♥7
嘉代子は目立つためにチョーカーをしているのではない。
手放せないのだ。
彼女の首には傷跡があった。右から前、そして左まで繋がった、半円の弧のような一本の切り傷。醜いそれを隠したくてチョーカーに縋った。
そこが首だったから、たった一本の傷だから。お洒落の皮を被った自己愛だ。
というのも、彼女のそれは事故でも自傷でもない、れっきとした傷害だったからだ。そして加害者は、母親。
「あなたの顔はお父さんに似てて嫌になるわ。そう、首からスーッと……」
その声と共に、カッターナイフが首に当てられ、刃が嘉代子に食い込む。古いゴミ溜めみたいなアパートで、少女は母親の奇行に抵抗できずにいた。豆腐でも切るかのように、嘉代子の柔肌に赤い線を引いた。
「こんな風に、首から上が別人になってしまえばいいのにね」
首がピリピリと痛んだ。時が経てば癒えると分かっていても、嘉代子は致命傷を負った。こんなに浅いのに。
高校に入ってすぐの出来事だった。その日から、傷はブラウスの襟で隠した。体育の授業でも、なるべく体操服の上からジャージを着て。
学校のトイレや洗面台の鏡で自分の顔と首を見るたびに、母親を忌々しく感じてしまうから。
「嘉代子さん? ……嘉代子さん?」
はっとして我に返った。いけない、人を待っている途中だったのに。
都内のカフェは平日でも人だらけだ。嘉代子は待ち人に声をかけられ、回顧をやめた。
船内をイメージしたこの店には、舵や錨のオーナメントが壁に掛けられていたりする。古い地図のようなタペストリーは空調の穏やかな風で控えめにたなびいていた。待ち人の好みそうな場所だ。
もっとも、彼は船とはかけ離れた職業、藍々社校閲部の人間なのだが。
「こちらからお誘いしたのにお待たせしてすみません、何飲みます?」
「そんな遜らなくていいのに。……あれ?」
彼とは三年ほどの付き合いだ。名前は戸樋といった。
校閲は校正と違って、原稿の誤字脱字チェックだけすればいいというわけではない。原稿に書かれた事実が果たして正しいのだろうか、より文章の内容に踏み込んだ指摘をする。
極限まで簡単に言うと、「大気の五〇パーセントが酸素である」という文があったら、赤で「二一」と訂正するような仕事。
そして彼はそれが上手い。校閲に上手い下手があるのかは嘉代子にはわからないが、なんとなく、赤の入れる部分が的確かつ明瞭だったのだ。
それに気づいてから、嘉代子は藍々社に送る原稿の校閲は彼にお願いしている。
「紺珠も近いしゲラを渡すついでにお茶でも」と、彼が提案したのだ。
嘉代子は戸樋の隣にいる人物に気づいた。見覚えがあったのだ。
「砌原、さん?」




