目隠し将棋の日記帳
朝の改札出入口。
定期的に学生やサラリーマン達が出入りしていく通路を数歩離れた場所に、私は首を下方に向けて立ち尽くしていた。
左手にはナイロン製で出来た青色のブックカバーを被せた文庫本。
目前に映る文字列を、私は機械的に追っていく。
ふと右手側に人の気配を感じて顔を上げる。
そこには一六〇センチ丁度の私より二回りほど大きい男子学生が立っていた。
少しだらしなくセットされて跳ねた髪に幼げな顔が印象的に映る。
彼は私が気付いたことを確認すると、人懐っこい笑顔を浮かべて右手をあげると同時に口を開けた。
「▲七六歩」
出会い頭にそう発すると、続けざまに朝の挨拶を口にした。
「△三四歩」
私はそれに動じる事無く、彼と同じように語頭に一言加えて挨拶を返す。
その反応に彼は安心したかのように溜息を吐いた。
「▲二六歩。悪い、ちょっと朝出るの手間取っちゃってさ、遅くなった」
彼の言葉に私は携帯の画面を点けて時間を確認する。
確かにいつもより電車が二本分ほど遅い時間であった。
「△四四歩。本当ね。全然気づかなかった」
私はそう言ってうそぶいた。
いつもよりページの進みが多い事に気付いていたから。
彼はそんな事に気付いているのか、単純にばつが悪いのか、右手を垂直に立てて謝罪のポーズをとる。
「▲四八銀。ホンットゴメン!」
「△三二飛。別に良いよ、本を読んでたから気にならなかったし、行きましょう」
そう言って文庫本を鞄にしまうと、私と彼は学校への道を歩き出した。
時間がいつもとずれている所為か、登校する生徒の数が少なめに感じた。
「▲二五歩。そういえば今日は何読んでたんだ?」
「△三三角。サスペンス物。クラスの虐めを教師が復讐する奴」
「▲六八玉。あぁ……サスペンスかぁ。俺は苦手だなぁ。なんかこうゾワゾワってしそうで」
彼は苦そうな顔を浮かべる。
何とも可愛げな反応に私は思わず吹き出してしまう。
「△四二銀。ミステリーもダメって言ってなかった? 何なら得意なの?」
そもそも彼が本を読んでいる姿は見たことがなかった。
とはいえ、外で読んでいないから家で読んでいないとも限らない。
今の時代、紙の媒体を持たずとも読書は出来る訳だし。
私の問いに彼は考え込むよう頭に手を当てて悩ましい声を上げた。
「▲七八玉。最後に読んだのなんだっけなぁ? 侍が責任を取って切腹する奴」
「△六二王。切腹は大体責任を取ってするものだと思うけど……」
「▲五六歩。んぅ~。なんか、外国人にウシとか奪われて~とかだった気が」
「△七二銀。良く分からないけど、時代劇物が好きなの?」
時折こちらの会話を耳にして、通学中の生徒達は不審な目で私達を眺めていた。
それもそうだろう。語頭に妙な呪文を付けて順番に会話する様は端から見れば異様に違いない。
よく聞けばそれは将棋盤のマス目を指しており、言葉だけで交わす目隠し将棋をしているのだと分かるのだけど。
通り過ぎ間に聞いただけでは、それこそ何かの暗号を唱えてる様にしか聞こえないだろう。
しかしこれが私と彼とのいつもの会話の風景だった。
話しかける前に一手打ち、話しかける。
互いに話すようになってからずっと続いている二人だけの会話法。
こんな妙な事をしている私達だけど、別に二人とも将棋部という訳でもない。
きっかけは本当に些細な物であった。
★★★
学年が始まった当初、私と彼の席は隣同士だった。
社交的で明るい質の彼は、登校すると私に挨拶をはじめ、気さくに話しかけてきていた。
しかし彼とは違い、内向的な私はそれを無視していた。
と言うより本を読んで気付かないふりをしていた。
小中学校を経て、人とのコミュニケーションを取ることが苦手であることを自覚した私。
その結果として目の前に本を置き、逃げ込むことで人と接する事を放棄することを選んでいた。
特段本が好きという訳でもない。
ただ人の目から、会話から逃げられさえすればよかった。
だから私が読むものは小説に限らず、自己啓発本であったり、理解できない学術書であったり、クロスワードなど様々だ。
そんな私にも彼はめげずに話しかけ続け、私はそれを無視し続けていた。
今にして思うと、何とも嫌な奴だなと自分でも思う。
そしてそんな日が続いたある日であった。
私と彼は体育用具倉庫に閉じ込められる。なんていう漫画みたいな出来事に遭遇した。
