プロローグ
俺は薄暗い部屋の中で煌々と輝くPCモニターを見つめていた。画面の先では3Dのキャラクターが剣でモンスターを次々と葬り去っている。
身体に染みついたコマンドをキーボードとマウスを介して絶え間なく繰り出し、ときおり移動を織り交ぜながら前方に存在するモンスターを片っ端から切り刻んでいった。
「ふう、この狩場も手慣れたもんだな」
ほどなく辺りのモンスターを全て狩りつくしてしまった。立ち止まり、ステータスを呼び出す。キャラクターの全身と装備、HPやMPなどのパラメーターが表示された。
ふとキャラクターの頭上に表示されていたフレイヤ―ネームに目が留まった。『葛城防徒』、俺の実名だ。MMORPGに実名を登録するなんてことは痛い奴かリテラシーの低いガキのやることだとは分かっている。どうしてこんな愚行をしたのかはよく覚えていなかった。たぶんゲームのキャラクターに自分自身を投影したかったのだろう。俺は相当に痛い奴らしい。
「でも俺以外のプレイヤーなんて見かけたことないし、別に問題ないだろ」
MMORPGの流行は20年ほど前に廃れてしまっている。それどころか五感制御装置を用いた没入型MMORPG、俗にいうVRMMOの流行すら下火になりつつある時代だった。
……そう思うとこんな骨董品で時間を浪費していることが馬鹿馬鹿しくなるな。
「はぁ……やめるか」
ログアウトしようと視線を向けると、自分自身を投影したそのキャラクターと目が合った。名前だけではなく、顔や容姿まで俺にそっくりでひどく不愛想だ。特徴のない黒い直毛の髪、気だるげな表情、どこか覇気を感じない立ち姿。俺は鏡に反射した醜い自分の姿から目を逸らすようにログアウトの文字にカーソルを合わせ、ゲームを終了させた。
意識が画面から離れ、自室に引き戻される。最後に開けたのがいつだったかも思い出せないほど閉め切られたカーテンの隙間から日の光が差し込んでいた。
「腹、減ったな」
人間、これといって生産的な行動をしていなくても腹は減るものだ。硬直しきった腰を上げ、長いときを経て再起動したロボットのようにぎこちなく自室を出て階段を下り、リビングへ向かった。
どうやら朝だったらしい。時計の針は7時を少し回ったところだった。リビングの大窓から朝日が差し込み、テレビには面白みのないニュースが流れている。
「なんか食いもんあるかな」
キッチンへ行き、冷蔵庫を漁る。見事に何もない。それもそうか。
両親は仕事で長らく家を空けていたため、俺は一人暮らしだった。それで最近買い出しに行った記憶がなければ、そりゃ食べ物なんてあるわけがない。いったい今までの俺はどうやって生活していたのか。
「あ、思い出した」
確か両親が定期的に仕送りをしてくれていたはずだ。その段ボールが玄関に……
「お、あった」
未開封の段ボール、梱包するガムテープを剥がすと中にはレトルトやら缶詰やらが詰められていた。カレーとパックご飯を手に取り、これらを電子レンジに投入する。時間は適当に5分で大丈夫だろ。
「セット、と」
突然、部屋に電話が鳴り響いた。
「うぉっ、びっくりした……朝っぱらから、誰だよ」
急かされることもなく電話機に向かい、受話器を持ち上げる、と同時にうるさいくらいの活発な声音が電話口から発された。
「よお!防徒、元気してたか?」
「そっちは朝から元気がよすぎるだろ……どうしたの進介さん」
「わりぃ、わりぃ。そっちは朝だったか」
電話の主は『西原進介』、俺の父親だ。苗字が違うことからも分かるように義父である。俺の本当の両親は俺が物心つく前に交通事故で亡くなってしまった。そこで行くあてのなくなった俺を義母と共に引き取ってくれたというわけだ。
「それで、この前の話のこと考えてくれたか?」
「ん?この前の話って?」
「おいおい忘れちまったのかよ。どうせ春休みの間ヒマだろうからこっちにきて仕事を手伝ってくれって言ってたろ」
そういえばそんな話をされたような気もする。実は義父はVRMMOの開発会社を経営していた。そんな彼はまさに現在進行形で斜陽産業と化しつつある業界の現状を打開するためにプレイヤーの生の声を聞きたいらしい。そこでプレイヤーのメイン層である学生の俺にテストプレイヤーを依頼してきたのだ。
正直、テストプレイヤーなんて現地でバイトを雇えばいいだろうとも思ったが、両親には義理の息子としていろいろと面倒をかけている。半分引きこもりのような生活を送っていた俺が役に立てるのなら協力自体はまんざらでもないのだが……
「だけど今、海外にいるんだろ?流石に高校生が一人でそっちに向かうのもなぁ。それにパスポートもないし」
「なあにそんなこと心配しなくていいって。それにもうそっちに部下を向かわせちまったしな」
「……はぁ?もう向かわせたって……」
嫌な予感がする。昔から義父は見切り発車で俺をそこかしこに連れ出す傾向があった。
ピンポーン……家のインターホンが鳴る。
「お、ちょうど着いたみたいだな。んじゃ、こっちで母さんと待ってるぜ」
「っちょ、いきなりすぎるだろ!」
予感は的中したようだ。
「気をつけてな!」
ことの張本人は捨て台詞のように俺の安全を願って電話を切った。
嘘だろ……急すぎる。大体、迎えってのはこっちに伝えてから送るもんでは?それがほとんど事後連絡ってどういう……
ピンポーン、ピンポン、ピンポピンポピンポピピp……あぁうるさい!
