閑話3 ≪帰宅王ミハイル≫
第二王子付きの護衛ミハイルを主人公にした閑話です。
一話完結です。
従四位侯爵家第二子ミハイル・テオバルト・フォン・シュヴァルツシルト。
王国軍近衛兵団所属シュヴァルツシルト特務准将。
「黒刃」ミハイル。
第二王子の右壁。
上等な呼び名には事欠かない俺だが、同僚たちからはこう呼ばれている。
「帰宅王ミハイル」と。
無駄に持ち上げている王の呼称に加え、何のと聞けば帰宅の王なのだから、明らかに揶揄うようなノリで付けられた呼び名であると分かる。
まあ、半分くらいは親しみから来ている渾名なので、然程の不快感はない。
それに、毎日早く家に帰ることは、俺のポリシーだ。面白そうなことがあれば残ることもあるが、基本的には仕事が終わり次第帰宅することにしている。
何故か。
それは家に妊娠中の妻がいるからだ。
少しでも長い間、近くにいてあげたいと思うことに、なんら可笑しいことがあるだろうか。
お見合いして結婚したような、普通の貴族連中には、奇異に映るかもしれないが、俺の基準からしたら、妻と少しでも長く一緒に居たいと思うべきである。
俺にとって大切なものというのは決して一つではないが、何か一つを選ばなければならないならば、妻を選ぶ。
アリア・リリィ・フォン・シュヴァルツシルト。旧姓ミュラー。……掴み取った宝物だ。
俺より三歳年下で、王国一等女官の秀才だ。
それにもかかわらず、堅苦しいわけでもなく、明るいムードメーカーで、可愛い系だ。
告白してきたのは彼女からで、当時は恋愛など考えてもいなかった俺は驚かされたものだが、あの時頷くことが出来て本当に良かった。
これ以上ない程に幸せだ。
そんな俺の耳に、何よりも強烈な言葉が伝えられた。
「奥様がご出産なさいます」
頭の中が真っ白になって、言葉の意味を数秒間反芻する。
言葉と意味が繋がったとき、頭の中には驚きが溢れて、同時に喜びと不安も湧いた。
けれども、今はまだ勤務時間内だ。妻の側にはいてあげたいが、子供というのは父親はいなくても関係なく生まれるものであって、殿下とお嬢様の護衛は俺の使命でもある。
これが、アリアが命の危機だというなら話は別だ。全てを放り出して駆け付けると決めている。
だが出産だ。
男の俺は何の役にも立たないだろう。
ぐるぐると回り停滞する思考を打ち切ってくれたのは、助け舟を出してくれたのは、護るべき方々ではなく、心強い同僚だった。
「鬱陶しい。早く行けばいいだろう。見縊るな、俺一人で充分だ」
それは大凡ウォルフガングらしくない発言だった。冷静沈着で安全策を取る仕事人である彼が、護衛任務よりも妻を優先しろという。
それは俺の精神衛生上大きな救いとなった。とはいえ、そんな決定権は俺にも同僚にもなく、国家元首か、軍務卿か、近衛兵団の上官か、護衛対象である二人自身の、いずれかの許可を取る必要があった。
最も近くにいて親しい二人に視線を向ける。
ヴァイス殿下とレイナお嬢様は互いに視線を交わすと、整った顔を苦笑で歪めて次々に言った。
「今日くらいは誰も文句言わないさ。アリアが心配なのだろう?」
「きっとアリアも、ミハイルが側にいた方が心強いと思います」
その声音と表情は、今の狼狽した俺よりも数段は大人だった。
とはいえ、言葉に助けられたことも確かだった。子供である俺は正直に大人の言うことを聞くことにする。
膝をついて正式の敬礼をした後に、愛剣を背中に背負って、部屋を飛びだした。
足腰に身体強化をかけ、数段飛ばしで階段を駆け下りる。
一階の廊下を最大のストロークで、弾むように駆け抜ける。途中ですれ違った人の書類をまき散らしてしまったが、今回ばかりは、会釈だけで許してもらおう。
王城の庭も最高速度で駆け、門の前で急停止する。
門番に名前と役職を告げ、そこから更にスピードを出した。
俺の家は貴族街にあって、同時に大通りではない。つまり、人通りが少なくて走りやすいのである。
朝の静かな雰囲気が心地よいとは思っていたが、こんなところでも好都合とは、嬉しい誤算であった。
貴族の見栄で作られただけであろう、申し訳程度の大きさの庭を抜け、玄関扉を開く。
