「我が名を呼ぶもの」
「束帯とはなんと便利なものか。のう。」
昼時に戻られた主はにっこりと笑いながら、鏡にお姿を映しておられる。
宮廷からの帰りはいつも、何かを心にお隠しになりながら、いつも通りの笑顔で、鏡の前にお立ちになる。
今日の主も、いつもと同じだ。
そして、お言葉とは裏腹に、手荒く漆黒の衣を脱ぎ捨てる。
これもいつもと変わらぬ一連の動きである。
我が主は、その類まれなる才覚と大胆な言動ゆえに、「喰えない」御方として名を馳せてしまった。
また、主には、呼び名も含めてたくさんの名前が広まってしまっている。
最も有名なものは、安倍晴明ではなかろうか。
この名は、主も私も一番気に入っている名である。
「束帯があれば、この清明までもが、真っ当な人間に見えるではないか。」
そうだろうか。
そこに関しては同意しかねる。
主の抜け殻と化した漆黒の束帯を拾い上げながら、どう返事をしてよいものか考えてしまった瞬間、主の口許は緩んでいた。
主の変化に気づいたのは、ほんの一瞬遅れただけだったのだが、既に遅かった。
主にはすべてお見通しである。
「なんだミヤマ、清明はどうやってもおかしな人間だと申すか?」
「いえ、決してそのようなことはございません。しかしながら清明様。」
話をそらせたいわけではない。
ただ、お仕えしている身でありながら、話題を変えてよいものか迷うのは、私だけではないはずだ。
「どうした、思っていることはなんでも話して良いのだぞ?」
「その・・・私の名を簡単にお呼びいただくのはお控えいただけませんでしょうか。」
「どうしてだ。」
何を今更に、とでも言いたげなお顔をなさっておられるが、「人ならざる存在」である私にとって、名前を呼ばれるというのは、永遠の忠誠を誓う意味を持っている。
言霊の真の力は、それほどまでに強い。
それも、主ほどの力を持つ人に自らの名前を呼ばれるというのは、私の心の臓を差し出しているのと同じである。
それなのに、主はいとも簡単に私の名をお呼びになる。
「ミヤマ、言霊の強さを侮るでないぞ。」
「どういうことでしょうか?」
主の真意がわからないならば、その意味を教えていただきたいと思うのは道理であろう。
私もまた、その道理に逆らうことなくお聞きしてみたのだが、主が言葉を発しようとしたのを辞める出来事が起きてしまった。
だんだん大きくなる足音。
眉間につい力が入ったのを、主は見逃して下さらなかった。
「どうしたミヤマ、顔が怖いぞ?」
さも愉快そうに笑う主を前にしても、私の心中は、太陽のような晴れやかなものとはいかないのだ。
そうこうしているうちに、足音はすぐそばまで近づいてきた。
間違いない、この足音の主は、私の一番の悩みの種の人物である。
時の御方、藤原道長だ。
「来たよー!清明は帰っているんでしょ?ねぇねぇ清明!」
「道長は相変わらず騒がしいな。」
いつもながら、私の知る藤原道長という男は、都じゅうで「凄腕」と評判の人物像とは程遠い。
現に、これまで主の悪戯にはまったく気が付いておらず、あっさりとひっかかっているのだ。
この男の一体どこに「権力を一手に握る力」があるのか、私にはさっぱりわからない。
「道長が来たことは、ずっと前からわかっておる。のう、ミヤマ。」
時の御方は、主のいるところに一直線にやってくるため、私も主の御傍を離れずに客人にご挨拶をさせていただく。
使用人が客人を出迎えぬ、などということは、他の館ならばあり得ないだろう。
まして相手は藤原道長だ。
あっさりと斬り殺されるであろう・・・噂通りの人物像ならば、の話だが。
私の知る時の御方は、都で噂される人物とはずいぶんかけ離れておられる。
私が主の隣に立ったまま会釈をするだけでも、この御方は満面の笑みで歩み寄り、使用人である私の名前をお呼びになる。
「おっ、ミヤマもここにいるのか!」
「道長様、本日もご機嫌麗しいとお見受けいたします。」
「ご機嫌麗しくなんかないよ!ミヤマは意地悪なの!?」