「はぁい!今行くから!」
急いで玄関に駆け寄って扉を開ける。
「近所迷惑だからいい加減に……」
「あ!ようやく開けてくれたぁ!」
スーツを着た金髪の長身女性が立っていた。背丈は俺より頭1つ高い。
「わぁ!本当に防徒君だあ!」
思わずその顔を凝視してしまう。とんでもない美人だ。榛色の透き通った瞳、シミ一つない純白の肌、鼻筋の高い西洋人的な端正な顔立ち。だけどどこか違和感が……ムグッ
「ちょ、なんでいきなり抱きつくんすか」
力強い抱擁で豊満な胸に顔が押し付けられる。息ができない。
「く、くるしい……」
「わっ、ごめんなさい」
彼女の腕が解かれる。
「ぷはっ……し、死ぬかと思った……」
「ご、ごめんなさい」
彼女はぺこぺこと頭を下げ、そして思い出したかのように背筋を伸ばして……
「進介さんの命で防徒君の付き添いを務めるヴィジーです!」
なぜか敬礼をしながら自己紹介をした。
「よろしくです!」
ヴィジーはにへらと笑う。キリッとした顔立ちとは対照的な思わず魅了されてしまいそうになる可愛らしい笑顔。……って、見惚れている場合ではない。
「と、取り敢えず家に上がってください」
見知らぬ美人を一人暮らしの男の家にあげるのもどうかと思うが、玄関先でこれ以上問答するのも問題だ。移動について聞きたいこともある。準備もまだだ。そもそも突然すぎてもう一度、進介さんに電話して……
「いえ、お構いなく!」
「い、いやこっちがお構いするというか、されるというか」
「何を言ってるんですか!もう出発しますよ!」
え?この人はマジで言っているんだろうか。それは流石に冗談か何かだろう。
……あぁ、何かマジっぽい、笑顔に屈託がない。これは嘘を吐けない人間の笑顔だ。
「その……準備がまだなんですが……それに朝ごはんも食べてないし」
「大丈夫です!サンドイッチを持ってきましたから!」
手に下げられていた袋を見せつけてくる。
「そ、それに俺今寝巻だし」
「安心してください!着替えも車に積んであります!」
まったく準備がいいこって。
「さぁ行きますよ!」
ヴィジーさんは俺の手を引いて強引に連れ出す。彼女はどうやら上司の見切り発車体質を忠実に受け継いでしまったらしい。こうして俺は痛いくらいに差し込む朝日の下に引きずり出されたのだった。
―――――
「フゴ!フゴフゴフゴ」
「飲み込んでから話してください」
俺はヴィジーの運転する車に乗せられ、彼女から今後の旅程について解読不明な言語で説明を受けていた。
寝巻はついさっき着替えた。なぜか手渡されたのは俺の通っている学校の制服だった。美人の前で下着を晒すのは恥ずかしさもあったが、案外どうにかなった。彼女が年甲斐もなく、
『わ、私は絶対に覗きませんからね!安心してください!』
などと慌てふためいていたからだろうか。ちなみに彼女の年齢は27くらいだと踏んでいる。俺より10歳年上の計算だ。
「んぐッ、……ッんぐんぐッ」
「はぁ、それ持っててあげますから水飲んでください」
食べかけのサンドイッチを受け取り、水を手渡す。
「ぷはぁ……ありがとうございますぅ。死ぬかと思ったぁ」
九死に一生を得たヴィジー。どうやら俺は人の命を救ったらしい。
「防徒君、防徒君!」
「なんですか?」
「サンドイッチ返してください!」
こちらに口を突き出して催促する。……それが命の恩人に対する態度かね。
「はぁ、どうぞ」
「ありふぁとうごふぁいまふ」
再び勢いよく頬張った。もう次は命を救ってやらない。
「ッ……ごっくん。プハァ……美味しかったぁ。あ、それ」
どうやら食べ終えたらしい彼女は車内の袋を指差した。そこにはもう1つサンドイッチが入っていた。
「防徒君も好きでしょう?」
俺の分らしい。……いやこういうのって普通同乗者と一緒に食べ始めるもんじゃないのか?相手が食べ終わったタイミングでこっちが食べ始めるってどういうことだよ。
「えぇ、じゃあ頂きます」
いろいろ言いたいことはあったが、なんとか押し殺す。突如として家を連れ出され、海外に連行されているというここ数分の翻弄の前には些細な問題だ。
サンドイッチを取り出すと市販で見かけるようなのとは異なり、分厚くスライスされ、表面が香ばしく焼かれたパンにこれまた肉厚のハム、新鮮なレタスやトマトなどが溢れんばかりにサンドされていた。確かにこれはヴィジーが喉を詰まらせるのも分からなくはない。
……でもあの人運転しながら片手でこれ食べてたんだよな。やっぱりよくわからん人だ。美人なのに。
「それでこの後どうするんですか?」
味もちゃんと旨いサンドイッチを食べながら聞く。俺は彼女とは違って、食べ物を飲み込んでから話すことで食事と会話を同時に行うスキルを持っていた。
「どこまで話しましたっけ?」
「どこまでも話してませんよ」
ヴィジーは驚愕した表情でこちらを見る。いままで何を聞いていたんだという顔だ。おい、もしかしてさっきまでの会話通じてると思ってたのかよ。あれで得られた情報はあんたがサンドイッチを食ってたってことだけだ。それとこっちを振り向くな。いま高速だぞ。あぶねぇな。
「前見てください!……もう一度最初からお願いします」
「仕方ありませんねぇ……次は聞き逃さないでくださいよ」
彼女が運転中でなければ張り倒していただろう。
「私たちはこのまま車で空港まで向かいます」
「……それで?」
「空港で飛行機に乗ります!」
「…………それで?」
「……?」
……?じゃないよ?じゃ。
「いやそれは知ってますよ。海外の進介さんに会いに行くんだから」
「……はぁ?」
ヴィジーさんは首を傾げた。……え、この人、ほんとに俺の聞きたいことが分からないのか?
