22.森の誓い
領主館で暮らすことになって数日。カテリーナは再び瀕死の状態となっていた。
「ううう……、お勉強つらい…………」
「わふ……」
「うん、ノクスありがと……」
長椅子に腰掛けたカテリーナの膝の上に差し出された犬姿のノクスの頭を無心で撫でまくる。
紫黒色のふかふかの毛は癒し効果絶大だ。
もふもふ、もふもふと頭から背中に掛けて撫で続けるうちに、カテリーナの干からびた心が少し回復する。
「はぁ……。行儀作法はある程度出来るようになったからって、今度は国内情勢詰め込まれるなんて」
「わふ」
長椅子の上に立ち上がったノクスが励ますように頬を舐めてくる。
そのあたたかい体をギュウと抱き締め、カテリーナはぶちぶちと愚痴を言い募っていた。
芸術祭でカテリーナが王女とお披露目されたら、間違いなく様々な貴族から接触があるという。
芸術祭当日にある舞踏会は勿論、その後にはきっとお茶会などにも招待されるだろう。そういった場にマリーは参加できないから、カテリーナ自身でうまく立ち回らなくてはいけない。
そのためには敵味方の情報は勿論、最近の情勢を理解している必要があるというのだ。
流石に海外の賓客と会うことはないからと国内だけが対象だし、短期間ということで歴史的な話もかなり省いてくれているらしい。それでも伝統的な対立などもあるから一部歴史の含まれている。
正直カテリーナは幼いころから歌ばかりやっていて、勉強は最低限の初等教育しか受けていない。
だから貴族の勢力図とか歴史的アレソレとか全く知らないし、知識を詰め込まれるのは苦痛でしかなかった。
さらに。
「…………領主館で匿ってもらっているから仕方ないとはいえ、歌もほとんど歌えないのがなぁ」
「……そうだな」
「っ、ノクス!?」
ポフン、いう音を立てて急にノクスが人の姿になる。
犬のノクスの首に抱き着いていた状態だったから、目の前には褐色の逞しい首筋が現れた。慌てて離れようとしたけど、逆にぎゅうと抱き締められてしまった。
背中に触れる大きな掌に、ドキリとした。
「ちょっと、ノクス! 誰か来たら……」
「夕食までもまだ少し時間があるんだ。誰も来たりはしないさ」
「でも……」
「それよりもカテリーナ」
全く聞き入れる様子のないノクスが少し体を離す。
美しい青紫色の瞳がカテリーナの顔を覗き込み、優しく頬に手を添えられた。
「少し、目を瞑ってくれないか?」
「なんで!?」
「そう警戒するな、不埒な真似をするわけではない」
今の体勢に思わず背を仰け反らせると、ノクスが少ししょんぼりしてしまった。頭の上には伏せられた犬耳が見えた気がする。
「う……、ごめん」
「いや。俺も説明が足りないな。少し、気晴らしに行かないか?」
「気晴らしに?」
「ああ。夕食の時間までには戻れる」
一体どこに行くのか、とかどうやって行くのかとか分からない。
けれど前会ったヒプノスも急に姿を消したりしたのだ。きっと魔族の不思議な力を使うのだろう。
小さく頷いてカテリーナは目を瞑る。
ぎゅうとノクスに強く抱き締めれた、と思った時には周りの空気が凛と澄んだ冷たい物に変わっていた。
「もう目を開けて大丈夫だ」
「わぁ、きれい……!」
耳元でノクスに囁かれ、目を開けたカテリーナが見たのは。
遠く遥か先に見える水平線を真っ赤に染め上げ、沈みゆく夕陽。そして薄闇に沈み始め、ノクスの瞳のような美しい青紫色に染まった空。
ノクスの腕の中に抱き上げられているが、2人の下にはどこまでも続く深い森。
闇に沈みつつある広大な森の上空に居たのだ。
「ここは……?」
「あの国の最北端。人間は魔の森、と呼んでいる場所だな」
「魔の森って、確か魔族の生まれ故郷って言われている場所?」
「人間たちはそう言っているな。正確には、森の眷属の生まれ故郷といったところだがな」
「森の眷属って、ノクスとはまた違う魔族の王の眷属っていうこと?」
「ああ。前にマリーが言っていた、人間の王と協定を結んだ”森の王”と呼ばれる魔族の系譜だ。アレは森を司る者だからその配下は大抵ここで生まれる」
グランシエル王国の王族がかつては魔族に攫われたり食べられたりしていたが、森の王と協定を結ぶことで襲われなくなった、という話だ。
最近マリーから教わった話だと、魔の森に居る幼い魔族に手を出さないことを条件に王族を襲わないという約束を交わしたのだという。そういった背景で魔の森が魔族の生まれ故郷、と思われていたのだけれどどうやら正確には違うようだ。
人間が知らなくていいようなことを聞いた気がする。
曖昧に笑っていると、ノクスが小さく首を傾げた。
「どうした? 寒いか?」
「あ、ううん。寒くはないよ。ノクスが守ってくれているの?」
「ああ。人間にはこの時期のこの場所は堪えるだろうからな」
すりり、と頬を撫でられる。
グランシエル王国の北側は全て魔の森だった。そして魔の森は大陸の北端まで続いているのだ。
水平線が見えるこの場所はノクスの守りがなければかなり寒いはずだ。だけど澄んだ空気は感じても凍えるようなことはない。
そっとノクスに身を寄せる。
「~~~~♪」
口ずさむのは、よく母と一緒に歌っていた曲だ。
優しく、どこか切ない美しい旋律。
かつては拙いカテリーナの歌声に母の歌声が寄り添ってくれていた。今は、歌声はカテリーナ一人分だけだけど、守り寄り添ってくれる存在が居る。
そのことが母に伝わればいい。
そんな想いを乗せて歌い切ると、ノクスがぎゅうと強く抱き締めてくれた。
「カテリーナの歌ならばどれ程離れていても聴こえる。どこに居ても、必ず駆け付ける」
「ノクス……?」
「だから、俺の側に居てくれ」
真っ直ぐにカテリーナを見つめる青紫色。その奥に熱を隠し告げるノクスは、出会った瞬間からずっと変わらない。
そしてカテリーナにとっても、彼が側に居てくれるのがいつの間にか当たり前になっていた。
それが愛なのかは分からない。
でも。
「…………うん」
自分を支えてくれる力強い腕に身を任せ、カテリーナは静かに頷いたのだった。