪魔することのない読書タイム……この時間が至福の時。
そんな幸せな時間は乱暴に叩かれるドアの音でポッキリ壊された。パルマはその音に跳ね上がるように立つと、扉を睨みつけた。
こんな時間に誰!? トマス家のバカ息子アーシェ? それともテューダーのジル? 堪忍袋の緒が切れた……! 叱り飛ばしてやろうと怒りに任せてドアを開け放つ。
「ほ~らぶん殴りお化けだよ! 生意気なガキはいねぇがぁぁぁ!!……あ?」
パルマの振り上げた拳が静かに降りる。目の前にいたのはアーシェでもジルでもなく、フードを深く被り、走り続けたせいか肩で息をする謎の二人組だった。
「はぁ、はぁ……ここは、愛の教会で、間違いないか……?」
どうやらヒューマンらしき男がフードの奥から鋭い目を覗かせ、パルマを見つめる。
明らかに怪しい……それでもパルマが身構えなかったのは、二人が手を握り合っているのを見たからだ。
何故だかその二人を見て、静かに胸が高鳴った。そう、チェロフの本を読んだときのように。