「進介さんから聞いてると思いますが俺、パスポート持ってないんですよ……それにいま進介さんがどこの国に居るのかも分からないし」
義父の経営する会社は斜陽ながらも世界中に支社を置く多国籍企業であり、彼は世界を転々としていた。世界に根を張る斜陽企業だ。恐らく経営上の観点から見れば大問題だろう。俺は義父が失職する瞬間に備えておかなければならないのかもしれない。
「それなら大丈夫です!」
なぜかドヤ顔でムフーとするヴィジー。どんな壮大な計画が語られるのかと待っていたが、続く言葉がない。
「え?それだけですか?」
「はい!大丈夫なものは大丈夫なんです!」
はぁ、返す言葉もない。
「ただ飛行機の時間が押しているので急がなくちゃいけません!」
急がなくちゃいけないらしい。もうなるようになるだろう。なんなら出国審査で弾かれてしまえばいい。
「……あ、でもその前に」
急に口ごもるヴィジーさん。
「お手洗いに寄ってもいいですか?」
彼女は内股を擦りながらもじもじとしている。
「え、急ぐんじゃ……」
「防徒君がお水を飲ませるからです!」
俺たちは最寄りのSAに立ち寄る羽目になった。そもそも飛行機の時間に間に合わなそうだ。それでいい。美人とのこの些細な旅行を生涯の思い出にして生きていこう。
―――――
「いやぁなんとか間に合いましたね」
ヴィジーは座席に腰掛け、脱力していた。
半信半疑だったが、俺たちは目的の旅客機に搭乗できてしまった。途中、彼女が搭乗ゲートを見つけられず右往左往したりしたが、なぜか出国審査はパスできた。この国の出国審査は大丈夫か?
もう俺も諦めて向こうの入国審査がザルであることを祈っている。流石に空路での長旅のあと、間髪入れずに送り返されるのは面倒だ。
「防徒君は飛行機に乗るのは初めてですか?」
そんな俺の気苦労を知ってか知らずか、ヴィジーは聞いてくる。
「いやあるにはあると思うんですけど」
幼い頃に乗ったことがあるような気がする。進介さんといっしょだったか?記憶が定かではなかった。
「覚えてないんですね……なら初めてと一緒ですね!」
「ええまぁ」
「では離陸のときまで私が手を握っててあげましょう」
ヴィジーはそう言って俺の手を包み込むように彼女の掌を覆いかぶせてくる。すべらかな女性の手の感触が感じられ、全神経が自分の右手に集中していた。
「え、いや、大丈夫で……」
「遠慮しないでください!私も初めては緊張しましたから!」
確かに緊張していないと言えばうそになる。だが、それ以上に美人の女性に手を握られていることに動揺してしまう。これまでの道中で彼女に対する評価はかなり下がっているが、それを差し引いても、彼女の容姿は女性経験の乏しい男子高校生を揺さぶるには十分すぎるほど整っているのだ。
「そ、そういえば俺たちって昔会ったことありますか?」
俺は話を逸らして気を紛らわすことにした。
「……え?」
彼女の顔が驚きに包まれる。気のせいだっただろうか。だが、朝、彼女を見たときに感じた違和感がずっと残っていた。初めはこれまでに見たこともないほどの美顔に見慣れないせいかと思っていたが、思えばこれは久しぶりに再会した人間を思い出せないときの感覚にも似ていた。
「……まぁ!覚えていてくれたんですね!実は昔、こんなに小さいころの防徒君と会ったことがあるんですよ」
ヴィジーは親指と人差し指をつまむようにしてその小ささを示した。おいおいそれは小さすぎだろ。豆粒ぐらいじゃねぇか。
ともあれ、どうやら俺は実際に幼少期のころに彼女と出会っていたらしい。まぁ進介さんの部下なら不思議もないか。幼いころ何度か進介さんの会社に邪魔をしたことがあったような気がする。そのときにでも会ったのだろう。だが、これほどの美人を忘れてしまうとは幼少期の無邪気さというのは恐ろしい。
『間もなく本機は離陸します。シートベルトを締めて……』
そろそろ離陸するらしい。徐々にエンジン音も大きくなってきた。
流石に緊張するな。ヴィジーを握る手も強く……ん?そういえば俺は彼女の手を握っていない。俺の手の甲を包みこむように彼女の手が添えられているだけだ。つまり力を強めているのは彼女の方で……
ヴィジーの方を向く。彼女は目をぎゅっと瞑って、まるで般若のようにその美顔を歪めていた。
「ひゃっ、あうぅ……ンッ」
加速に伴うGを受けて、何やら艶めかしげな声を上げる彼女の隣で俺は驚くほど冷静に離陸を見守った。そして機体の上昇に合わせて、彼女の評価は地に落ちていった。
―――――
「うわぁ!凄いですよ防徒君!私たち雲の上にいます!」
ヴィジーは窓に張り付くように外の景色に釘付けになっていた。ちなみに俺が窓側に座っているので彼女はこちらに身を乗り出して覆い被さるような姿勢になっている。
「えぇ……凄いです」
……特に目の前にある張り裂けそうな彼女の胸が、
「もう……まったく」
マズッ……胸を見ていたことがバレたか?いくらポンコツだといっても美人に嫌われて残りの旅路を過ごすのは心苦しい。恐る恐る彼女の目を覗く。
