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ミギリハラ。
その名前に嘉代子は眉を顰めた。もしかして、こいつか?
男は「そ、そうだ!」と慌ただしく鞄を探り、白い名刺を取り出していた。嘉代子も仕方なくそれに倣う。
低く渡されたそれには「藍々社・雑誌編集部 砌原 正」とあった。タナカやスズキならまだ疑ったかもしれない。この苗字だったら確定だろう、可哀想な男だ。とはいえ、真偽は定かではないが。セイラの顔が脳を過ぎった。
「今度、編集部で企画を考えていまして。先生のお名前も挙がっているんです。そのときはぜひ、よろしくお願いします!」
三〇代くらいだろうか、だとすると嘉代子より年齢が上だ。一七〇センチくらいの中肉で、べたつきがちな黒髪。スーツの裾から糸が一本はみ出ており、革靴は光を失っていた。
セイラの忠告もそうだが、その不潔な見た目とはあまり長く話をしたくなかった。嘉代子は社交辞令を並べ立て、局を後にした。
仕事を終え、午後七時頃に嘉代子は自宅のマンションに戻った。
シャワーを浴びて、夕食の準備をする。セイラにも手伝ってもらおうと、彼女のいる寝室の扉を開けた。
「セイラ、ごはん作るよ。……何してるの」
彼女はベッドの上でスマートフォンを眺めていた。下着姿でうつぶせになりながら、機嫌よさそうに足を交互に揺らしている。スマホを横向きにしているので、動画かゲームに興じているのだろう。
「今度嘉代子の賞が発表される番組観てる! 楽しみなの!」
受賞者発表まであと六日。世間全体、とまではいかないが、小説家の界隈や読書好きたちの間ではこの話で持ちきりだった。
というのも、誰もが知る名作家たちは軒並みそれを獲っているからだ。ジャンルが限定されないぶん、受賞者の幅は広い。
「へえ、ありがとう」
「うん。日曜はリアルタイムで観るんだ」
花の咲くようにセイラは笑った。普段本なんてちっとも読まないはずなのに。ぞくりとした感覚が嘉代子の胸中から湧き上がった。
わからない。本当にわからない。彼女に触れてはいけない理由が。もちろんそれを承諾した上で恋仲になったが、理想と現実は食い違うのが常だ。
「……あのさ、」
嘉代子は思わずベッドに腰かけた。
ゆっくりとセイラに顔を近づけ、憂いを含んだ瞳で見つめた。自分の体温が上昇していくのがわかった。
「本当に、指一本触れちゃ駄目なのかな」
「うん、駄目」
嘉代子の紅潮した顔に冷水をかけるような声だった。セイラの一貫とした態度に少しだげ不満を覚えてしまう。
肉欲だけが恋ではないが、肉欲があったら恋と言えないのだろうか。答えは否に決まっている。
俗だと罵られても構わない、女に性欲がないだなんてふわふわした戯言は聞きたくない。それともセイラは、本気でそう思っているのだろうか。
「どうして駄目なの? 別に、セイラを性の捌け口にしようなんて思ってないよ」
「駄目なものは駄目なの」
「それじゃ納得できないよ、駄目な理由まで教えてくれなきゃ」
「言わなかったっけ?」
「なかった。だから聞いてんじゃん」
セイラはテレビ視聴をやめ、スマホの電源ボタンを押した。
暗い画面に彼女の横顔だけが映っている。
「……とにかく、駄目なの」
「だからどうして!」
「じゃあ、それ外せる?」
それ、とセイラが嘉代子の首を指した。嘉代子は思わずぎょっとし、視線だけ下に落とす。
チョーカーのことだった。
「……それだけは、勘弁」
「じゃあ駄目。外せるようになったら教えてあげるよ~」
ベッドから降りたセイラが手を振りながら、寝室をあとにした。敷き布団は嘉代子の重みだけに皺がよる。
嘉代子は自分の首に手を触れた。髪と同じ色の、真っ黒なチョーカー。……外せない。というか、外しちゃいけない。
嘉代子の頬に一筋の汗が伝った。




