蒼穹の下で
空は地平線まで澄み渡り、しかし夏場であるから、遠方の山々はハッキリとは言い難かった。
しかしローラレンス王国は緯度が高く、また、馬で軽快に駆けているために、暑いという表現には至っていない。
マツカゼの背に乗った俺は、その後ろにレイナを乗せて、非常に――とても、という意味での非常だ――密着した状態であるが、それでも暑いほどではない。
俺の腰に手を回したレイナの、膨らみかけの胸が布越しに背中に当たり、相応の柔らかさを主張してくる。いくら細身とはいえ、十四にもなれば、女性らしい柔らかさがあるわけである。
役得というか、嬉しく思う自分がいる一方で、既に慣れてもいた。幾度とない乗馬練習のおかげで、表面上は乗馬に集中できている。
マツカゼと並列するように、他の三頭の馬も駆ける。
フランツィスカは、カリンの白馬、グナードに同乗している。
二人乗りであるマツカゼとグナードが内側で、一人乗りの二頭が外側である。
乗馬がより得意なのは、俺とカリンよりも、ウォルフガングとフリッツであったが、何と言っても彼らは主戦力たる護衛であるため、戦いやすい状態にする必要があった。そのために、一人乗りで、外側なのである。
ウォルフガングの馬はエランスト、フリッツの馬はシュタークという。
四頭が四頭とも、金色の角を持つ名馬であった。
体感時間で一時間ほど、駈足で走っているのだが、疲れた様子を全く見せない。
では、騎手はどうなのかといえば、当然ながら疲れた様子を見せていた。
自転車に長時間乗る、といえばイメージしやすいだろうか。或いは、ブランコに長時間乗る、と言った方が近いかもしれない。レイナやフランツィスカは乗っているだけだからマシではあるが、マシといった程度だ。
今日のところは、最寄りの街である闘技場まで向かうことになっている。
王都と闘技場の距離は、並歩で、初夏の日が昇ってから沈むまでである。駈足は並歩の3~4倍ほどの速さであるから、既に四分の一は超えた頃だ。
変わり映えのしない景色ではあるが、それでも草原と森とがあり、その変化からも四分の一程度は来たと分かる。
休憩しても良い頃合いだと思う。明日以降はともかく、今日に関しては知った道で、必要以上のスピードを出しているのだから、余裕はある。
それに、体力は勿論、舌を噛まないようにと、殆ど話してもいないので、そろそろ会話を交わしたい気分でもあった。
そんなころに、腰に回された腕に少し力が入ったと思うと、レイナが囁くように言ってきた。
「ジーク様、そろそろ休みませんか?」
お互いにしか聞こえない程度の声であるが、他の場面で間違えないように、しっかり呼び方を保っていた。
自分から言いだそうとも思っていたので、願ってもないことであった。
揺れているので伝わるか分からないけれど、首肯を以て返事とした後、他の馬にも聞こえるように言った。
「そろそろ休もう」
風に声が流されないように、中級の風属性魔術を行使しながら言ったので、声を張り上げてはいない。
「「分かった!」」
「分かりました」
ウォルフガングとフリッツが、叫ぶようにして返事を返してきた。
カリンは俺と同じように、風魔術に声を乗せている。
手綱と脚を使ってマツカゼに指示を出すと、駈足から速歩に、速歩から並歩にと、徐々にスピードを落としていき、やがて止まった。
他の三頭もマツカゼとほぼ同じタイミングで止まる。
マツカゼに「降りるからじっとしてくれ」と頼むと、ぶるる、と返事が返ってきた。
一方的とはいえ、完全に言葉が通じるのは、やはりありがたい。
先ずは後に乗るレイナが、マツカゼの背中に手を付き、足を片側に回して、飛び降りる。
次に、俺も同じようにして降りる。
本当は先に降りて手でも差し伸べたいところだが、無駄な手順を増やすわけにもいかないからな。
この世界の馬は、頭が良く言葉が通じるので、どこかに繋いでおく必要は無い。
信頼関係をしっかり築けた馬ならば、「この辺に居てくれ」と頼むだけで、その通りにしてくれるのだ。
マツカゼも、グナードも、エランストも、シュタークも、それぞれの主と信頼関係があるので、どこかに行くことは無く、返事をすると近くの草を食み始めた。
最初の休憩に選んだ場所は、進行方向に対して、街道の右側が広葉樹の森、左側が草原といったところである。
周りに危険なものが無いか、簡単に確認して、後は各々自由に休むことにした。
ウォルフガングとフリッツは、交互に周囲への警戒をするとのことであるが、それでも体は休めることが出来る。
俺は草原の方へ行き、地面に汚れがないことを確認すると、草の上に寝転がった。手足を大の字に広げて、脱力する。
王子である今世は、幼少期でもこんなことはやらなかった。前世でも、中学校になるころには、ワイシャツだと草の染みが目立つので、こんなことはやらなかった。
合計で二十年以上ぶりの、生きた草のベッドは心地よかった。
レイナも同じように隣に寝転んできた。
草と体との間に、シーツよろしく長い髪が挟まるが、気にしないで俺と同じく大の字になる。
首だけ曲げて彼女の方を向くと、碧の瞳もこちらを向いてきた。
そのまま視線を合わせていると、照れくささを誤魔化すように、お互い同時に噴き出した。
仰向けになり、空を視界におさめて笑う。
深い青は本当に雲一つない。
視界の端に映り込む太陽はまぶしくて、思わず手で遮ってしまった。
風が吹いて、日光で火照った体を冷ますとともに、草木がサワサワと声を出す。
「……ジーク様、何か言いましたか?」
「いや、何も言っていないが」
ふと、レイナがそんなことを言う。
否と答えると、気のせいだと納得したようで、それ以上聞いてはこなかった。
草木が声を出すとは勿論、比喩であるから、少なくとも言語ではないはずだ。
その後、もう少しだけレイナと会話を交わすと、森の木陰で休んでいたカリンが、そろそろ行こうと提案してきた。
曰く、鐘の八分の一ほどの時間が立ったとのことだ。
つまり十五分ほど経過したという訳で、しかし、どうやって計っているかは分からない。
カリンに聞いてみたのだが、妖艶な笑みとともに躱されてしまった。レイナが聞いても同じ笑みだったので、色っぽい自覚はなさそうだ。
曰く、女の秘密、らしい。
「それじゃあ、そろそろ行こうか。初日だし、早めに街に着いた方が良いと思うからな。……マツカゼ!」
黒い巨体を持つ相棒は、すぐにやってきた。
少しだけ足腰に身体強化をかけて、背中に手をついて飛び乗る。
レイナも同じように飛び乗り、俺の腰に手を回して密着する。走り出していないので、まだ密着する必要はないのだが、嬉しいので何も言わないでおく。
ふと見ると、フランツィスカも、同じようにカリンに密着していた。
なら、そういうものなのかもしれない。
とにかく、全員が乗馬したのを確認すると、出発の合図を出す。
「じゃあ、行くぞ!」
並歩、速歩、駈足と徐々にスピードを上げ、四頭の馬は風を切った。
その後、二回の休憩を挟みつつも、日が高い時間に闘技場に到着した。
空は未だに快晴だ。