非常階段
「彩さん、どういうことですか!?」
「森田ちゃん、顔こわいよ~」
コロコロと、機嫌よく笑う声が非常階段に響いた。
休憩時間も終わり、お祝いムード一色だった休憩室から自然と解散になる流れの中。どうにか彩さんを非常階段まで連れ出したところだった。
なぜ彩さんが辰己と結婚しているのか。
いつから。
どんなつもりで私の相談に乗っていたのか。
聞きたいことが目まぐるしく駆け巡り、嫌な想像に胃がひっくり返りそうだった。
目の前にいるのは、自分が知っている流川彩なのか確かめるように見てしまう。
気が動転している私がよほど笑えるのか、更に笑いを深めた。
「───そんなんだから辰己に捨てられちゃうんだよ」
彩さんの綺麗な笑顔と言葉がちぐはぐで、受け入れられない。
「いつから、ですか」
「森田ちゃんは、いつからだと思う?」
いつも通り、なんてことない世間話をするような口調で彩さんは微笑んだ。
そして、私の答えを待つようにペットボトルに口をつける。
私はそれをただ呆けたように見ていた。
いつからだなんて全くわかりようもなかった。一瞬も疑わなかったし、接点があったことすら知らなかったのだ。
いつからかなんてわかりようもないが、事実、この目の前の人に辰己は触れ、お腹の中には新しい命が宿っているのかと漠然と考えていた。
この飲み物も辰己との子どもの栄養になるのかなんて、どうでもいいことまで思考が波及していく。
別れたくないと言って泣き脅しをしていた辰己は不気味で、支離滅裂で、宇宙人のようだと思ったこと。
その後、謝罪の場を設けてもらった日から三山夫人の叫びが、頭の中にこびりついたように離れなかったこと。
色んなことがあった。それなのに。
「なんで……こんなひどいこと、」
そう思わず呟いた直後だった。
「───あのね。良い子ちゃんぶるのも、被害者ヅラするのもやめてくれる?」
彩さんは困った後輩を見るように頬に手を当て、ため息をついた。
塗りたての艶やかなネイルが非常階段の蛍光灯を反射させた。
「私が森田ちゃんに、奥さんに会って謝って慰謝料払ってってお願いしたかな?」
入社後、営業部に配属された私の指導係が彩さんだった。その頃のような口調で、学生上がりの何もわかっていない後輩を指導するかのように、ゆっくりと問いかける。
「ぜーんぶ自分が勝手にやったことでしょ。どう?気持ちよかった?」
その優しい口調がどんどんザラザラとしたものに変わっていく。
「イ イ ヒ ト ぶ る の」
私の柔らかいところからダラダラと何かが垂れていく気がした。
「仕事でもなーんでもそう。誰かのために、辰己のために、自分のことを犠牲にがんばりましたーって顔して」
とんと押された拍子に非常階段に足をとられ、尻もちをつく。
「ほめられたくて期待してる顔、うざいかな。もういい加減、犬みたいに話しかけてこないでね」
呆然と見上げる私をチラリとも見ずに、彩さんは通り過ぎた。
営業フロアに続く重い鉄製のドアが、私を取り残し派手な音を立てて閉まった。
私はしばらく立ち上がることが出来なかった。
打った尾てい骨も腰も肘も痛かった。でも別のところがもっと痛いような気がして、ただ衝撃が通り過ぎるのをじっと待っていた。