1.追い出された少女と勝ち誇る悪女
「カテリーナ、今すぐここを出て行け!」
その言葉と共に、丸々と太った手でカテリーナは乱暴に裏口から押し出される。
突き飛ばされ、狭い路地に尻餅をつく彼女の横に、乱雑に古びたトランクケースも投げ出された。
「テド小父さん!? どうして? 今夜の公演だってあるのに!」
「もう小父さん、なんて呼ぶな。母親の才を引き継いでいるかと今まで置いてやったが、大した才能もない。これ以上、うちには必要ない!」
「そんな、ひどい……!」
生え際が不自然な金色の髪を必死に撫で付け、テドは鼻息荒くカテリーナを見下ろす。
灰緑色の目には、罪悪感や優しさの色は欠片もなかった。
「酷いなんてことあるものか。エリオットはアンゼリカ様との結婚が決まったんだ。お父君はこの歌劇場の支援も約束してくれている。アンゼリカ様の不興を買うようなことは出来んのだ。我々のことを思うなら、お前は大人しくここを去ってくれ」
「そんな…………」
「…………カテリーナ」
「エリオット」
テドの横から出てきた淡い金髪を持った繊細な雰囲気の美青年――エリオットがそっとカテリーナの右手を握った。幼馴染の彼は、カテリーナの掌に何かを押し付ける。
「ごめん。僕には、これくらいしか出来ないんだ……」
「エリオット何をしている! もうすぐアンゼリカ様が来るんだぞ」
「分かってるよ!」
エリオットをは緑色の瞳を伏せたまま、決してカテリーナと目を合わせようとしなかった。
気の弱い彼は、父親であるテドには逆らえない。急かすテドの声に慌てて立ち上がった。
けれども直ぐには戻らず、おどおどと視線を彷徨わせる。
そしてやっぱり目を合わせないまま、小さな声で告げた。
「…………カテリーナ、元気で」
「っ、……………………」
何も言葉は返さず、唇を噛み締めるカテリーナを見て、エリオットは眉を下げる。
しかし彼もそれ以上は何も言わず、歌劇場の中に戻っていく。そしてエリオットが中に入ると、扉が乱暴に閉められた。
ガチャン、と鍵を掛ける重い音も残酷に響く。
歌劇場から、完全に捨てられた。
それを思い知らされるような音だった。
ほんの少し前までの騒ぎが嘘のように、路地はしんと静まり返る。
薄暗く冷たいそこに一人取り残されたカテリーナは、そっと右手を開いた。エリオットに何かを押し付けられたそこには。
一枚のメモと、古びた一本の鍵。
「元気でって…………。こんな仕打ちうけて、これだけで……。元気で居られるわけないじゃない!」
ぐしゃり、とメモを握り潰し、カテリーナと一緒に捨てられたトランクケースに右手を叩きつける。
突き飛ばされた時に擦りむいた右の掌が、ズキリと痛んだ。
さっきエリオットが渡してくれたメモと鍵。それと、勝手に荷物を詰められたトランクケースが一つ。
それがカテリーナに残された持ち物の全てだった。
今は亡き母との思い出の品も、ほとんど入っていない。
込み上げてくる涙を必死に堪え、とにかく立ち上がる。
こんなことで泣いてやるものか。
歯を食いしばり、細く息を吐く。
さっきまで舞台のお稽古だったから、着ているのは古いワンピースたった一枚。街を歩くには少し恥ずかしいけれど、ここで着替えるわけにもいかない。
薄汚れた路地に尻餅をついたせいでまた少し汚れてしまったスカートを払い、薄茶色の髪の毛を一つにまとめる。
これから移動するのに、長い髪の毛を下ろしたままでは邪魔でしかない。
そしてトランクケースを持ち上げた。
「……出て行ってやるわよ、こんなとこ!」
琥珀色の瞳で歌劇場の石壁を睨み付け、路地の出口へ向かう。
わずかな荷物だけど、それなりの大きさがあるトランクケースはなかなか重たい。
両手で抱えて、薄暗い路地から大通りへと出ると――。
カテリーナが居る場所の少し先。劇場の正面玄関前に丁度、立派な馬車が停まっていた。
そしてその馬車から、宝石がいくつも縫い付けられた豪奢なドレスを身に纏った、黒い巻き髪の女性が馬車から降りてくる。
アンゼリカだ。
午後の陽射しを浴び、煌びやかな宝石と美貌を輝かせた彼女はコツリ、とヒールの音を高らかに響かせる。
そして迎えに出たテドとエリオットに向けて、鮮やかな紅色に彩られた唇を艶然と笑ませる。
しかしその青い瞳は一瞬、カテリーナを捉えていた。
あの笑みは、エリオットたちへ向けたものじゃない。
カテリーナに向けたものだ。
自身の勝利を誇り、敗者のカテリーナを嘲笑うものだ。
くたびれ、薄汚れたワンピースで歌劇場から追い出されるカテリーナと、煌びやかなドレスを纏って歌劇場に迎え入れられるアンゼリカ。
あまりにも対照的で、惨めな気分になるその場から。
カテリーナは、唇を噛み締め、逃げるように立ち去ったのだった。