♥15
新宿の街は誰かの息で溢れている。テレビの砂嵐のとき流れている音みたいな、そんなやかましさ。
狭い歩道に対して人は多すぎるし、看板の明るさは際限なく目に飛び込んで来る。ほぼ濃紺で覆われた空に対して、こちらは色彩の暴力と呼ぶにふさわしい。
ただ、都会はここまで人と人との距離が近くても、心は遠い。見知らぬ誰かにとっては、嘉代子なんて雑踏の一部にしか過ぎない。いわゆるモブというやつだ。
その距離が心地いい。嘉代子がどう生きようが誰も咎めないということだ。もちろん逆に、嘉代子がモブの人生に対して物申すなんてことはない。
会場は駅から少し離れたところにある。大きな施設はこういう場所でないと建てられないのだろう。
それまでの道もまた、駅にあった明るさとは程遠い。ビルの影がそのまま地に落ちるような歩道を歩いた。空を見上げると、とうに深い藍色になった夜が到来していた。灰色の雲がちらほらと浮かび、星は無かった。
「嘉代子さん!」
びくりと肩が跳ね、嘉代子は後ろを振り向いた。
そこにはあの砌原がいた。やけに煌めくスーツを羽織り、彼女に微笑んだ。
「授賞式の前に会えて良かった、一緒に会場まで行きませんか?」
心がスーッと冷えていくのを感じた。おいおい、なぜお前が。これじゃあ、セイラに許してもらえるのは何百年後になるか。
「……悪いけど、その、人を待ってるの。ごめんね」
やっぱり、嘘をつくのは好きじゃない。そして上手くもない。
「……そうですか」
砌原は肩を落とした。正直、彼を哀れむ余裕はなかった。頼むから早く、どこかへ行ってくれ。
「嘉代子さん」
がちり、という音がするようだった。肉付きのある彼の手は、嘉代子の手首を握っていた。
「えっ」
そのまま引っ張られ、歩道の角を曲がった。この二人以外に誰もいない道だった。恐怖感が込み上がる。鼓動が速さを増していく。
「ちょっと待ってよ、何をするの。離して、これから式なんだから」
焦りを悟られないよう、嘉代子は腕を引いた。しかし彼は離さない。
「どうしても、好きなんです。どうかお願いします」
砌原は嘉代子の顔に手を添えた。汗ばんだ手のひらの感触を頬で感じる。蠢くような嫌悪感と吐き気が襲ってきた。
「嫌っ……!」
全ての力を込めて、乱暴に彼を振り払った。それと同時に、何かが裂ける音。べろりとそれは剥がれた。
「えっ……。嘉代子、さん?」
砌原は噴き出すように汗を流していた。困惑、恐れ、驚愕。全てが入り混じって、彼は後退りをする。
嘉代子のチョーカーが外れ、ばさりと何かが落ちた。
皮だ。ゴム製で、人の顔の造詣をしている。
嘉代子の顔の下に、別の顔があった。
日本人なのにその髪は金色で、瞳は真っ黒。顔はそこまで整っているわけではないが、嘉代子が大好きな顔。
嘉代子は呼吸が楽になった。冷たい空気を吸い込み、砌原を怯えた瞳で見つめた。
「う、うわああ!」
ブスだ。砌原はそう思ったことだろう。彼は嘉代子などそっちのけで、元の歩道へ逃げて行った。
嘉代子も同じ方向へ走る。砌原を追いかけるためじゃない、うちに帰るのだ。
金色の髪は電灯の光を反射し、星のように瞬く。それを靡かせ、全速力で走る。宵に覆われた道から、駅の雑踏に戻る。
人混みは彼女を気にも留めなかった。そこを抜け、マンションに飛び込む。
部屋のドアを開け、寝室へ急いだ。
「セイラ、セイラ!」
賞なんてどうでもいい、式なんてどうでもいい。今はセイラに会いたかった。
セイラ、怖いよ、助けて。セイラ!
彼女はそこにいた。寝室で、ドレッサーの前に座っている。嘉代子に安堵がどっと押し寄せてきた。
「セイラ……」
愛する彼女に、とうとう触れた。頬に手を当て、唇を重ねた。ああ、また怒らせてしまう。だけどごめん、今だけは許して。
「セイラ。……好きよ、世界で一番。誰がなんと言おうと」
鏡、だった。
冷たい銀色の表面に、嘉代子は何度も口づけた。セイラは何も言わなかった。でも、「好き」って言ってる気がする。
【えー……、残念ながらノミネート者が揃っていませんが、定刻です。第九十五回、紺珠賞の発表をいたします】
【『漂う家』。世良嘉代子】