「まったく、防徒君はサメサメボーイですねぇ」
「サメサメボーイ?」
「そうです、いつでもクールなサメサメボーイです!」
どうやらバレてはいなかったらしい。しかし、サメサメボーイとは?わけがわからん。
「防徒君は学校でもサメサメボーイなんですか?」
だからサメサメボーイってなんだよ。
「……まぁあんまりはしゃぐようなタイプじゃないですね」
俺は取り繕わずに言えば陰キャ、というよりも無キャと呼ばれるタイプに属していた。学力成績は中の下、部活にも所属していない。友人も数名世間話をする顔見知りがいる程度だ。
ちなみに引きこもりがちとは言ったが、しっかりと学校には登校している。流石に不登校となれば義理の両親に面目が立たないからだ。
「ほうほう」
何やら勝手に感心しているご様子。熱心に頷き返していた。
「じゃあお休みは何をして過ごしているんですか?」
床屋の世間話か何かか?
「別にこれといって何も……ゲームをして、寝て、また眠くなるまでゲームをしての繰り返しですよ」
俺が引きこもっているのは休みの方だった。同じことの繰り返し。まさに怠惰を具現したような生活を送っていた。
「流石、防徒君です!」
何が流石なのか、訳が分からない。
「面白みのない生活ですよ」
「私にとってはとっても興味深いです!」
「はぁ……」
珍獣観察的な好奇心を刺激してしまったのだろうか。確かに彼女のような明るい陽キャの周りでは俺のようなタイプは珍しいのかも知れない。
「そのゲームの積み重ねが今の防徒君に生きているんですね!」
「……煽ってます?」
そうだ、この不甲斐ない人格はその積み重ねによって生まれたものだ。
「そんなことはありませんよ?防徒君はとってもすごくてえらいです!」
そう言うと彼女はよしよしと俺の頭を撫ではじめる。彼女の温もりが掌を通して、頭から全身を覆うような感覚。惨めさと醜い承認欲求が満たされる充足感とが葛藤し、一瞬の名残惜しさをかき消しながら彼女の手を振り払う。
「やめてくださいよ。俺はすごくなんかないです。価値のない人間ですよ」
「むぅ……そんなことないのにぃ。防徒君はとってもとっても魅力にあふれた人ですよ!」
一見、わざとらしさを感じるほどの評価。しかし、どこかそれが彼女の本心からのものだと確信できてしまう。それが余計に自責を深めた。
そんな俺を見かねてか、ヴィジーは「なら」と切り出す。
「これから始まる生活はそんな防徒君にとってきっと素晴らしい冒険になりますよ」
たかだか父親の仕事の手伝いに大層なことを言うもんだ。
だが、彼女の微笑が目に焼き付く。その微笑はどこか儚さを内包しているようで、しかし強かにも見える。その表情は子の自立を見送る母のようだった。
恐らくこんな風に見えて彼女は年相応に、いやそれ以上に大人で、俺が青二才な子どもということなのだろう。
「そうだといいですけどね」
俺はぶっきらぼうに首肯した。にもかかわらず彼女は満足げに頷き、再び興味深そうに窓の外に視線を移した。
彼女の横顔を覗く。だが確かにヴィジーとの旅から始まったこの春休みは今までの陰鬱な日々よりも幾分マシな時間になるのではないかと性にもなく思い始めているのも事実だった。
そう感慨にふけっていると、
「ん?」
さっき一瞬、窓の外を何かが横切った気が……気のせいか?光の反射か何かだろうか。
「ヴィジーさん、さっきなに、か……」
窓の外を見ていたヴィジーに聞いてみる。
「防徒君!伏せて!」
突然、ヴィジーは覆いかぶさるようにして俺の上半身を座席の間に屈めさせる。俺の首元に彼女の胸が押し付けられた。
「え?ちょっなにを」
彼女の奇行に困惑する。しかし、ちらりと見えた彼女の顔は至って真剣なものだった。その表情は先ほどまでの彼女からは想像もつかない。
次の瞬間、爆発音が響き機内が揺れる。乗客の悲鳴。身体の芯にも響き渡るような重々しい音だ。ヴィジーに頭を押さえつけられているせいで状況が分からない。しかし、その音は機体の外から聞こえたように感じた。ガタガタと機体が振動を始める。
すると、次は機内で爆発音が聞こえる。先の音とは違って幾分軽い……
「も、もしかして……ヴィジーさん隠れて!」
咄嗟に叫んだ。この音には聞き覚えがあった。いや、実物を聞いたことはない。しかし、映画などで聞いたことのあったこの音は紛れもなく銃声のはずだ。
「防徒君は顔出さないで!」
どうやらヴィジーに俺の警告は届いたらしい。だが、一蹴されてしまう。どう考えても危険なのは俺よりも俺の身を庇っている彼女のはずなのに……
「ヴィジー隊長、葛城さんを連れて退避を!」
突如前方から男の声がする。男はヴィジーと俺を知っているようだった。それにヴィジー“隊長”ってどういう……
「聞えましたね、防徒君。立ってください!」
ヴィジーが俺の腕を掴んで身を起こさせる。辺りの状況が見えた。窓の外でエンジンが火を噴いて、今にも翼からもげ落ちそうだった。
