♥10
嘉代子の大学時代は泥沼だった。
運動も勉強もできず、奨学金で行っただけの、何の思い入れもない大学。夢や目標もなくただ生きる自分はまるで死人だった。
能無しがこれから先の社会で必要とされるわけもない、病んだ母親と一生共に過ごすなんて死んでも嫌だ。
わずかな反抗心で、無駄にあった読書経験を活かし、筆を執った。
それが実を結び、小説家としてデビューした日。
「はい……これ」
やつれた母親が、テーブルに小さな封筒を置いた。重みのある音がした。
「整形の費用。韓国に行けば、日本より安く済むから……」
心臓が冷めていくようだった。母は目も合わせずに嘉代子にそれを渡した。
「もし……もし、ね。あなたが作家として有名になったら、テレビに顔が出るかもしれない。……私がそれを見たらきっと、その度につらくなる。ねえ、わかるでしょ?」
わからなかった。わからなくてはいけない理由がわからなかった。そんなに私の顔が嫌いだったのか。もしかして、母が日に日にみすぼらしくなる理由は自分が原因だったのか。
父親は他の女と不倫して母親を捨てた。憎む気持ちは充分わかっている。でも……。
「お願い」
母の土下座を見たのは、それが最初で最後だった。
別の顔で生きるというのはなんとも不思議な感覚だった。鏡を見ると、そこには知らない女がいる。頬を撫でる感触も、指と顔の皮膚が触れ合うことすら異様だった。
ただ母の選択は正しかったのか、この顔になってから美人だともてはやされた。美人だから、美人だからと何かと得をした。ああ、これが美人の見ている世界だったのか。
なんだか不公平だ。顔が違うだけで、外見が異なるだけで。人は優劣をつけるのか。自分で自分の顔なんて見ることすらできないのに。
だからセイラが羨ましかった。世間体も気にしない、特定のコミュニティに属さない、そんな彼女が。
好きなもので好きなだけ好きなことができる。異端であれど、その異端が美しい。
そんなセイラに惹かれたのだろう。レズビアンだから彼女を好きになったのではなく、彼女がたまたま同性だったから事実上レズビアンになったのだ。正直、セイラ以外の人間は男も女も受け付けない。
もちろん、目の前にいる砌原もナシよりのナシだ。
昨晩喧嘩してからセイラとは一言も喋っていない。だからいつも通り仕事に臨んだ。今日は紺珠賞についての打ち合わせだった。
発表は明日……つまり二十四時間後、夜七時にテレビ中継される。当日は会場にいなくてはならない。タイムテーブルと会場のホールで座る席などが連絡事項だった。その代わり、明日はこれ以外の仕事がゼロだ。
砌原は打ち合わせ後、嘉代子に話しかけてきた。藍々社オフィスではなく、近所のおでん屋台。嘉代子が飲んでいたところへわざわざ。
「この間はすみませんでした。あのあと、戸樋さんにこっぴどく叱られました」