第一話
「和菓子に栗羊羹ってあるでしょ?」
君は突拍子もなくそんなことを聞いてきた。汗で肌にTシャツが張り付いてくる。夜なのに湿度が高いせいで異様に暑く感じられた。
「うん。」
なんの話だ、と熱帯夜に若干の苛つきを感じながら僕は頷いた。
「それってね、真っ暗な夜空を羊羹であらわして、光り輝く月を栗であらわしてんだって。
だからね、栗羊羹って、満月って意味があるらしいよ。」
コンビニの帰り道。翳ない空の下、君は自慢げに月を指差しながら僕の方を向いた。
「そうなんだ。じゃあ普通の羊羹は?」
「うーん。なんだろ。」
君は夜空を仰ぎながら考える。僕からしたら、月が無い夜なんて絶望の闇にしか思えない。
「新月かな。」
君は笑ってそう答えた。
月を喰らう 水瀬 紗夜
僕と彼女の出会いはサークルの新歓だった。
「ごめん携帯なくしちゃったみたい。電話、かけてくれない?」
隣に座っていた君に話しかけられた。肩下まであるミディアムヘアで襟付きのブルーのワンピース。瞳が印象的だった。翡翠のような瞳と漆黒の髪の毛。その対比がどこか惜しくて、けれど良く合っていた。
「え?あ、け、携帯?」
話しかけられると思っていなくて、肩がビクッと跳ねた。
「そう。携帯。あなたがかけてくれない?」
自分が今頼まれている状況をやっと理解する。
「わ、分かった。番号教えて。」
僕は鞄から自分の携帯を取り出した。
「090-2078- 。」
言われた通りに番号を打ち、君に電話をかける。周りがうるさい中、微かに聞き慣れたiPhoneの着信音が鳴っている。君は自分の隣に畳んであったコートのポケットに手を入れる。
「あった。ありがとう。」
安堵した表情を見せ、君は僕にお礼を言った。
「あなた、名前は?」
僕の長い前髪を掻き分けて君の視線は僕に届いた。
「れ、蓮です。大村蓮。」
僕の昔からの吃音は、この時も煩わしかった。
「蓮くんね。私の名前は橘菜月。」
言われずとも知っていた。君は新歓の最初の自己紹介の時、誰よりはっきりと自分の名前と自分の夢を語っていた。僕にはそれができない。
幼少期に発症し今でも治らない吃音症は、僕の自信を根こそぎ否定するように僕に存在した。中学の頃は今よりも上手く言葉が出てこなかった。そんな僕を気持ち悪がるようにクラスの人は僕を避けた。それが僕の吃音症を更に加速させ、自身を否定された気持ちになった。友達もいないのでやることもなく、ずっと勉強をしていた。賢くなるに連れ大人たちから褒められことが多くなりそれが僕の気持ちを安定させていた。
毎日憂鬱だった中学校をなんとか卒業した後、県内でも名が知れている進学校に入学することができた。高校は中学に比べて居心地がすごく良かった。みんな勉強第一で、いい意味で周りの人間に多大な興味を示さなかった。友達と呼べる存在もできた。僕と同じ読書が趣味なメガネの男の子。僕の吃音にも初めは戸惑っていたが、徐々に当たり前のものして受け入れてくれるようになった。二人で教室の左端に座って、本の感想を言い合う。相手はライトノベル小説ばかり読んで、僕は純文学ばかり読んでいた。たまにライトノベル小説の特典だと言って卑猥なイラストのポスターカードを見せてきた。僕にはそれが新鮮で楽しかった。クラスメイトも、その本読んだことあるよ、と軽い声掛けをしてくれるので僕はなんだか得意げな気分になった。高校を卒業する頃には、クラスメイトに対しては全く吃音が出なくなった。
僕はこのままいけば自分の弱気な性格も変えれるかも知れないと自身に期待した。本に触れている期間が長かった僕は少なからず演劇に興味があった。この演劇こそが自分の気弱な性格を変えてくれる、そう思い、演劇サークルがある地元の公立大学に進学した。サークルに入ってまず驚いたのがみんなのコミュニケーション能力の高さだった。初対面でもなりふり構わず話にいく。もちろん僕にもみんな興味津々で話しかけてくれた。
