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♥14

 その日は一人で朝を迎えた。日光でぬるくなった空気が嘉代子の頬を撫でた。カーテンから差し込む明るさで埃が雪のように煌めく。

 埃の軽さに対して、嘉代子の体は重い。布団をかぶっているせいじゃない、今日、今日だからだ。


 「緊張」というのは、本人の「絶対に失敗したくない」という意志から来ているそうだ。なるほど、これが緊張というやつか。なんて、毎年感じている胸のざわめきと、ぎゅっと心を握りしめられる感覚に新しさを覚えるはずがない。


 紺珠というのは、知の宝珠を指す。唐の時代から記述されている、大昔の石。実際にあったか、そして現存するかは知らない。瑠璃のようなものなのだろう。


 そして嘉代子はその名が付けられた栄光を追う。作家として延命するにはそれしかない。高校で国語の授業のとき配布された便覧に載る文豪たちみたいな、後生にも遺る人物になりたいの。


 そしてそうなったとき、隣にセイラがいてくれたら。

 筆舌に尽くしがたい幸福だろう。今日がその日かもしれないのに、彼女は、いない。


「セイラ、悪かったよ。機嫌直して。あ、冷蔵庫見た?」


 …………。

 嘉代子は溜め息を漏らした。普通のカップルだったらこういうとき、パートナーが浮気してるかとか、事故や事件に巻き込まれたとか、愛想尽くされたとか、そんな心配をするのだろう。

 だけど、彼女たちは普通じゃない。同性だから、というわけではない。そもそも、同性愛は普通だ。


 仕方がないので、嘉代子は顔を洗った。この家には洗面台に鏡はない。もっといえば、寝室のドレッサー以外置いていない。

だから一晩寝て起きるまで、チョーカーがつけっぱなしだったことに気づかなかった。


 変わり果てた自分の顔なんて見たくないのだ。


 リビングに行き、執筆を始めた。やけに綺麗なキッチンと幾何学模様の絨毯、大型テレビ。それらを含むこの空間に人ひとりは大きすぎる。

 独りぼっちは実家での暮らしを思い出させた。親子一つ屋根の下、もちろん放課後は家に一人。朝から晩まで働いて、ときには労働基準法まで破って。

 でもそれが、まさか嘉代子の顔を変えるためだったなんて誰が想像しただろう?


 電子レンジの温もりだけが家族としての形を保っていた気がする。たまに家で顔を合わせることがあっても、母は彼女と目を合わせようともしなかった。


 そんなに憎いか。あたしの顔が。お前とお前の愛した男の間に産まれたあたしが。一度裏切られた女はどこまでも卑屈になれるのだと知った。

 嘉代子は嘉代子の顔が好きだった。自分でそう言うのもおかしいかもしれないが、最大のアイデンティティであることには変わらない。

 鏡の前で微笑んで、「お母さんがこの顔を嫌いでも、あたしは大好き」と心の中で励ますのだ。


 苦い思い出に浸りながら、依頼された原稿を書いた。そして時刻はとっくに夕方だと気づく。壁の一部が全面ガラスになっていて、オレンジ色の景色を容易に眺めることができるのだ。

 ビルの頭でガタガタになった地平線に、陽はゆっくりと沈んでいく。反対側はピンクと紺が入り混じり、どこかの絵画のようだった。


 そろそろだ。

 嘉代子は家を出た。小説家としての大成を遂げるために。

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