♥11
まだ冬の息を感じる三月の夜にはおでんのつゆが身に沁みる。目の前に広がる金色の海に、餅巾着やちくわぶが浮かんでいた。
おいしい熱気は嘉代子を包み、ビルも人間も冷たい都会を忘れさせてくれる。世界一交通費の安い桃源郷だ。
幸福に浸る彼女に現れた人物は、そこから現実に引き戻すには充分すぎた。
ああ、またこいつだ、我々の喧嘩の原因。その名も砌原。
「本当に、申し訳ありませんでした」
嘉代子は木製の長椅子に彼のスペースを作ろうと腰を端に寄せた。しかし、砌原は鞄を両手で持ちながら深々と頭を下げるばかりだった。
彼のこんな姿を想像していなかったため、箸から大根が落ち、ぽちょんという音がした。戸樋の奴、一体どれほどの剣幕で。
「いや……大丈夫だって。気にしてないよ」
これは事実だった。ショックではあったが、気にするほどのものではない。
心無い発言は豪雨のように浴びてきた、これくらいなんの。そう言い切ってしまう自分がなんだか寂しかった。
「お詫びの印として、これを……」
ハンカチだった。中身はラッピングされていて見えないが、この肌触りと厚みはハンカチ以外ない。ブランドロゴのシールが屋台の提灯に照らされて眩しかった。
嘉代子の好きなブランドのもので驚いた。というのも、ファッションブランドなんかではなく、文房具ブランドの出しているハンカチだったのだ。リサーチ済みでないとこの選択はできない。
詫びの品を渡されるほどではないと何度も言ったが、砌原は聞かなかった。仕方なく、しかし半ばラッキーだと思いながら鞄にしまった。
お礼を言うついでに、着席を促した。彼は妙に遜りながら嘉代子の隣に座った。
「僕、昔から『人との距離をわかってない』って言われてたんです。僕もそれを自覚してるので、結局人づきあいが怖くて。友達がいないんです」
砌原は餅巾着の紐をわざわざ箸で解きながら自分語りを始めた。そのまま干瓢を噛み、中の餅を摘まんだ。
「だからその、憧れの作家さんを前にしたらそんなこと全部忘れちゃって。ツイッター、雑誌、テレビ。それも含めて隈なくチェックしてるんですから」
嘉代子は相槌を打ちながらさっき落とした大根の救助にあたった。半月のように割れてしまったそれを一つずつ頬張る。
断面はもちろん、周の端っこまで月の輝くように美しかった。せっかく満月だったのに。
「でもそれは当たり前だけど一方的で、もちろんファンの分際である僕が本人から見てもらえるなんてないわけです。だけど、」
砌原が箸を置いた。器のスープが名残惜しそうに揺れている。
それから彼は嘉代子に向き直り、膝に手を置いて言った。
「好きです、嘉代子さん」