「そうではないのだ。ミヤマは少し機嫌が悪いのだ。」
「えっ、そうなの?なんでなんで?」
「このミヤマは名を呼ばないでほしいそうだ。」
「えぇー!どうして!」
主が私の名をお呼びになったのは、間違いなくいつもの悪戯だ。
高笑いをする主の顔を見ればわかる。
私の話などなさらずに、ご友人との語らいをお楽しみになればよいものを、主と時の御方はいつもこうして私を巻き込まれる。
「道長様、お席のご用意をさせていただきます故、失礼させていただきます。」
客人の質問に答えずに退出していくなどと、他の館の主が知ったらどんな反応をするか。
何度も繰り返すが、相手は時の御方であればなおさらである。
それでも、我が主はおとがめにはならない。
私が「人ならざるもの」で、主と定めた者以外の人には心を開かない存在だと、主はご存知であるからだ。
御二方のお好きな場所でお話になるのだろうと思い、いつもの場所にお席を用意しながらふと思った。
時の御方は「ご機嫌麗しくなんかない」と言っていたが、何かあったのであろうか。
都の噂とは違い、私の知る時の御方は、機嫌の悪い日はなかなかない。
お酒をお飲みにならない時の御方に、こういう時は何をお出しすればよいか・・・。
思い立つにはそう長い時間はかからなかった。
藤原道長ほどの公達が長い時間をかけてようやく得た「宝玉」が、私に分けてくれたものがあるではないか。
教わった通りの手順で用意をし、お席に運ぶ。
案の定、御二方はいつもの場所で、いつものようにお座りになられている。
そして、教わったようにおもてなしを始めると、主は強く興味をお示しになられた。
「ミヤマ、これは?」
「道長様の『奥方様』より頂戴いたしました、唐のお茶にございます。」
主とは対照的に、時の御方は口を思い切りとがらせ、幼子のような拗ねた表情になってしまわれた。
てっきり、時の御方の最愛の奥方様からいただいたものであれば、けろりとご機嫌になられるとばかり思っていたのだが、今日はどうやら違ったらしい。
「清明だけじゃなくて、ミヤマも仲良しなんだね?」
「仲良しとは、何のことでございましょう?」
「なんだ道長、何かあったのか?」
「何かあったのか、じゃないでしょ!清明も一緒に隠し事してるでしょ!」
なるほど、時の御方は主に話を聞こうとして、やってこられたのか。
ふと主を見ると、主は話の内容をおわかりのご様子である。
その証拠に、主はあぐらを崩してさらにくつろぎはじめた。
「なんだよ・・・みんなも隠し事して・・・」
今度は表情だけではなく、佇まいや葉遣いまでもが拗ねてしまわれたようだ。
こんなご様子の時の御方は初めてだ。
ほんの一時の静寂が流れた。
いつも賑やかにお話になる御二方の間に、静寂の時が訪れることなどあっただろうか。
この状況の方が、私にはよほど対処に困る。
しばらくすると主が、パチン、パチン、と音を立て始めた。
ふわりと香りもする。
この香りはどこかで・・・あぁ、どこだったろうか・・・。
「道長が赤子のように拗ねる時は、だいたい奥方のことなのだよ。ミヤマも覚えておくといい。」
「清明様、あの・・・。」
「わかっておる、この清明にできぬことはない。今から特別に、道長を上機嫌にしてみせよう。」
主はそうおっしゃると、部屋の奥に置かれた塗箱を自ら取りに行かれた。
あのような場所に、塗箱などあっただろうか?
主のご様子をご覧になっておられる時の御方は、確かに赤子のような幼さにも見える。
膝を抱えて座り込み、小さく丸くなってしまわれた。
都で流れる噂で、時の御方には数多の女性関係をお持ちだというものがある。
しかし、これは相手側が流しておられるだけで、時の御方は相手の女性が恥をかかれぬよう、少し援助をされているだけのことだ。
時の御方は奥方様ただおひとりだけを大切になされている。
ただ少しだけ、愛情が強すぎるが故に、奥方様は時の御方を・・・足蹴にされることがあるのだ。
そんな様子を、都の人が知ったらどうだろう?