機内では悲鳴を上げながら頭を伏せる乗客。その中で立ち上がり、銃を構え、発砲するスーツ姿の男が2名。男たちと驚くことにヴィジーの手にもいつのまにか拳銃が握られている。男の1人は俺たちの1つ前の座席から、もう1人は右方でそれぞれ前方へ向かって銃を撃っていた。
そしてその銃口の先、そこには一際異様な存在が屹立していた。顔を深くフードで覆った人影。夜霧のような外套に包まれ、男か女かは判断できない。そして何より異質だったのは、そいつがまるで中世の騎士が持つような長剣を握り、漆黒の鎧を外套の陰から覗かせていたことだ。これがフィクションなら漆黒の騎士などと形容されていたことだろう。
驚くことに奴は2名の男たちから銃撃を受けているのに平然と立っている。血も流していない。
「ヴィジー隊長、我々が援護します。そのすきに後方へ退避を」
男はしゃがみ込み弾倉を変えながら、椅子の隙間から俺たちに伝える。
ヴィジーが俺を一瞥する。何が何だか分からなかったが、俺は彼女の眼を見つめ返した。彼女は肯定と受け取ったらしい。
「了解しました」
ヴィジーの返答から一拍おいて、男が立ち上がり、奴に銃撃を加える。
「行きますよ!頭下げててくださいね」
ヴィジーに腕を引かれその場から動こうとしたその瞬間、前の男の頭部が破裂する。はじけ飛ぶ脳漿、その一部が俺の顔面に飛ぶ。彼の血痕が俺の視界を赤く染めた。
「は?……え?」
あまりの状況に理解が追い付かない。しかし、脳は思考を返さずにその嫌悪感を身体に伝えたようで食道を内容物がこみ上げてきた。遅れてきた理性がこの緊急時に吐しゃすべきではないと必死に押しとどめている。
「ヴィジー隊長!」
もう1人の男がこちらに向かってくる。
「伏せて!」
ヴィジーは叫び、俺の身体に覆いかぶさるように倒れ掛かった。すぐさま頭上を衝撃が掠めた。座席の上半分が散弾を受けたように粉砕する。
「やっぱり銃弾くらい撃ち返せますよね」
銃弾を撃ち返せるだと?この言葉が奴が銃を撃ち返すということを意味していないのは明らかだった。奴は銃なんて持っていないし、何よりさっきの攻撃で銃声なんてものは聞こえなかった。だが、そんなことありえるのか?それじゃまるで奴が魔術師だとでもいうみたいじゃないか。
「黒部さん、まだ撃てますか?」
どうやら男は黒部というらしい。彼はハンドジェスチャーでこちらに反応こそ返せていたが、腹部から大量に出血しており、とても戦えるようには見えなかった。
「防徒君、私が援護をしますから、あなただけでもうしろに……」
そのとき俺たちの横を巨漢が横切る。
「うおおおお!」
巨漢は鈍色のプレートアーマーに身を纏い、瘦身の腰幅くらいはありそうな両手剣を中段に構えたまま奴に突進する。しかし、その剣は見えぬ何かに阻まれるように奴の腹を抉ることはなかった。だが、男はお構いなしに力のまま奴に押しかかる。
それに続いて1人の少女が座席の背もたれに足を掛けて猫のように駆けていく。彼女は小柄な全身を黒いラバースーツで覆い、ナイフを逆手に持っていた。
少女は奴に飛び掛かるようにナイフをその首筋へ突き刺そうとする。しかし、奴の右腕で防がれる。どうやら刃が通らないらしい。彼女は身をひるがえし、大男の後ろに着地した。
「ヴィジー!防徒!さっさと行けぇ!」
大男が叫ぶ。
「アガードさん、来てくれたんですね!」
「いいからいけぇ!」
彼もヴィジーの仲間なのか?いったい何がどうなっている?
「防徒君、聞えましたね?立てますか?」
混乱を隠すように頷き、ヴィジーに手を引かれるままに後方へ駆け出した。
「行きますよ!防徒君!」
―――――
「はぁ……はぁ……大丈夫ですか、防徒君」
「……なんとか」
俺たちは最後方の座席に身を隠していた。
「ヴィジー、予測ではあと10分以内にコンタクトがあるはず」
逃げる途中で2人の少女が合流していた。1人は藍色のショートヘアのスレンダーな少女で服装こそヴィジーと同じスーツだが、その手には短弓が握られ、背に矢の入ったホルダーを掛けている。
もう1人は栗毛の長髪を下ろす無表情な少女で、えんじ色のローブで全身を包み、両手で太い木の枝をそのまま切り出してきたような杖を握り締めている。
「あいつはなんなんですか?あいつまるで俺たちを狙っているみたいに……銃弾を撃ち返すなんて普通はありえませんよ。それにあなたたちも一体……」
俺は矢継ぎ早に頭の中で渦巻く混乱を吐き出した。ショートヘアの少女が制する。
「あいつはあんたの命を狙う敵。私たちはそれからあんたを守る味方。それだけ分かればいい」
奴が俺の命を狙う敵だって?俺は確かに社長の息子だが、それほどの価値があるとは思えなかった。それに彼女たちが味方とは?進介さんが寄越したのか?だがそれだと進介さんはこの事態を予測していたということになる。それに護衛だとしても彼女たちが剣やら弓やらを装備している必要があるのか?