しかし、高校で吃音がマシになったのは毎日根気強く話しかけてくれる友達と協調性のとれたクラスメイトのおかげだった。初対面でいきなり話しかけられて緊張しないはずがない。その時の吃音は過去一酷かった。最初は、いっときの緊張で上手く話せないだけだろうと、笑ってスルーしてくれた部員も僕が吃音症だと分かると演劇に使えないからか僕を蚊帳の外にした。
新歓の自己紹介でも上手く言葉が出てこず、場を白けさせた僕はここに座って飲み食いするのに申し訳なさを感じていた。そんななか、隣の君が話しかけてくれるなんて想像もしていなかったことだった。
「た、た、橘さん。よろしく。」
僕のこの話し方に君は多少なりとも驚いた。
「あなたが噂の吃音症の人?私サークルの人に会うの今日が初めてなんだけど、友達から聞いてはいてさ。あなたなのね?」
度直球に聞いてくる。けれど、なぜか嫌な気持ちにはならなかった。無言で避けられるよりはいささかマシであった。
「あ、そ、そうです。話始める時につっかえちゃって。こ、これでも治ってきてはいるんですけど。」
君は興味津々に僕を覗いてくる。翡翠のような瞳に見つめられて僕の鼓動はもっと早くなった。
「なんだ。全然思ったより酷くないじゃん。みんな大げさだなあ。」
と君は僕が想像もしてない返事をしてくる。
「え?」
考えるより先に思わず口から出た。
「え?全然だよ。ぜーんせん。普通だよ。そんな気にすること?」
君は僕の想像を遥かに超える返事をする。普通と行ってくれるのはありがたい。けれど、今まで悩んできた過去を馬鹿にされた気にもなり、なんだか苦い気持ちになった。僕はその場凌ぎの苦笑いをした。
「て言うか、なんで蓮くんそんなに前髪長いわけ?」
僕の苦笑いで終わると思っていた会話に、まさかの新しい話題を君は入れてきた。
「な、なんでってい、言うか。人の目を見て話すと、き、緊張して話せないし、。」
なるほどね、とそんな顔をして君はグラスを手に取り一口運んだ。
「はい。まず一つ。私は蓮くんの吃音なんてちっとも気にしません。二つ目、前髪は上げること。」
そう言って、君は無理矢理僕の前髪を後ろにかきあげた。
「ちょっ。や、やめっ。」
抵抗する僕にお構いなしで君は僕を見つめた。
「うん。こっちの方が何倍もかっこいい。」
君は花が綻ぶように微笑む。僕の中で何かが崩れたのを感じた。
それと同時に今まで味わったことのない急な胸の高鳴りが僕を支配する。
「や、やめてくださいっ。」
僕は突然声を荒げてしまった。自分の知らない感情に自分が耐えきれなかったからである。周りの人たちは驚いて静かになる。僕は君の手を乱暴に振り解き、お金を置いて宴会を後にした。僕が宴会の部屋を出るまで異様な静かさで包まれ、みんなが僕を見ていた。
恥ずかしさを紛らわすため駅まで全力で疾走し、帰路に着く。電車内の静かさに押しつぶされそうになる。さっきのことを思い出しては、やってしまったと脳内で反省会が催された。まだ演劇サークルに入部して一ヶ月も経ってないが、退部することを決意した。所詮は自分。高校で成長できたとはいえ、自身を変えることなどそう簡単ではない。
少しの落胆と後悔を抱え自分のアパートへと帰ってきた。時刻は二十時半を回っている。寝るには少し早いが、今日はもう何もやりたくないので短めのシャワーをした。ドライヤーをしながら、ふと橘さんが言っていたことを思い出す。
「こっちの方が何倍もかっこいい。」
