♥12
砌原は嘉代子をまっすぐ見詰めて感情を打ち明けた。
射貫くようなそれはオレンジ色の光に照っている。揺らめく湯気はそちらへと吹く。
勘弁してくれ、というのが嘉代子の感想だった。
あちらが嘉代子のことを知っていても、嘉代子はあちらを知らないのだ。それを把握しているだろうか。
きっと悪気はないのだろう、彼の曇りなき眼が証拠だ。
「うん……。ごめんね、あたし恋人いるし。まあでも、ありがとね」
「そうですか……。ほんとに、彼氏いるんですか?」
「彼氏じゃなくて彼女だけどね。世界一大事なの」
喧嘩中だけど、と心の中で付け足した。
砌原はわかりやすく落ち込んだ。犬を彷彿とさせるような出で立ちだった。
セイラがいる以上、嘉代子は他の人間に傾くことはない。喧嘩していようと、なんだろうと。
もっと言えば、セイラ以外を愛せる自信がない。
縁起でもないことだが、仮にセイラが命を落としても、嘉代子は彼女を愛し続けるだろう。
だから砌原を好きになるなんてまず無い。気の毒だが、セイラがこの世に存在している、もしくは存在していた事実がある限り彼に勝ち目はない。
嘉代子は砌原を哀れんだ。絶対に叶わない恋をしてしまった人はどう生きていくのだろうか。その恋が人生で最高のものだと確信していて、盲目になってその人のためだけに奔走して。
実際に砌原がそうというわけじゃない。嘉代子が駄目だったら、他の誰かの元へ行くだろう。悪い意味ではなく、切り替えが早いという長所だ。彼はそういう男。根拠はないが。
だから、良かった。嘉代子はセイラ以外の人間を愛したことがない。たったの一人も。ここまで愛し愛されているのに、その体は何も知らないままだ。
けれども、他の誰かを見詰める自分を想像するくらいなら、セイラに触れぬまま生を終えた方がずっといい。
さすがに今日は謝ろうか、と思ったとき、砌原が席を立った。
「じゃあ、これで失礼します。明日の紺珠賞作発表、楽しみにしてます」
木製のカウンターに小銭を何枚か置いて立ち去った。コロナも流行ってますから気を付けて、とだけ言い残して。
少しだけ。本当に少しだけ、砌原への色眼鏡が無くなった気がする。思ってたよりいい人だ、やはりネットの情報はあてにならない、と。
だからといって彼へ恋慕を抱くことはないが、そのぶんセイラとの時間を大切にしたいと思った。ごめんね、もうあいつとは関わらないからね、と訴えたい。
そして本当に、砌原とは関わらない。きっと彼も失恋の影響で彼女を取っつきにくく感じるだろう、たぶん。
砌原のおでん代は少し足りなかった。