「なぁ。いっつも本読んでるけど、何読んでる訳?」
「……」
「なんかさぁ。良く分かんない物とか読んでる時とかあるじゃん? あれ全部理解してるの?」
携帯もなく外に連絡が出来ない状況。
大人しく倉庫内で待つしかないせいか、暇をつぶすように彼は私に話しかけてきた。
しかし私は本を持ってきていた為、いつも通り彼の言葉を無視し続けていた。
その時の私が読んでいたのは詰将棋問題集であった。
そこまで将棋に興味があるわけでもなかったけど、ルールが分かれば時間つぶしにはかなり優れていた。
集中していればいるほど、彼の戯言も気にならなくて内心助かっていた。
「▲二六歩」
そんな時だった。私の思考に割り込むように言葉が発せられた。
まるでお札を数えているときに時間を訊ねられる様な不愉快さに、私は思わず彼の顔を睨んだ。
「二六歩だよ。二六歩! 詰将棋読んでるからには出来るんだろ将棋。二手目打てよ」
まるで挑発するような彼の物言いに私は少なからず驚きを隠せずにいた。
少なくとも私に話しかける彼の様はいつも明るく優しい物であったからだ。
内心では無視し続ける私の態度に苛立っていたのかもしれない。
呆ける私を後目に彼は私をバカにするように笑う。
「あれ? 出来ない訳? もしかして分かんないのにただ読んでるふりしてるだけだった?」
そんな彼の言葉に私の頭は一瞬で熱を持った。
半分は図星であった事。
しかし何より、こんな軽薄そうな男にバカにされることが耐えられなかった。
私はものの見事に二手目を口にした。
「△三四歩! 馬鹿にしないでよ! 出来るわよ! 貴方こそ適当に言ってるだけなんじゃないの!?」
「おっ! 言ったな。えーっと▲二五歩」
「△三三角」
「ちょっと待って早い。えーっと……▲七六歩?」
「△四四歩。何よ自分から仕掛けて来ておいて、さっさとして」
「▲四八銀? いや、てかその本持つの卑怯じゃね!? マス目まるわかりじゃん!」
彼は私の詰将棋の本を指さしてそう叫ぶが、私はつんと顔を横に逸らす。
最初に喧嘩を売ってきたのは彼なのだ。
私は元々持っていた本を有効活用していたに過ぎない。
「△八四歩。別にやる時に見ちゃいけないなんて決めてないし……」
「▲七八……銀? ちょっとタンマ。俺もそれ見せて」
「ちょッ! ち、近づかないでよ。△八五歩」
「まぁ硬い事言うなって……えーっと、▲七七銀」
突如彼は私の本を覗き込むように顔を近づかせてくる。
私は驚いて顔を遠ざけながら、戸惑いの声を上げる。
しかし彼は真剣な顔で、ゲームに夢中で、そんな私を気にした風もなくマス目を睨んでいた。
「▲五八金」
「……どっち?」
「何が?」
「どっちのを金動かしたわけ?」
「あっ、えうん? 左。えーっと俺から見て右」
「…………△ニ四歩? あ、えぇっと持ち駒を使いました」
「というか、そこ既に歩なかったっけ?」
「えっ、そんな筈……あっ!」
「はい二歩ー! 俺の勝ちー! いえー!!」
「ちょ、ちょっと待って。勘違いしただけ、無し! 無しよ!!」
「聞こえませーん。ルールですー」
「―――――!! もう一回! もう一回よ!!」
互いに目隠し将棋をしたのは初めてな事もあって、なんともグダグダな勝負が続いた。
実際は本に書かれたマス目を睨みながらやっている為、目隠しというにはほど遠いものであったけれど。
互いに一つの本を見ながら試行錯誤して進めていくのは、協力して難問を解いている様な気分にさせられた。
気づけばゲームに夢中になる内に彼と普通に会話できるようになっていた。
そんな事を続けていると、私達がいないことに気付いた教師が助けに来て私達は倉庫から出ることが出来た。
「おはよう」
その次の日、私に話しかけるいつも通りの彼。
私は顔を上げてそれに返答しようとするも言葉に詰まってしまった。
私が彼と会話できたのは、閉鎖的な空間での特殊な状況があったからだった。
その魔法とも呼べる環境が解けてしまった今、あの時の様に彼に話しかけることが出来ないでいた。
「▲二六歩」
そんな私を見かねたのか、彼は突如そんな言葉を口にした。
呆ける私を後目に彼はそのまま「おはよう」と再度挨拶を口にした。
「△八四歩。おはよう」
昨日の反動か私は咄嗟に返しの手を口ずさむ。
そしてそれに引っ張られるように続きの言葉が一緒に吐き出されていた。
そんな私の姿に彼は小さく笑う。