扉の近くにいた侍女のレザラが、龍鱗族の特徴である尻尾を不愉快そうに上下に振って、無表情に俺を出迎えた。ポーカーフェイスではなく、彼女は素で無表情なのだ。
「……お帰りなさいませ、旦那様。お気持ちは理解致しますが、男子禁制ですし、食堂辺りで座っていてください」
行間から、邪魔だ、仕事を増やすな、と読み取ることが出来た。
オブラートに包まれた辛辣な言葉だが、確かにその通りで、出産に際して俺が出来ることなんて何一つない。
男性である以上、例え夫であっても、部屋に入ることは許されないのだ。
無力感に襲われながら、俺は食堂の椅子に座った。
両肘を机の上に乗せ、手を組んで、その上に顎を乗せる。
落ち着かなくて、足が床を、非音楽的に蹴り込んでしまう。
貧乏ゆすりの音に紛れて、遠くから、喘ぎ呻く声が微かに聞こえてくる。誰よりも聞きなれた女の声であるのは明らかだった。
何もできないと思うと、情けない気持ちになってくる。世の男性も同じような気持ちになるのだろうか。いや、ならないだろうと思う。
俺よりも妻を愛している人なんて、知らない。同じレベルの人は一人いる、王爵家当主のアルトリウス陛下は、愛妻家として非常に有名だった。
せめてでも出来ることを探す。
何があるだろうか。
子供の名前は既に決めている。
他に何を出来るだろうか。
じゃあ、生まれた後に出来ることを考えよう。
今直ぐ何かをすることは諦めて、一時的に然程得意ではない「思考」を頑張ることにしよう。
何が出来る?
何をすれば有害にならない?
最初に思いだしたのはヴァイス殿下の言葉だ。
あれは確か、もうすぐ弟妹が生まれる殿下が、同じく弟妹が生まれるレイナお嬢様に対して、語っていたことだったと思う。
『生まれたばかりの赤ん坊は弱くて、簡単に病気になってしまう。〈入人式〉までは家から出さないという文化も、そう言ったところに起因するのだろう。病気というのは、外的要因でもなるものだ。いくら身体強化や治療魔術があるといっても、赤ん坊はそれすら弱いのだから、根源から絶つ必要があるわけだな。方法は色々あるわけだが、一番簡単なのは、清潔な水で手を洗うこと。熱い湯ならば、なお良い』
賢い――もしかすると頭の回転だけならばヴァイス殿下よりも良い――レイナお嬢様は、直ぐに意味を理解して頷いていたのだが、然程頭の良くない俺はその場では理解が出来なかった。というか、未だに因果関係は理解していない。
けれども、殿下が言うのならばそうなのだろう。幼いころから書架に通い、それに加えて色々な発想・発明をする殿下は、「常識」以外のことでは常に正しい。
むしろ、何故、常識に疎いのかが分からない。確かに、世話係であった妻も同僚も、それぞれに癖の強い人間性ではあったが、それでも常識が欠落しているわけではない。
王爵家の者という時点で、一般的な意味の常識とは縁がないのかもしれないし、多少の非常識を埋めたうえで山を作れるほどに、その長所は大きいのではあるが。
まあ、良い。
殿下は大切な人ではあるが、俺にとって今、アリアとその子に勝る重要事項ではない。そも、仮にそうであっても、頭を捻るのは俺の担当ではないのだ。
浴室に移動して、桶を用意する。
それを魔術で作った水で清潔に流した後、水と火の魔術を組み合わせてお湯を作る。
温度は確か、体温よりも高いくらいであったはずだ。本当は高ければ高いほど良いらしいが、そのくらいにしなければ火傷してしまうからな。
左手を耳の穴に、右手を桶の中に入れて、温度を比べる。ちょっとぬるい。火属性魔術を行使……、こんなものだろう。
左手も桶の中に入れて、入念に洗う。
掌を擦り合わせる。手の甲を左手から順に洗う。手を組んで、指の間もしっかりと洗いこむ。親指を反対の手で握り、捻るようにして洗う。最後に手首までしっかり擦る。……こんなものだろう。
桶の中の汚れた水を捨てて、食堂に戻った。
さて、次は何をしよう。
相当に入念に洗ったものだが、所詮は手を洗っただけだ。大した時間は経過していない。
本当ならば、真面目に仕事でもしていた方が良かったのかもしれない。いや、仕事が手につくはずも無くって、邪魔だから家に帰れということだったのだろうか。