思い出したくないのに出てきた橘さんの言葉に意識され、前髪をかき上げるようにドライヤーの風を当てた。洗面台に映る自分の姿がいつもと違いすぎて驚く。もしかして本当にこっちの方が似合っているのかも、そんな考えが出てきた時、頭の中で橘さんの笑った顔が反芻された。はっと我にかえり、誰も見てないのに恥ずかしい気持ちになる。乾かし終わった髪の毛を手でくしゃくしゃ、と元に戻した。
全てを忘れたい気持ちでベッドにダイブし目を閉じた。意識がどんどん闇に溶けていく。
翌朝は起きるのがしんどかった。大学に行くと演劇サークルの人と出会すかもしれない。そう考えると支度をするのが憂鬱で仕方なかった。授業を飛ぶ勇気も無いので嫌々ながらも大学に向かう準備を進めた。
電車に乗ると大学生らしき人がたくさんいる。誰とも目を合わさないようにと、長い前髪と整え完全に他人から目が見えないようにした。駅を降りてからも、ずっと下を向いて歩いていた。大学に着き、誰よりも早く講堂に入る。誰も座ら無さそうな一番前の席に腰を下ろした。昨日ぶりにスマートフォンを開き、通知を確認する。サークルのグループチャットでは昨日の新歓の写真と動画が、アルバムとなってグループ内に保存されていた。こんなもの開かずに閉じてしまえばいいものを、僕はなんらかの好奇心に誘われてアルバムを開いてしまった。サークルの主要メンバーの写真が中心に撮られていた。橘さんとその友達とのツーショットの後ろに僕が紛れ込んで写っていた。下を向いて黙々とご飯を食べている。客観的に見る自分の情けない姿にうんざりした。スクロールして写真を見ていると、橘さんが僕の前髪を上げている場面が写真の隅に映り込んでいた。
え。
自分が初めて見る自分の表情に驚く。こんな顔してたんだ。恥ずかしさで照れながらも口元が笑っている。主観的にあの場面を思い出すと、抵抗するのに必死だった記憶しか無い。今まで無い絡み方をされ恥ずかしさでいっぱいだった。けれど、言われてみれば確かに楽しかった。とても新鮮だった。
恥ずかしさを第一の感情とするなら、僕は今、名前が見つからない第二の感情であの場面の記憶を塗り替えた。しかし、僕はその後、場を白けさせてしまったしみんなに合わせる顔が無い。もともと蚊帳の外にされてはいたけど更に。橘さんとのあの一ページは僕の心の中にそっとしまい込まれた。
グループチャットから部長の個人LINEへと飛んで、退部の意志を伝える。これでひとまず、自分のテリトリーは守られた気がした。
もう誰とも関わらない。一人でいるなんていつものことだ。何が少し成長できたからって演劇で自分を変えようだよ。僕はもう、何も変わることはできない。
そんな否定的な言葉で殻の中に閉じこもった。あゝ、中学の時の二の舞。これから毎日一人。なんの楽しくもない生活を送るんだろう。
もう考えても仕方のないことは考えないでおこう。そう思って開いていたLINEを閉じ、正確には見たら色々思い出してしまうので強制的に閉じた。
講義の準備をし、今日習う部分に目を通す。僕以外の受講者もちらほら講堂に入ってきた。大抵の人は後ろの方に座る。最前列に座る人なんて大それた変わり者か、それか僕みたいに一人でいたい人だろう。きっとそんな人はいない。そう思って最前列に座ったのに、なぜか僕と同じ最前列に、しかもわざわざ僕の隣に座ってきた人がいた。もしかして、演劇サークルの人が、昨日のことを問い詰めてきたのか、思い横目でどんな人物か確認する。見たことのない人物だった。誰だこの人は。僕みたいに目にかかる前髪、染めていたのか髪の毛の先端が茶髪だった。アイボリーのロングTシャツに黒のスキニー。手にはファッションリングが光っていた。確かに僕と同じように目にかかる前髪をしているけれど、この人は僕みたいに暗い人物ではないだろうと外見から判断した。そもそも茶髪でファッションリングだなんて自分に自信がないとできない。大体そういう人は最後列で友達と連んで寝ながら授業を受けているのに。そんな人がなぜ僕の横に?席ならいくらでも空いてるはずだ。考えれば考えるほどこの人が気味悪く感じた。