現実にめまいがしてくる。するとヴィジーが俺を抱きしめた。身体が震えていた。この震えは俺のものか、それとも彼女のものか。
「今の防徒君にはいっぱい分からないことがあると思います。でも……」
彼女は腕を解き、顔を見合わせる。彼女の榛色をした双眸の内に力がこもる。
「防徒君は必ず私たちが守りますから!」
ヴィジーはもう一度強く抱きしめた。名残惜しそうに身体を離す。
「防徒君、顔が血まみれですよ」
そう言って彼女はハンカチを取り出し、俺の顔に当てようと手を伸ばした。俺はその手からハンカチを取り上げ、逆に彼女にあてがった。先の攻撃で銃弾を掠めたのだろう額の傷から血が滲んでいたからだ。
「俺の血は返り血です。それよりヴィジーさんの傷を押さえないと」
「防徒君は優しいですね」
ヴィジーは傷を押さえる俺の手を優しく撫でた。彼女はこんなにも俺を気にかけてくれている。頭の中を渦巻く疑問は何一つ解決していなかったが、今の俺にはそれだけで十分だった。
「ヴィジー!もう持たない!」
駆け込んできたのはナイフ使いの少女。そのすぐ後ろではアガードと呼ばれていた巨漢が奴に両手剣で続けざまに連撃を繰り出しているがほとんど効果がない。奴は一歩ずつ着実にこちらに近づいていた。
ローブを着た少女が杖を構えて、何かをブツブツと唱えた。すると、その先端に火球が現れた。
「なんだよあれ、まるで魔法じゃないか」
驚愕した。彼女の姿はまさしくアニメや漫画、ゲームにファンタジー映画で見た魔法使いそのものだったからだ。
火球がみるみる大きくなってゆく。そして、直径が人の頭ほどの大きさになったところで、
「アガード下がって」
彼女は静かに促した。アガードは剣戟の最中だが、その声をしっかり捉えたらしい。ワンステップで奴と距離を取る。
すると火球は杖から離れ、凄まじい速さで奴に肉薄し、奴の肉体に到達する瞬間……かき消された。シュゥ……と音を残して消え去る。
「……バケモノ、でもこれなら」
そう言って少女は杖を振りかざす。再び言葉を紡ぎ始めるが聞き取れない。
彼女は杖の先で円を描くように回し、それに呼応するように奴の足元に火花が散る。それは徐々に火の弧を描き、奴を囲うように大きくなっていく。そして、少女が杖を振り下ろすと同時に巨大な火柱が奴を貫いた。
奴の全身が炎に包まれる。普通の人間ならひとたまりもないだろう。だが、少女は驚愕した表情でその後の展開を予測しているように呟いた。
「これでも……効かないの?」
彼女が口走るより先に奴は剣をひと薙ぎする。するとたちまち火柱が力を失って霧散する。
奴は反撃とばかりに剣を上段から振り下ろす。だが、奴は彼女との間に数歩分の隔たりがある。その剣先はもちろん宙を切った、はずだった。刹那、彼女の肩口から脇腹にかけて一筋の濃紫色の靄が巡ったと思うと、それに沿うように血が噴き出した。
彼女が俺に振り返る。彼女は変わらず無表情のままで、されどその眼から涙を流していた。
「守れ、なくて、ごめん、なさい……」
彼女は崩れ落ちる。大量の血が地面を濡らす。もう息をしていなかった。
「そんな……なんで……」
……彼女は死んだのか?俺を守るために?理解ができない。理解したくもなかった。
アガードが叫んでいた。恐らく少女の名前だろう。彼は怒りに任せて奴に突撃する。しかし、奴を押しとどめることはできない。
俺はただその惨劇を呆然と見ていることしかできなかった。
「……君、防徒君!」
ヴィジーが呼んでいた。脱力しきって彼女の傷を押さえることを忘れていた手からハンカチを抜き取る。
「これはお守りです」
そういって俺のズボンのポケットにハンカチを押し込んだ。
「あとこれも持っていてください」
そういうと彼女は俺の手に彼女の拳銃を握らせた。そして、両腕で俺の肩を押さえ、その双眸で俺を見つめた。
「大丈夫ですか?」
彼女はそう問うた。大丈夫なはずはない。彼女は何故そんなにも当たり前のことを聞いているのか。なのに俺は……
「俺は大丈夫です」
自然とそう答えていた。自分でも驚くほど明瞭な声音だった。
「さすが防徒君です!」
もう一度俺の肩を握る手に力を込めてから彼女は立ち上がる。
「え、ちょ、ヴィジーさん」
そして、俺に背中をあずけ、奴の前に立ちふさがった。彼女と後退していた剣士、短剣使いの少女、そして弓持つ少女が並び立った。この4名が残された最後の味方らしい。
「これ以上あなたの好き勝手にはさせません」
ヴィジーは丸腰の掌を奴の方に向けるようにして構える。辺りが静寂に包まれたと錯覚する。空気が彼女に収斂する様だった。その鮮やかな金色の長髪が逆立ち、耳を覗かせる。それは人のものとは思えないほど長く尖った耳でひどく奇怪なはずなのにこれまで彼女に感じていた違和感が瞬く間に氷解していく。ヴィジーの立ち姿はフィクションで見たエルフそのものだった。