そういった意味も多少はありそうだ。現に今の俺が、この場で役立たずなのは明白で、それは職場ならばなお顕著だろうことは、俺自身が最も理解できる。
結論としてはやることがなく、先程と同じように、貧乏ゆすりをするのが精々だった。
本当ならば、座っていることがしんどいレベルで落ち着かないのだが、意味もなく歩いたりすると怒られるので大人しく座っている。
それが起こられるだけならば痛くもなんともないのだが、アリアや子供に関係することだと思うと、彼女たちの邪魔をするわけにもいかないのだ。
その後、一度だけ用を足すために席を立った。
手も洗いなおした。お湯で二度も洗ったせいで、手の油分が不足している気がする。気にするほどのことでもないのだが、やることがなさ過ぎて気になってしまった。
長すぎると思いつつも、初産では長引くことが多いということを思いだした。
俺は直ぐに出て来たらしいが、兄貴は半日ほど粘ったらしいからな。
どちらも、親父から聞いた話だ。
家に書類を持ち帰って、処理し終わったとか。そして、俺の時にも同じようにしようと思ったら、半分も出来なかったという。その書類の量が頭の良さなのではなかろうか。兄貴は俺よりも弱いが、頭は良い。
何を考えているのだ俺は。
王城から鐘の音が聞こえてくる。打たれるのは四回。つまりは、昼食の時間だ。
けれども、それを準備する者はいない。
足音は大きくなり、アリアの喘ぎ呻く声も大きくなる。
産婆の声が聞こえる――「もう少し、出てきてるよ、いきんで!」
そうか、もう少しなのか。
頑張れアリア。
頑張れ我が子。
俺には応援することと、祈ることしかできない。
そして、暫し後、産声が上がった。
人から「元気」だけを濃縮したような、始まりの叫びを。
でも、まだ実感が湧かない。父親になったという実感が。
一人の侍女が俺を呼びに来た。
龍鱗族の特徴である尻尾を嬉しそうに左右に振りながら、無表情で、レザラは俺に正対した。
「旦那様、お生まれになりました。元気な男児です。奥様も、旦那様に会わせたいと」
「そうか」
そうか、としか言えなかった。実感が湧いていない今の俺は、もしかしたら目の前の侍女よりも無表情かもしれなかった。
彼女の後ろについて移動し、アリアの部屋に入る。
俺にとって最も大切な人が寝具の上にいて、彼女は小さな子供を抱えている。
急速に実感が湧いてきた。
俺は今日父親になって、妻と、そして我が子を護っていくのだ。
「あなた、ミハイル」
アリアが柔らかい笑みを浮かべる。
俺も微笑みを返し、更に近づいて我が子を見る。
アリアと同じ色の銀髪で、赤ん坊特有の丸い顔だが、それでも将来は美男子になるだろうと思われた。
ああ、こういう時には、なんと言うのだっけ。
普通は「でかした!」とからしいが、どうにもしっくりこない。
結局言葉は出てこなくて、赤ん坊に対してのコメントになってしまった。
「可愛いな。きっと将来は、アリアに似て、美形になるぞ」
「ミハイル、あなたに似ても美男子になりますよ」
もう一度赤ん坊に目を向け、そしてアリアに目を移した。
視線が交わって、何となく恥ずかしくて同時に笑う。
アリアの表情は母親のソレで、今までよりも、無邪気さが減って、優しさの多い笑顔だったように思う。
「名前は、既に決めたのですか?」
「勿論。アリアは?」
「決めましたよ。とっても素敵な名前を」
「俺は勝つことによって幸せを手に入れた。だから、与える名前は、勝利」
「私は争いも事件もない今の暮らしが好き。だから、与える名前は、平和」
俺たちの付けた名前は、偶然か必然か、二人の殿下と同じ名前だった。
きっと、聡明で強い子に育ってくれるだろう。そもそも、俺たちの子なのだから。
アリアから子供を受け取り、優しく抱き上げる。
「お前は、ジークだ。
従四位侯爵家第三男孫ジーク・フリード・フォン・シュヴァルツシルトだ!」
ジークは、驚いたのか、喜んだのか、大きな鳴き声で返事をした。
何とかあやすことが出来た俺は、アリアと一緒に笑い合った。
今日から、我が家は三人になった。