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♥9

 そこからはよく覚えていない。

 原稿は受け取っていたから、なんとかやり過ごしたのだろう。戸樋の青ざめた顔はなんとなく記憶に残っている。

 

 深夜一時、嘉代子は就寝の準備をした。執筆した文章は一晩寝かせるのが彼女のルールだった。夜に書いて、朝見直す。時間を置いて文を冷静に読むことで見落としや適切な表現が見つかる。


 しかし、それと違って人間関係は一旦落ち着かせることが難しい。会話は言葉のキャッチボールとはよく言ったものだ、即座にキャッチして投げないと成り立たない。思いもよらない言葉が感情によって押し出されてしまうのだ。


 そして現に、それに頭を抱えている。


「ねえ嘉代子、あいつと会ったでしょ。どういうつもり?」


「あいつ?」


「砌原だよ! 知ってるんだから」


「ああ……」


 ドレッサーとベッドしかない寝室で、セイラがきつく嘉代子を見詰めた。家から一歩も出ない癖に、なぜバレバレなのだろうか。嘉代子は目を泳がせた。


「仕事でたまたま、ね。確かにセイラの言うとおりヤバそうな奴だったよ」


「でしょ? じゃあもうあいつとは関わんないでね」


「……いや、一言も話さないとかは無理だよ、仕事だし」


「駄目!」


 セイラはぎゅっとクッションを抱きしめた。依然としてきつい表情で嘉代子に迫る。今にも金色の髪が逆立ちそうだ。


「嘉代子がそんな目に遭うのが嫌なの。絶対に駄目」


 思わずため息が出た。嫌だからと言って身勝手な振る舞いはできない。

 仕事上の都合や嘉代子自身の人となりも世間に測られる。簡単ではない、当たり前だ。


「さすがにできないって。気を付けはするけどさ」


「でも駄目。ねえ、嘉代子を思って言ってるんだよ」


 強情な女め。彼女はこうなると厄介だ。今までだって、どっちが冷蔵庫のプリンを食べたとかくだらない諍いがあった。

 こういう言い方は正直したくはないが、何もできないニートが仕事に首を突っ込まないでいただきたい。

 

 何も知らない癖に、所作のひとつひとつが仕事に影響するだなんて想像すらしていないのだろう。

 そして嘉代子も思わずかっとなってしまい鬱憤を漏らしたのだ。


「あたしを心配してるのはわかるよ。だけどさ、できることとできないことがあんの」


「でも……!」


「そもそも、セイラはどうやってそんな情報を手に入れてるの? インターネットでしょう。真偽のわからないものに目を光らせて、それで『世の中を知ってます』って顔するでしょ」


「……」


「知ってるなら職のひとつ、持ってみれば。画面の文字だけ追って何がわかるというの、こんな寝室で」


 嘉代子は淡々と言い放った。叫んだり怒鳴ったりするのは好きではないのだ。それでも、頭に血が上っていたことは否めなかった。

 セイラは黙ったまま、嘉代子を睨んだ。


「……あたしは今日リビングで寝るから。じゃあね」


 嘉代子は振り返らずに、寝室を出てしまった。

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