講義が始まったのでとりあえず授業を聞くことにする。教授の話を聞いてはたまに横を少しチラッと見る。外見に見合わず、しっかりと教授の言うことをメモして寝ることなく授業を聞いていた。なんだ、ただの真面目な人か。偏見で相手を見てしまった自分を反省する。真面目な人は自分と似ているので結構好きだ。横が気になっていた気持ちがだんだん落ち着きをみせ僕は満足できるほど授業に集中できた。
授業が終わってもその人は特に自分話しかけてくることもなく帰っていった。ほっとした気持ちと、なんだか少し残念な気持ちが残った。やっぱり僕は一人でいるしかないのか。
二限が空くので小腹を満たすためにカフェテリアに向かった。昼食の時間帯ではないので人は少ない。とりあえず軽食となりそうなものを探す。ホットケーキとみかんゼリーのセットがあったのでそれを食べることにした。食券を買い、食堂のおばさんに渡す。作り置きをしていたのかすぐに出てきた。おぼんに乗せ席まで運び、窓際のカウンターに座った。三限の講義の予習をしながらホットケーキを口に運ぶ。メープルシロップが染み込んでいてかなりすすむ味だった。少しの喉の渇きを覚え、さセルフサービスの水を汲みに行った。そこでさっきの横に座ってきた人に偶然出会う。お互い、あ。と言いながら会釈した。その人も多分一人だった。もしかして僕と同じ人種なのかもと、と奇妙なほど嬉しくなった。
その日は三限と四限を受けて帰った。帰りにスーパーマーケットに寄り、今晩の食材を買った。今日は少し肌寒かったので鍋にすることにした。楽だし。なんの変哲もない日を送った。冷蔵庫に買ってきたものを入れ、テレビをつける。平日の昼下がりなんてテレビショッピングくらいしか放映されていない。テレビを消し、ベッドに寝転んだ。退屈で仕方なかった。自分の今日一日を振り返ると一文字しか発してない事実に驚いた。食堂の水汲みの時に会釈した時のあれだ。昨日のことが恥ずかしくなってもう一人で過ごしていくとは決めてけど、本当にこれでいいのか?せっかく高校で成長できたのにこのまま退行して社会に出るのか。そう思うと怖くなってきた。かといって僕のこの吃音を気味がらずに話しかけてくれる人なんているのか。いないだろうな、と自問自答で落胆する。考えても何も起こらないので寝ることにした。目を瞑って意識の下に沈んでいく感覚がある。その時だった。なんの悪戯か、僕は昨日の橘さんの言葉を脳内で再生してしまった。
「普通だよ。そんな気にすること?」
「まず一つ、私は蓮くんの吃音なんて気にしません。」
あの笑顔と瞳に見つめられると有無を言わせない何かが僕を襲う。かすかに期待を添えた気持ちが僕の中で産まれた。だが、橘さんは僕と違って友達もたくさんいるような人だ。きっとこんな僕を可愛そうな人だと気を遣って言ってくれたに違いない。あれはもう思い出さないで。脳に命令するように脳内で語りかけた。
目を覚ますと夕日が部屋の中に差し込んでいた。壁掛け時計が橙色に染まっている。まだ視界がぼやけていながらも、何時か確認しようとした。時刻は十七時を少し回っていた。
昼は軽食だけで済ましたので空腹を感じる。夕飯の支度をしようと思い、ベッドから起き上がった。無音すぎる自分の部屋に彩りを、と思いテレビをつけた。夕方のバラエティー混じりのニュース番組がいい感じに音を添えてくれた。適当に具材を切って鍋スープに入れていく。簡単だし楽だし最高。やっぱり自炊は良い、と改めて感じた。