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「覚えててくれたんですか! 嬉しいなあ」
砌原は意気揚々と嘉代子の向かい側、戸樋の隣に座った。
「お前、嘉代子さんと知り合いだったのかよ! すみません、どうしてもって聞かなくて」
「大丈夫ですよ。編集部の方でしたっけ」
「そうですそうです! 先生の作品は全部読みました! 今年こそ紺珠を獲ってほしいなあ。僕なんかじゃ審査すらさせてもらえないですから」
砌原はまくしたてるように語った。彼の飛んだ唾がコーヒーに入ってしまうような気がして、嘉代子はカップを奥に引いた。
「へえ、あたしの作品全部を? どれが一番好きだった?」
戸樋が原稿の入った封筒たちを出し終わるまでに、なんとか場を繋いだ。
「『飴と無知』ですかね。ほら、あの援交少女の」
ああ、と嘉代子は思い出した。ドラマにもなった有名作品だった。
女子校に通う一人の生徒が援助交際にハマっていく話だ。母子家庭で男という性に飢えていたのが要因の一つだった。
あるとき彼女は一人の男との交際を続けていく。幾度となく体を重ね合わせていくが、のちにその男が母親の離婚相手、つまり実の父親だったことを知る。
結果的に、少女は自殺する。汚れ切ってしまった体と、父性への憧れと共に砕け散った。そんな話。
「僕、今まで小説読んでてエロいと感じたことなかったんですよ。官能的な部分はあれど、男の妄想じみてて、なんていうか、『ちゃっちい』」
砌原は一呼吸置いて、カップに口を付けた。苦かったのか、ガムシロップを入れながらまた喋りだした。
「でもこの作品は違う。なんたって作者が女性! きっとこれが女のリアルなんだと感じました。それで思いましたよ、うん、エロい! って」
「はあ……なるほど」
つまり彼はこう言いたいのだろう。「女が性的な描写をするなんて興奮する」と。別に何も珍しくないのに。ため息が出そうな感想だった。それって、作品よりも作者に焦点を当ててるじゃない。
とはいえ読者のあれこれを作者がとやかく言うのもどうかと思ったから、嘉代子は黙って彼の話を聞いた。
「ならば、嘉代子先生ご本人もそういうことをしたんだろうなあって思ったんです。実際どうなんですか? 援交してたんですか?」
「はっ?」
思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。戸樋も原稿をめくる手を止め、砌原を見た。おいおい、何を言い出すんだ、みたいな顔で。
「そうじゃなきゃあんなリアルな描写はできないですよ。そういった経験が仕事に活きるっていいですねえ」
「いや……。してないですよ。この間も言ったじゃない、あたしの表現するものはあたし自身のことではないって」
「あ、そうか。先生、レズビアンですもんね」
「おい、砌原。そんなことどうでもいいだろ」
ピシッと陶器にヒビが入るような感覚がした。なんだ、この男は。失礼とかそういうのより、知り合って間もない人間に対して距離感がバグりすぎてやしないか。
嫌悪感が体中を走る。それでもこの男は止まらない。
「本当に同性が好きなんですか? 男の良さを分かってないですね。もしかして、モテないから女に走ったとか。でも嘉代子さんみたいな美人を男が放っておくわけ――」
「黙れ、砌原」
戸樋が険しい表情で彼を叱責した。普段は穏やかな彼を怒らせるだなんて、よっぽどの男だ。
嘉代子はというと、怒りよりも吐き気が勝っていた。