「▲七六歩。いやぁー昨日はマジで焦ったよなぁ」
そのまま何事もなかったかのように続けて会話する彼。
私は次の手を考える事に集中する事で、却って気負わず会話をすることが出来た。
人と会話をすることが苦手な私に差し伸べてくれた彼の一手。
私と彼はそれ以来、語頭に将棋の一手を交えて会話をするようになったのだった。
★★★
「お前ら良くも飽きずに出来るよなそれ」
「別に飽きる飽きないじゃないしなぁ……▲四五桂。なぁ?」
「△三五角。そうね、なんというか喋る前に、一言合いの手を入れる様な物というか」
「いやいやいや。将棋盤使わずに将棋しながら会話とか、頭おかしくなるわ」
昼休みの食事中。
他の友人を交えての雑談すらも、私と彼は一手一手を口にしながら会話をする。
最初は物珍しがられていたけれど、聞くだけで盤面が分かる人も少ない事もあり、特に気にする人間は少なくなっていった。
「▲同歩。別に馴れれば何とかなるぞ。そこまで真剣に勝負してる訳でもないし」
「△四四銀。そうよね、昨日なんて五枚目の銀が出てきちゃったものね」
「▲四六歩打。ちょっとした勘違いだろ。意地悪いなぁ」
「△二九飛打。聞こえませんね。ルールですから」
「はいはい仲の良い事で」
私と彼のやり取りに周りは呆れた様にため息をついた。
そんな風景すらも私には心地よく感じた。
二人にしか通じない何かがある様で、大勢の中に居ながら二人だけの空間に居る様で。
「▲五五角。そういえば何かおすすめのミステリーとかない?」
「△四九竜。どうしたの? 苦手なんじゃなかったっけ?」
放課後の帰り道、急に彼はそんな事を聞いて来た。
確かあんまり考えるのは苦手だから好きではない、と語っていたことを思い出し私は不思議に思う。
「▲二七角打。前にさ、ミステリーは話の目的も解りやすくて完結してるから読みやすいとか言ってたじゃん」
「△二九竜。そういえばそんな事言った気も……」
主人公が殺人事件を解決して犯人も捕まってハッピーエンド。
と言うのが大体の大元なので、推理要素を抜きにしても一個のストーリーとして純粋に読みやすい。と、彼に以前宣伝した気がする。
「▲一六角。アレ聞いてさ。確かになーって思ってさ、ちょっと気になってたんだよね」
「△四四歩打。……じゃあ明日適当なもの持ってくるから貸してあげる」
「▲五六銀。おっ! ありがとう。できればあんまり難しくない奴な」
そう言って彼は人懐こい笑顔を浮かべた。
自分の言葉で彼が新しい物に興味を持つ優越感に私は少しだけ気分を良くした。
そんな会話をする内に駅の改札口まで到着する。
私は徒歩で彼は電車。だからここで今日はお別れ。
「▲九四香。じゃあ今日はこれで、また明日」
「△八五桂。うん。また明日」
最後の最後まで一手を指しながら私達は別れた。
勝負は決まっていないが、また明日からは一手目に戻る。
別に勝負が目的でないからそれで良かった。
「▲七六歩△三四歩▲二六歩△四四歩▲四八銀△三二飛▲二五歩△三三角▲六八玉△四二銀……」
夜。私は自宅の学習机に座り、今日の対局を口に出して思い返していた。
別にあの手が悪かったとかの反省をしている訳ではない。
机の上には日記帳。
私は彼との会話を思い出しながら、今日一日の記録を付けていたのだ。
その日に行った目隠し将棋の成り行き。
それを一手一手口に出す事で、その後に行われた彼との会話が鮮明に思い出す事が出来た。
何でもない彼との会話。しかしそれを思い出すだけで私の心は満たされて自然に笑みが零れ落ちる。
棋譜と一緒に彼との一日を同時に思い返す。
今ではそれが私の日課になっていた。
「▲五五角……。あっ、そうだミステリーの本を明日持って行かなきゃ」
思い出したように立ち上がり本棚に向かう。
あまり難しくないのが良いと言っていたが、そこら辺の加減は分からない。
彼の事だから妙な物を渡しても怒ることはないだろうけど……。
取り合えず有名な物を勧めておけば問題ないだろうか?
そう思い六人目の被害者が犯人である本を私は手に取った。
次の日、いつも通り私は改札の近くに立って彼を待っていた。
暫くすると改札から彼が現れ、私は顔を上げる。
昨日は彼からだった。だから今日は私から。
「▲七六歩。おはよう」
「△八四歩。おうおはよう」
そうして始まる私と彼との会話。
そして私だけが分かる秘密の日記帳の記録。