プロローグ
『ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです』
宮沢賢治という昔の作家が書いた銀河鉄道の夜という小説中の一節。
十歳を少しだけ過ぎた頃に私、天野幸はその一節に出会い、それからずっと一つの悩みを抱き続けていた。
一番の幸とは何なのだろうか。
本当に幸せになるために悲しいこと辛いことが必要なのだろうか。
そもそも辛く悲しいことを経た上で得る幸せは本当に幸せなのだろうか。
銀河鉄道の夜では物語のラストで主人公は一番の親友が亡くなっていたことを知る。
親友を亡くした先に主人公――ジェパンニは一番の幸を得ることはできたのだろうか。
仮に幸せになれたとしてそれは一番の幸なのだろうか。
だって大切なものをなくしているんだ。
私だったら、悲しみの果てに得る幸せは幸せだと思えない。
悲しいのは嫌だ。何かをなくすのは嫌だ。
例えその先で幸せになれたとしても、これまでの悲しみとは打ち消せない。私はきっと悲しみを引きずって生きていく。
きっとその生き方は幸じゃない。
幸せとは一体何なのだろうか。
私には、分からなかった。
幸が何かが分からない私は、きっと幸せにはなれないのだろう。
それが誰にも理解されない私の悩み。
お母さんに話しても友達に話しても、考えすぎだと笑われるだけ。
次第に私はこの悩みを誰かに話すことはしなくなった。
それどころかあまり人と話そうとはしなくなり、他人とは距離を置くようになった。
煩わしくなったのだ。誰も私の悩みを理解してくれないことが。
面倒くさくなったのだ。理解もされないのに人と話すことが。
中学生にあがる頃には友達は全くと言っていいほどいなくなっていた。
それでいいと思っていた。
誰も理解してくれないなら、一人でいる方がいい。
元々、本を読むことが好きで一人でいる方が楽だと思うような根暗女だったため、友達がいないことは苦には思わなかった。
そう、思っていた。
「貴女と私、おんなじ幸せだね!」
中学生になって一週間くらいが経ち、だんだんとカーストに沿って仲良しグループが出来上がってきた、そんな頃合いに。
一人の女子が私に突然話しかけてきた。
「同じ……?」
「うん! 幸さんでしょ? 私はね、幸乃っていうの!」
「……ああ、漢字が同じってことね」
私は突拍子もなく話しかけてきた彼女を冷ややかな目で見つめる。
幸せなんて言葉を使うからドキッとしたが、なんてことないただの会話の枕。
「それで何かご用、幸乃さん?」
「えへへ、幸さんとお話してみたくて」
「そう。私は別に話したいことはないけど」
「つれないね〜」
彼女は邪険にされているということを分かっているのかいないのか、にへへと間の抜けたみたいに笑うと空いていた椅子を引っ張ってきて机を挟んで私の向かいに座った。
「幸さんはいつも本を読んでるけどどんなの読んでるの?」
「……あなた無茶苦茶ね。空気読めないでしょ」
「それが私の美点ですので」
胸を張って言う幸乃を見て、呆れてしまいため息が漏れた。
それと同時に内心では少し驚いていた。
私がこうしてぞんざいな対応した時の反応は三つ。
怒って私から離れるか、ドン引きして私に二度と近づかないか、稀にだが泣きながら私を責めるなんてこともあった。
こうして会話を続けようとするのは初めてのことだった。
「で、どんな本読むの?」
「……今読んでるのは――――」
自分でもどうして彼女と会話しようと思ったのかは分からない。彼女との会話もこれっきりで二度と関わることはないと思ってた。
けれど、彼女との会話は私が思っていたよりも心地よく。
なにより、よく笑う幸乃の柔らかな表情を見ていると何故だか心がぽかぽかと温かくなるのを感じた。
その日から幸乃は気づけば私の近くにいて。
いつの間にかそれが当たり前になっていた。
幸乃はよく笑ったし、私もその笑顔を見て嬉しくなった。
幸乃は私に初めて笑顔を見せた日からずっと私の側にいてくれた。
だから気づけた。
心がぽかぽかと温かくなる理由が。
幸乃の笑顔を見て嬉しいと感じる理由が。
私は幸乃と一緒にいると幸せだったのだ。
気づいた瞬間、数年間抱えてきた疑問が一気に綻んだ。
幸乃といることが私の一番の幸。
幸乃が私の一番の幸。
私だけの一番。
――その時の私は幸乃が側からいなくなるなんて欠片も思いもしなかった。
一部 宮沢賢治著 銀河鉄道の夜より引用