人災
「すみません。この資料は───」
三度目の問いかけだった。
一度目も二度目も無視されて、三度目になってやっと。苛々としている様子が伝わってくるような溜息ののち、近寄るなと言わんばかりにシッシと手を払うように振られる。
一応、勤務時間内の出来事である。
「あのさぁ、見てわかりませんかぁ?そこに置いておいてくださいよ。要領悪すぎ」
「……はい。確かに机の上に置きましたから。よろしくお願いします」
手に持っていたファイルを無愛想な彼女の机の端に置く。
この資料はつい二時間前に投げ渡されたものだ。その拍子にバラバラに床に落ち、かき集め、まとめ直したものでもある。
床に膝をついて書類を集めていると上から『この資料は午後イチに戻すように』と言われた。幼い頃に見たシンデレラの気持ちってこんな感じだったのかな、と思考が飛んだ。良く言いすぎか。
床に落ちた分の書類をまとめ直して、欠けが無いかチェックして。業務で使う分をスキャンしてPDF化して。それを昼までのRTAだ。もちろん昼休憩返上で。
かなり急ぐ必要があったため、まだ昼食はとっていない。
このRTAは最近のルーティン化しているので、慣れたもんだ。
前回は彼女が昼休憩から戻る前に、机に戻したのにも関わらず『戻されていない!』と行き違いのトラブルになったため、こうして無視されようが本人に直接渡すため三度も話しかけるに至っている。
やっと受け取ってもらえたので、くるりと退散する。用事が終わったらすぐ離れたい。
そう思っているのに、自席へと向かう背中がヒソヒソ声を拾う。
「なにあれ、嫌味?」
「私はちゃんとやってますって言いたいんでしょ」
「ちゃんとやってんのは不倫だから(笑)」
「声大きいって、聞こえちゃうから(笑)」
実際、聞かせているのだろう。
溜息を飲み込み、次のタスクを頭の中で引っ張り出す。
今度は三期前の企画書の原本が必要になった。
未だデジタルに対応していない営業が注釈を手書きで入れている可能性があり、紙で保管している物を確認しにいかなければならない。これは資料室にある。
資料室なら雑音も聞こえない空間で一人になれると期待してしまった。
少し足早に資料室の鍵が納められているキーボックスを開けるが、あるべき場所は空だ。
最近頻発する事象に、先ほどまでの期待感は薄れ『やっぱり』と諦めに似た疲労がじわじわ広がっていく。まだ午後が始まったばかりだというのに。
部署内で電話をしている人がいないことを確認して、少し大きめの声で投げかける。
「すみません。アシスタントの方、資料室の鍵はどなたかお持ちですか。使い終わったら戻してもらえると助かります」
業務で資料室に用事があるのはほぼ営業アシスタントだ。丁度、昼休みが終わった直後で全員着席しているが返事はない。皮肉にもこれは想定内だ。
ここ最近、資料室の鍵は終業後にしか戻されないようだ。
だから必然的に私は終業時間後にしか資料室を使うことが出来なくなっている。
就業時間後にしか、資料室を使えないということは残業が発生するということだ。
誰も鍵の在りかを探そうともしない様子を見れば、嫌でもわかる。
つまり、今も鍵を誰かが持っていて、知らないふりをしている。
資料室を使う時は持っている人同士で情報を共有して、使わせたくない人には情報網から締め出す。そして、わざと就業時間後になってやっと戻すのだ。
───これはまごうことなき嫌がらせだ。
どうやら今日も業務時間内に資料室に入れないと確定した。
今はとりあえず昼食代わりの飲料でも飲もう、とオフィスを後にしようと背を向ければ『資料室でナニするつもりだか(笑)』という声が聞こえた。
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ナニって仕事に決まってるでしょーが!!!
どうやら私は営業アシスタントの皆さんから嫌がらせを受けているようだ。
原因に身に覚えがあるかと聞かれれば、思い当たるのは先日の彩さんとの一件だと思う。でも確信はない。タイミングが揃っているだけだ。
彩さんが辰己と入籍したという話を聞いた次の日からはほぼこんな感じで、どこかみんなよそよそしい。
もちろん営業部の全員が嫌がらせをしている訳でも、冷たい訳でもない。
以前と変わらず接してくれる人もいるし、内心はどうであれ業務に支障が出るようなことはしない人もいる。
ただ、こうして実害がでているのもまた事実で。
皆さんが誰から何を聞いたかはわからないが、突然始まった嫌がらせに弁明の機会はもらえていない。
きっと嫌がらせをしている人は、本当のところはどうかなぞ関係ないのだろう。
悪意のある噂が”丁度良かった”のだ。悪いことをしたのだから罰を受けてしてしかるべき!正義側に立って暴力をふるえる良い免罪符になったのだと思う。
今まで仲良くしてもらえていたと思ったのに、と 落ちそうな思考に蓋をして。顔をパンッと両手で叩く。
小さな喝を入れるのは、フロアにいる人に、こんな嫌がらせに屈しないためだ。へこんだ顔で喜ばせてやるもんか。