ある時、主は私にそう問いかけられたが、主と私の答えは同じだった。
きっと信じてもらえないと。
そうこうしているうちに、主は塗箱の中から細長い箱を取り出した。
先ほどからふわりと香りがしていたのは、この箱だったのか。
「道長、開けてみなさい。」
「何これ。」
「奥方がどうしても頼みたいと仰って、ミヤマに唐まで行ってもらったんだが、まぁ色々とあってな。」
「ふぅん?」
怪しみながらも開ける時の御方の手にあるものが何なのか、ようやくわかった。
だがしかし、私が用意したものとは少し違ったような・・・。
「これ女性用じゃないの?」
確かに、これは女物であると確かめてご用意したもののはず。
白檀の扇で、藤の花の透かし彫りが入っている。
しかし、ついていた房などが違っている。
「実はな、ミヤマにどうしてもと頼んで用意させた扇なのだが、実際のものを見た奥方が、道長に似合うのはこちらだと思うのだがどうすればよいか、この清明に相談されておられたのだ。」
「へ?」
「白檀の風合いは、奥方よりも道長の方が似合うと思われたのだよ。だがしかし、女物の扇を道長に持たせるわけにはいかぬ、と。そこで、扇に見合う男物の飾りを選んでほしいというご相談だったんだが、どうやら道長は妬いてしまったようだね。」
愉快そうに笑う主を、ぽかんと見る時の御方。
よほど面白かったのだろう、大きなお声で笑っておられるのだが、私には疑問が残った。
扇は二つあったはずだ。
白檀の扇は、奥方様がお持ちになりたいとおっしゃって探したもので、もうひとつ、時の御方のために探したものがあった。
それに、奥方様からではなく、なぜ主がお渡しになっているのであろうか。
扇をじっと見つめていた時の御方が、扇を開き、透かし彫りの模様をご覧になられたとたんに、表情が明るくなられた。
唐で見た劇に出ていた演者の面の早変わりにも負けぬ速さで、これでもかと拗ねたお顔が、満開の牡丹のような笑顔に変わられたのだ。
「ミヤマー!ミヤマ、唐まで行ってくれたんだね!ありがとう、本当にありがとう!」
「いえ、私には造作もないことでございます故、そのようになさらずとも・・・」
思わず言葉を飲んだのには理由があった。
私の目の前に、細長い箱が差し出されたのだ。
この箱にも見覚えがある。
「道長、これは本当は奥方が道長のためにと用意させたのだが、実物を見て、ミヤマに似合うからと仰せになってな。せっかくだから、道長も一緒に見てみぬか?」
「うん!見てみる!」
「しかし、清明様、道長様、私がこのような高価なものを頂戴するわけにはまいりませぬ。」
「いいの!ミヤマ、早く開けてみて!」
時の御方が私のそばまで近寄られては、お断りのしようもない。
箱を静かに開けると、螺鈿細工の美しい扇が出てきた。
やはり、私が探してきたものだが、これまた房の色が違う。
こんなに華やかではなかったはずだ。
「奥方が、螺鈿の色はミヤマのようだとおっしゃって、ミヤマに似合う房を探しておられたのだよ。」
「綺麗!まるで蝶々と色とりどりの花みたいだね!」
時の御方の御言葉に、思わず息をのんだ。
確かに、時の御方にも私の「本当の姿」が見えている。
主ほどではないにしても、かなりはっきりと見えていると、主がおっしゃっていた。
「本当の姿」を、奥方様はご存知なのだろうか?
時の御方のおっしゃるように、烏揚羽の羽根のような色合いの扇と、百花が入り乱れたような色とりどりの房は、私のような使用人が頂戴するのは非常にもったいないと思う美しさである。
「奥方からミヤマに頼みがあってな。」
「なんでございましょう?」
「この螺鈿の扇を持って、藤の花の祭りで舞ってほしいそうだ。ミヤマの女舞は人気があるそうだよ。」
「それは素敵だ!ぜひお願いしたい!ミヤマお願い!」
「かしこまりました。」
だから名を呼ばれたくなかったのだ。
時の御方も、私の名を呼ぶ時に、「見えぬ力」を使ってしまわれるからだ。
御二方から名を呼ばれては否とは言えず、あっさりと応とするしかないのだ。
「それはそうと、道長。奥方のところへ帰らなくてもよいのか?」
「すぐ帰る!ミヤマが舞ってくれることも伝えるね!二人ともありがとう!」
来た時よりも大きな足音で、あっという間に去ってしまわれた。
唖然としている私と、笑いを堪える主の目が合った。
当然、主は笑いを堪えられるはずもなく、再び大笑いになった。
涙を浮かべるほど笑ったあと、主は私をご覧になって、優しく話しかけられた。
「ミヤマは気が付いていたか?道長はいつも、奥方の名を呼ばないだろう?」
「・・・そう言われてみれば、確かに。」
「あれはな、奥方を愛おしむあまりに、他の男が奥方の名を呼ぶのを嫌がるのだよ。だから、この清明の前ですら、奥方の名を呼ぶことは滅多にない。だがしかし、考え方はそれぞれある。」
「と、おっしゃいますと?」
「ミヤマの美しさを、この清明が独り占めするのはもったいなくてな。皆がミヤマの美しさを知ってくれたらと思うから、あえて名前を呼ぶのだよ。」
言霊の力を侮るな、か。
今まさに、私は主への強い忠誠を誓うのであった。