「敬愛なる森の木立よ」
楽器の音色のように透き通った声。乗客の悲鳴や騒音をかき分けてその詠だけが耳朶に届く。
それを合図に他の味方も奴に飛び掛かった。まず先陣を切ったのは短剣使いの少女。彼女は軽々と跳躍すると奴の脳天に切りかかる。だが、奴はその短刀ごと彼女の腕を掴み、投げ払う。
少女は座席をなぎ倒しながら吹き飛ばされ、ようやく静止したとき、彼女の身体はぐたりと力を失っていた。
「悠久の時を生けるそなたの生彩を」
巨体の男が中段で両手剣を構えて突進する。奴も呼応するように剣を振り下ろすが、その瞬間、男はその体躯からは想像もできないほど軽やかに剣尖を避けた。
そのすきを縫うように男の後ろに控えていた少女が番えていた矢をその短弓から放つ。矢は吸い込まれるように顔の見えない奴の頭部めがけて貫かんとしていた。
しかし、矢はその矢じりが奴の眉目を抉る寸前に空中で停止し、硬直する。そして奴は矢を手に取り矢柄をへし折った。矢じりだけが宙を漂っている。
奴は剣の柄で大男の腹部を殴りつけ、矢じりを魔法の如く、手を触れることもなく撃った少女当人に放ち返す。
大男は小柄な少年のように吹き飛ばされ、女は額に自身の矢を受ける。大男は辛うじて息をしているようだったが、少女はもはや息絶えていた。
想像もできぬほどの絶望。こうも軽々しく人の命が奪われていいものなのか。
そのとき、奴の足元が蠢いた。
「我らが前に解放させたまえ」
ヴィジーの言葉に反応するように床から無数のツタのような植物が出現する。それらは奴の四肢と剣に絡みつき、初めて奴の動きを止めた。
「少しだけでも時間稼ぎを」
ヴィジーは指揮者のように腕を振り、それに合わせるようにツタが自在に蠢き、奴への拘束を強化していく。もはや彼女がエルフで、魔法使いであることを疑う余地はなかった。
彼女の腕には徐々に力が込められ、筋肉が膨張している。額にも汗が滲んでいた。
「……ッ、なんて力」
奴が拘束の中で身じろぐ。しかし、拘束を解くことはできそうにない。すると奴は抵抗をやめた。ツタが張り上げられ、奴は大の字で縛られていた。食い止めたのか?
そう思った瞬間、奴の全身から毒々しいオーラが漂う。
「やっぱりこのくらいじゃ止まってくれませんよね」
ヴィジーが憎々しげに溢す。奴を拘束していたツタがみるみる生気を失い、枯れ朽ちていく。奴のオーラは生命を奪い去る瘴気を思わせた。
彼女は一層力を込めていた。彼女の腕の血管が浮き出ている。
しかし、奴の腐食とでもいうべき抵抗を食い留めることはできない。
「それなら枯れるより先に新しく生み出せばいいだけです」
新たに地面より這い出たツタ状の植物が奴に襲い掛かる。すでにその全身はツタに覆われ見えないほどだ。
一方で、ヴィジーの腕はその血管が破裂し、大量の血を滴らせていた。足もふらついている。このままじゃ彼女の身が持たない。そう思うと俺は自然と立ち上がっていた。
まるで見透かすように彼女が叫ぶ。
「防徒君はそこでじっとしていてください」
振り絞られるヴィジーの声を聞いて、俺は立ちすくんでしまう。彼女に駆け寄っても何もできないという無力感が立ち止まるための言い訳を繰り返していた。
「な、うそでしょ」
何重にも締め付けられた植物の隙間から奴の瘴気が漏れ出てくる。その後に続く光景をいやでも予想させた。
その想像通り、青々としていた強かなツルは乾ききった枯れ枝のように成り果て、奴はそれを内側から両手で軽々と破り裂いた。そして、溢れ出んばかりの瘴気をヴィジーに向けてうち放つ。
「ッ!」
彼女はその瘴気を正面から受け、吹き飛ばされる。俺はようやく彼女の下へ駆け寄った。
「ヴィジーさん!」
何とか膝をつき起き上がろうとしていた彼女を支える。
「わ、わたしは大丈夫ですから、ど、どうか防徒君は逃げて」
この期に及んで彼女は依然、俺の心配をしていた。
「何を言ってるんだよ!何であんたたちはこんなにボロボロになってまで俺なんかを守ろうとするんだ」
本心だった。ずっと疑問だった。何でここまでして彼女たちは俺を守ろうとするのか。ただの上司の子どもに過ぎない俺を……
「それは、あなたが防徒君だからですよ」
「意味が分かりませんよ!」
ふらつきながらヴィジーは立ち上がる。
「防徒君、これだけは覚えていてください」
ヴィジーは再び植物を呼び起こす。しかし、もはや奴の肉体に届く前に朽ち果て、枯れ枝を散らすだけだった。
「あなたは決して価値のない人間なんかじゃありません」
だが、ヴィジーは途絶えることなく奴に攻撃を繰り出す。
「もうやめてくれ!」
こんな俺を守ろうとしないでくれ。
俺は叫んだ。涙で濡れた頬をヴィジーさんの掌が優しく拭う。俺の涙と彼女の血液が混じった。
