逃げるな
今回長いです。
大きな馬の声がしたと思ったら、馬車が止まった。嫌な予感がする。それは母さまも同じようで、馬車の入口を睨んだまま震えながら私を包み込むように抱きしめた。
私は母さまの腕からすり抜け、庇うように母を背中に隠した。
私のことを思い、ここまで守り、連れてきてくれた。母さまは私が守らなければ。武器も何もなく、体術だってできないが、囮くらいにならなれる。
「リヴィア……!」
「大丈夫よ、母さま。きっとなんとかなる」
だから安心していて。母さまから視線を外し、目を向けた瞬間、扉が開いた。
腕が入り込み、勢いよく引っ張られる。気づくとあっという間に誰かに抱えられていた。いや、誰かと言いつつも予想はついていた。ノエルだ。ノエルに子どものように縦抱きされている。
「逃げるなと、言ったでしょう?」
恐るおそる視線を下ろすと、ノエルはうっすら笑いながら私を見ていた。こんな顔見たことがない。優しい笑顔か、無表情なノエルしか見たことがなかった。パーティーの時だって、頭を下げていたからどんな表情をしていたのか知らない。大切な弟だというのに、背中にゾッとしたものを感じた。
「さあ、屋敷に帰りましょう」
ノエルは自らの愛馬に向かい歩き出した。馬に乗ってきていたのか。いや、それよりも。
「待って、母さまが馬車に」
「ああ、母さんなら、ほら」
馬車に目を向けると、母は父に手を取られ、腰をホールドされ公爵家の馬車に乗り換えているところだった。お父さまの格好はエスコートといえばそうなのだろうが、逃げられないようなオーラがある。
「ノエル」
「はい、父さん」
母さまを馬車に入れたお父さまはノエルを呼びつけた。ノエルに抱えられた私ごと。
お父さまの表情は変わらなかった。恐ろしい顔をしているかと思ったが全く違った。慈愛に満ちた目をしている。
「大丈夫だよオリヴィア。お父さまは家族を愛しているからね。不敬罪になってしまうから面と向かっては言えないけれど、何があろうと、例え王から何を言われようと家族を守ってみせる」
そう言うとお父さまはわたしの頭にキスをして、馬車に入っていった。
「では僕たちも帰りましょうか」
私を乗せると、ノエルも馬に跨り、走らせた。
夜の静寂の中に馬の蹄の音が響く。街の闇の中、月明かりだけに照らされて二人取り残されたように感じる。ノエルの腕に抱えられ、逃げたくても逃げられない。沈黙が苦しくなり、声をかけた。
「……どうして母さま達と一緒に馬車で帰らないの?」
「馬に蹴られるのは嫌ですから。……母さんももう逃げようとはしないでしょう。ほくほくしている父さんに近寄りたくはありません」
「そ、そう」
なんだか不穏な雰囲気がしたがあまり突っ込むと墓穴を掘りそうな気がしたのでやめておく。
「……」
再び沈黙が落ちる。なんだか居心地が悪くなり、もぞもぞと体を動かすが、目敏くノエルに見つかった。
「そんなに動かないでください。体が硬っているんですよ。ほら力を抜いて」
ノエルが私の肩に腕を置き、自分の体にもたれかけさせる。触れ合っているところからノエルの熱が伝わる。私の体を預けても、ノエルはびくともしない。……いつのまにかこんなに大きくなっていた。
13歳で学園に入ってから話す機会がめっきりと減り、家でもすれ違う生活。毎日顔は合わすが、目は合わさない。どうしてだろう、と考えない日はなかった。……嫌いになったわけではないのだろうか。ノエルの温もりを感じる今ならもっと話せるだろうか。
「ねぇ、ノエル。……怒ってる?」
「怒っていませんよ。なぜ?」
「だって殿下に愛想をつかれたバカな女、とか。クロフォード家に泥を塗った、とか。部屋から逃げ出した、とか。……なんだか、避けられてた、みたいだし。……嫌われちゃったのかな、って」
「……」
「ごめん、聞かなかったことに……」
「僕はオリヴィアを嫌ったことはないですよ」
ノエルを見上げる。名前を、呼んでくれた。ノエルが、オリヴィアと。それだけで瞳に涙が滲む。名前を呼ばれたのはいったい何年ぶりなんだろう。
ノエル、ノエルとしゃくりあげながら泣き続ける。何度拭っても涙は止まらなかった。ノエルの胸を借り、泣き続ける。
「あーあ、こんなことで泣いちゃって……、かわいいなぁ。もう君は僕のものだよ、オリヴィア」
ノエルの声は私には聞こえなかった。