3.黒い犬(仮)と人形(仮)と不審者(確定)
状況を飲み込めないまま、カテリーナは呆然と巨大な狼を見つめる。
伏せの状態から起き上がった彼は、座り込んだままのカテリーナよりも大きい。精悍な顔つきの中、キラキラと美しい青紫色の瞳は鋭いけれど、どこか愛嬌があった。
しかし大きな口がパカリと開かれると、ギラリと光る鋭い牙の並んでいる。そしてその口が、カテリーナに近付いて来ていた。
食べられる!
そう思ってギュッと目を瞑って身を縮こませる。
しかしカテリーナを襲ったのは痛みではなく、生温かい感触。それから、頬周辺の濡れた感覚。
「え……? って、やめて。舐めるのやめて!」
「ワフ!」
ベロン、ベロンとカテリーナの頬を舐め回す狼の顔を押して止める。
ご機嫌に一声吠え、尻尾をブンブンと振り回す様子は昨日の子犬と同じだ。大きさは10倍以上に大きくなっているけど。
「えぇぇ~。どういう、ことなの……」
「ヴォフ!」
「えぇぇぇ…………」
途方に暮れるエカテリーナに、狼はもふもふと体を擦り付け、撫でろとばかりに頭を膝の上に乗せてくる。
どれだけ人懐っこいのだろうか。
現実逃避気味に大きな頭を撫でる。
これだけ大きな狼なのに、その毛は不思議ともふもふで柔らかい。昨日の子犬と同じだ。
大きくなった分、毛が伸びたようでふかふかの毛の中に手が埋まる。
もふもふ、もふもふ。
柔らかく温かな毛を無心で撫で続けていた。
「あなたの毛の色、真っ黒じゃなくて紫がかっているのね。夜の色、みたい」
「ワフ?」
「ふふ、綺麗よ」
「ヴォフ!」
光に当たって紫黒色に見える狼の毛の色は、まるで夜空の色だ。
微笑んで褒めると、物凄い勢いで尻尾を振っている。喜んでいるらしい。
美しく、不思議なこの狼はやっぱり言葉を理解している。
何より、一晩で10倍以上に大きくなったのだ。普通な狼な訳、ない。
ふぅ、と一つため息を吐く。
理解できない事実を理解することを諦めた。
この世界には魔物というモノも存在するのだ。きっと、この狼のその類なのだ。
それならば、仕方ない。
そう納得した途端に、カテリーナのお腹がギュルリ、と主張を始めた。
「……昨日の夜も食べてないもんね。そろそろ、市場も開くし、朝ごはんを買いに行くかな」
「ワフ!」
「あ……」
立ち上がったカテリーナの隣に、狼も並ぶ。
四つ足で立って、カテリーナの腰ほどの高さもある。後ろ足だけで立ち上がったら、カテリーナの身長も優に超すだろう。
そんな大きな狼が街中を歩けば、どうなるか。
間違いなく、大騒動だ。
「え~っと、あなたは、ここでお留守番しててくれないかしら?」
「ヴォフ!!」
「嫌ってこと?」
「ヴォフ!」
お留守番を断固拒否する狼に、カテリーナは途方に暮れる。
これだけ大きな体だと、無理やり置いて行こうとしても、多分カテリーナが負ける。
でも、こんな大型の狼は街中には連れて行けない。普通の狼だとしても問題だし、魔物だったりした場合は、カテリーナも捕まえられてしまう。
大抵の魔物は、人間を襲うものだから。
「うぅん。…………ねぇ、あなたって体の大きさを変えられるのかしら?」
「ヴォフ!」
「出来るんだ……」
ダメ元で提案をしてみたら、一声元気に吠えて狼は顔を縦に振った。
そしてスルスルと、大型犬程の大きさに縮んでくれたのだった。
「何でもアリなんだね……」
「ワフ?」
乾いた笑いを浮かべていると、狼改め、黒犬が心配そうに体を擦り付ける。
相変わらずもふもふ、ふかふかな毛を軽く撫で、カテリーナは首を横に振った。
「ううん、何でもない。じゃあ、行こうか」
「ヴォフ!」
目が覚めてからかなり時間が経ってしまった。ギュルギュルと大人しくない音を立てて空腹を主張するお腹を撫でる。
早く朝食を手に入れないと。
そう思って礼拝堂の扉を開けたのだが。
「え……?」
扉の直ぐ前に立っていた障害物のせいで、カテリーナは足を踏み出すことも出来なかった。
あまりにも近くに存在するソレを一歩下がって見上げる。
扉の前を塞ぐ、全体的に黒い障害物。
障害物、は背の高い男だった。
全身をフード付きの漆黒の外套で覆い隠し、顔も鼻から上を精緻な飾り彫りが施された銀色の仮面で隠している。そしてその腕には、真紅の髪が印象的な、美しいビスクドールを抱き抱えていた。
紛れもない、不審者だ。
ギョッとして硬直するカテリーナに、温度のない白藍色の瞳が一瞬向けられた。しかし何か声を掛けることもなく、男は悠然と礼拝堂の中へと入っていく。
それが、当たり前の行動だというような雰囲気だった。
しかし、どう見ても不審者だ。絶対、近隣の住人でも、この礼拝堂の関係者でもない。
慌ててカテリーナは後を追った。
黒犬も、カテリーナを守るようにピッタリと寄り添い、不審者に警戒をしている。
今のカテリーナにとって唯一の拠り所である礼拝堂を荒らされでもしたら困るのだ。
「ちょっと!」
「貧相でマリー様にはまったくもって相応しくない場所だが、掃除は一通りされているな。まぁ、及第点だろう」
礼拝堂の中に視線を一巡りさせ、ひたすら失礼な事を零した男は、気の乗らなそうな様子でため息を落とす。
そして礼拝堂の中、ステンドグラスからの光が降り注ぐ場所に、どこか恭しい様子でビスクドールを降ろした。
光を浴びたビスクドールの金色の瞳が、とても鮮やかだった。
「マリー様」
「ふふふ、ありがとう。ヴィクトール」
「っ!?」
「ふふ、驚かせたかしら?」
美しい艶のある声が響く。
男の低音じゃない。どこか色気を感じる、女性の声だ。
信じられない、と思いながら床に降ろされたビスクドールを見つめると。
「はじめまして、お嬢さん。逢いたかったわ」
つるりとした硬質な頬を笑ませ、ビスクドールが美しいカーテシーをしてみせたのだった。