「大丈夫です、そのうち防徒君にも分かるときが来ます」
奴が剣を構えていた。瘴気を剣に纏わせて、その剣先はヴィジーを定めている。
その剣が下ろされれば彼女は死ぬ。俺はこのまま見ているだけなのか。身体を張って守ろうとしてくれた女性が殺されようとしているときにしてただ何もしないで見ているだけでいいのか。
……いやそれでいいわけがないだろう。俺は何を突っ立っているんだ。
手に握られていたヴィジーの銃を構えた。彼女が俺に託してくれた銃だ。照準を奴の身体に合わせる。この距離なら素人の俺でも当たるだろう。
引き金を引いた。銃声が俺の耳をつんざく。耳鳴りが頭痛を呼ぶ。反動で手首が折れそうだ。だが、俺は奴に弾が当たったのかを確認するよりも先に次の引き金を引いた。
「ふざけるな」
ふざけるな、ここで何もせずに見ていていいわけがないだろう。
「彼女にただ守られてるだけでいいわけがないだろ」
全ての弾を撃ち尽くす。やったか?……という死亡フラグも出てこなかった。
「……そりゃそうか」
何故なら奴は何ら動きを1つも変えることなくその場に立っていたからだ。弾が撃たれたことにも気づいていないのではないか。
いままでなんの努力もしてきていない人間がその場しのぎで立ち向かったくらいで何になるというのか。俺たちの敗北は俺が怠惰な生活を送っていたその時に決していたんだ。
こんなのに勝てるわけない。そう確信すると脱力した手から拳銃が滑り落ちるのを感じた。
『防徒、あなたは、生きて』
あぁ、俺はまたこの後悔を味わうのか。
奴は一歩、また一歩とこちらに近づく。俺たちの死は秒読みだった。
だが、1つ変化もあった。奴の剣先が俺に定められていたことだ。少なくとも彼女を守ろうとして死んだという空虚な称号を死の最中に獲れるという予想が無力な自分を醜く肯定しているようだった。
奴が歩みを止める。俺は奴の間合いに入っていた。奴が剣を構える。剣に纏う瘴気が刀身に凝縮していく。静寂。発砲の耳鳴りも消えていた。唯一、俺の心音だけが来たる死を予感し、大きく拍動していた。
奴の顔を覗き込む。やはり表情は窺い知れない。影を見ているみたいだ。
剣が振り下ろされた。
「ダメぇ!」
後ろに引かれる。俺の身体をめがけて放たれた剣の軌道の間にヴィジーさんの腕が差し込まれる。一瞬、奴と彼女の間にガラスのような膜を見た。これも彼女の魔法で障壁・バリアのようなものなのだろう。直感していた。
だが、奴の刃はその障壁を易々と打ち砕き、ヴィジーの腕を肩から切り千切った。
俺は尻餅をつく。眼前にヴィジーさんの姿が飛び込む。彼女はこちらを向き、微笑んでいた。
「最後に私を助けようとしてくれてありがとうございます」
彼女は涙を浮かべならが、満面の笑みで俺に感謝の言葉を紡ぐ。やめろ、やめてくれ。なんで俺なんかを守るために笑って死を受け入れられる。なんで最期にありがとう、何て口走れるんだ。そんな言葉を受ける資格は俺にはない。
「大丈夫、防徒君ならきっとやれます」
彼女は俺を励ました。意味が分からなかった。彼女を前にして自らの死を、奴から殺されることに抵抗もせずに、諦めていた俺に何ができるというのだ。
次の瞬間、彼女の身体は先の剣戟の軌道を辿って突き上げられた刃によって切り裂かれた。
「ヴィジーさん!」
彼女に駆け寄ろうとした時、足で何かを踏んだ。それは先の少女が使っていたナイフだった。俺はそれを手に取り、両手で握り締め、身体を引き絞るように奴に向かって突撃した。
剣を振り上げてがら空きになった奴の腹下に入り込む。しかし、その剣は奴の身体に入り込まない。鎧で防がれてるのか?俺は一度距離を取り、ナイフを逆手で持って奴の首元をめがけて突き刺した。どんな鎧をしていてもここは無防備だと思った。
だが、手ごたえがない。なぜだ。
困惑していると腹に鈍痛を感じる。そのまま俺は後ろに吹き飛ばされた。奴に蹴り飛ばされたらしい。内臓がつぶれる感覚、食道を駆け上ってきた血液を口から吹きこぼしながら地面を転がった。
腹を押さえ、這いつくばるように顔だけを上げる。目の前にヴィジーさんの顔があった。彼女の顔からはすでに生気が失われていた。その目元には涙の跡が残る。
「どうして彼女が俺なんかのために殺されなきゃならないんだ」
声は出ていなかった。血液が気道を埋めていたからだ。
俺の眼前に奴の足が踏み込まれる。奴は俺を見下ろしながら、その剣を俺に突き刺そうとしていた。奴の顔は依然として分からない。だが、さぞ憎々しい顔をしていることだろう。
奴を殺したい。だがそれ以上に誰も守れずに殺されるだけの自分が憎かった。なんの努力もしてこなかった自分を恨んでいた。
奴の剣が振り下ろされる瞬間、俺は意識を失った。